究極の選択 終
ヴェリオルがまだ王太子だった頃、王位継承争いが激化した。
妾腹ではあったが優秀な王子――ヴェリオルの兄と、それに比べればどうしても劣ってしまう王太子ヴェリオル、そのどちらが次期王にふさわしいかで意見が分かれたからだ。
毒を盛られるのも暗殺者が送り込まれるのも日常と化した異常事態。誰も信じられないような状況の中、ヴェリオルの味方は少ない。常に警戒していなければいけないような状況の中、その数少ない味方の中で、更に絶対に己に危害を加えない者、それは母親だった。
その母親――現王太后になるが、その母親は、ヴェリオルを溺愛していた。実の子だから、というだけではないその理由は……。
「割愛いたします」
「何故ですか!」
「まあ簡単に言いますと、王太后様の意地でもあったのでしょうな。子を王にするというのは」
とにかく、王太后は溺愛しているヴェリオルに頬ずりをしてこう言うのだ、『可愛いヴェリオル。あなたが次の王となるのよ』と。
子供には酷すぎる環境、与えられる過剰な愛。そんな中、知ってしまった真実――。
「真実と言うのは?」
「なんