攫ってあげる 1
リーニ・エルラグド。大国エルラグドの王ヴェリオルと王妃イリスの間に生まれた第一子であり、エルラグド国の未来の女王。現在八歳。
大国を背負うべき宿命を負った少女は今、一枚の姿絵に目を奪われていた。
銀の髪に赤みがかった瞳。珍しい瞳の色に一瞬驚くが、その赤はどこか温かみがある。
「さすがお目が高い。そちらは今大人気のトバッチ国サン王太子の姿絵でございます」
商人が笑顔で説明してくる。王太子は十七歳であるらしい。
トバッチ国とはどのあたりにある国か。リーニには分からなかったが、額縁の中で微笑みかけてくる王子が素晴らしい美少年であることは間違いない。
横から絵を覗き込み、イリスが首を傾げる。
「随分と整った顔ね。本物よりずっと良く書いているのではないのかしら」
しかしそれに、商人が首を振る。
「いえいえ、むしろ本物のほうが素晴らしすぎて絵では表しきれておりません」
「本当に?」
「はい。一度だけですが、実際にお会いしたことがございます」
ふーん、とイリスがまだ信じ切れていない様子で唸る。そのイリスを、夫であるヴェリオルが抱き寄せた。
「……陛下」
「他の男の話などするな」
「やめてください。こんな人前で膝の上になど乗りません」
「その商人が持ってきたもの、好きなだけ買ってやる」
その一言でイリスが大人しくなり、商人が目を輝かせた。
「リーニ、お前もそんな絵は捨てて、他に何か選べ」
イリスに装飾品を買ってやるつもりで呼んだ商人だが、ヴェリオルはついでにリーニにも何か買ってやるつもりでいたのだ。次女はお洒落が好きだが、どちらかと言うと装飾品よりドレスに興味がある。三女と四女はこういうものにはあまり興味を示さない。リーニは良くも悪くも普通の反応だ。
「……お父様」
「なんだ?」
「私、この絵が欲しい」
ヴェリオルが眉を寄せる。
「そんなものは捨てろと言っている」
「嫌」
「リーニ」
「嫌」
「リー……」
と、そこでヴェリオルの膝に座っていたイリスが会話に割って入る。
「いいではありませんか、絵の一枚や二枚。ケチくさい」
「ケチとかそういうことではない」
「リーニがこんなに欲しがったことがありますか?」
「…………」
そう言われればないと、ヴェリオルは思い出す。リーニは欲しいものを姉妹や他人に譲ることのできる子で、それが逆にヴェリオルを不安にさせていた。優しい子、良くできたお姉さんと言えばそうなのだが、為政者として果たしてそれはどうなのか。
「お父様、これが欲しい」
「…………」
ヴェリオルは不機嫌な表情で商人に視線を向けた。
「すべて置いて帰れ」
一瞬目を見開き、それから満面の笑みを浮かべてへこへこと頭を下げる商人にさっさと出ていけと手を振り、ヴェリオルはリーニに向き直った。
「ありがとう、お父様!」
リーニが笑顔で礼を言う。
きらきらと輝く瞳を向けられれば悪い気はしない。執着をみせたことも悪くない。それにまあ所詮絵なのだからとヴェリオルが己を納得させようとした、その時、
「私、この王子様と結婚したい!」
リーニの口からとんでもない言葉が飛び出した。
なに、とヴェリオルが目を見開く。
「お父様、私このひとをお婿さんにしたいの」
これにはヴェリオルも内心動揺した。まだ八歳だ。王族や貴族は生まれてすぐに婚約者が決まる場合もあるが、リーニにはまだ婿候補さえいない。
「まだ早いだろう」
できれば政略結婚ではなく好きな相手と一緒になってほしいという親心はあるが、それにしてもまだ早すぎる。しかしリーニは首を横に振る。
「この王子様がいいの!」
リーニの瞳の輝きは、恋する乙女のそれである。
「父様のほうが、いい男だろう?」
「この王子様のほうが素敵だもの!」
「いいや、父様のほうが……」
そこで、やめてくださいとイリスがヴェリオルの肩を叩く。
ヴェリオルは舌打ちをして、イリスを抱いたまま立ち上がった。
「欲しければ自力で何とかしろ」
「自力で……?」
「今のお前では無理だろうがな」
そのまま部屋から出ていく両親を見つめ、リーニも絵を胸に抱いて立ち上がる。
自力でとは、どうすればいいのか。
リーニは小走りで自分の部屋まで戻ると、乳兄妹のケントを呼んだ。
「なんだよ、鍛錬中だったのに」
突然呼び出されて不機嫌な幼馴染を椅子に座らせて姿絵を見せる。
「……これはなんだ?」
「トバッチ国のサン王太子よ」
「……で?」
「欲しければ自力で何とかしろと言われたの」
「……で?」
「協力して」
「…………」
ケントは溜息を吐いて顔をしかめる。
「そんなことで呼び出したのか」
「そんなことって何よ!」
リーニにとっては重要な事柄である。
「この王子様はね、私のお婿さんになるの」
「……こいつが?」
ふーん、と姿絵を見つめ、ケントはリーニに視線を向ける。
「顔で選んだだけか」
「違うわよ! 性格もいいのよ! ……きっと」
こんなに見目よくて優しく笑う人なら性格も良いに違いないと力説するリーニに、ケントは鼻を鳴らした。
「見目よくて優しく笑っている陛下の姿絵があったよな」
「う……」
確かにある。イリスと共に描かれた絵だ。ちなみにその絵のイリスは絵師の努力と技術でそこそこの見た目となっていた。
「絵なんてそんなもんだろ。優しく笑う陛下の真実の姿は……」
それ以上は言わなくても分かる。王としては優秀でも、真の姿はただの変態だ。特にイリスに関連することへのその変態ぶりは、娘でも目を逸らすほどなのだ。
「で、でも、でも、サン王子はきっと本当に優しくて素敵な方なのよ! そうよ、会ったら分かるわ!」
会う、という言葉にケントは首を傾げる。
「会うってどうやって。トバッチ国まで何日かかると思う?」
「……遠いの?」
「遠いな」
馬車で行けば何日もかかるとケントは教える。それだけの期間国から出ることが、王太子でありまだ子供であるリーニに許されるわけがない。
「でも、会いたいわ!」
リーニのいつにない我が儘ぶりに、ケントは困って唸った。
「……とりあえず、情報だけ集めてみるか。会うにしたって、どんな王子様なのか事前にある程度分かっていたほうがいいだろう」
その言葉に、リーニの表情がパッと明るくなる。
「調べてくれるの? ありがとう!」
はいはい、と軽く手を振ってケントは立ち上がる。
「じゃあな」
「お願いね」
「ああ」
ケントが部屋から出ていく。それを見送ったリーニは、笑顔で姿絵を見つめた。
絶対にケントはよい結果を持ってくるに違いない。素晴らしい王子様のようだぞ、と。
「うふふ!」
リーニはサンの絵にチュッと口づけた。
そして――。
「おい、朗報だ」
突然部屋にやってきたケントが、勝手に椅子に座って勝手にテーブルの上の菓子を食べる。
それはいつものことなのでいいのだが、
「朗報っていうのは?」
カップの中の茶を飲み干して、ケントはその内容を伝えた。
「サン王子とやらが、他国の式典に招待されているらしい」
それがどうして朗報なのかと首を傾げるリーニにケントは教える。サン王子を式典に招待している国というのはエルラグド国から近く、急いで行きサン王子を見て帰ってくるだけなら三日程度で済みそうだ、と。
「あれこれ調べるよりも、直接見たほうがどんな奴か分かるだろう? どうする?」
突然の話にリーニは戸惑う。
「どうするって、行きたいけど……」
直接会えるというのなら会いたい。だが両親は許してくれるだろうか。
買ってもらった時から肌身離さず持っている絵をリーニは見つめる。
……いや、許してくれなくても行くべきだ。
リーニは決意し、ケントに視線を向ける。
「三日、病気になる」
話しても許されない可能性が高いなら、初めから何も話さずに仮病を使って抜け出したほうがいい。そしてその為には医師を買収しなくてはならない。自分にそれができるだろうかとリーニは拳を握る。
「三日じゃ短い。その前後数日も病気ということにしろ」
ケントの言葉にリーニは頷く。
「それからジンを使ったほうが簡単だ。お前が謎の病気にかかり、ジンが来るという筋書きでどうだ?」
なるほどとリーニは感心した。何の病気か分からなければ伯父であるジンが診ることになるだろう。あれこれ怪しい研究をしているジンは、そういう時いつもヴェリオルから頼りにされるのだ。
「ジンに話をつけてくれる?」
「ああ。お前はその式典の行われる三日前から病気になれ。抜け出す手段なんかはこちらで考えておく」
「分かった」
頼りになる幼馴染がいてよかった。そして、もうすぐサン王子に会える。
リーニは高鳴る胸を両手でぎゅっと押さえた。




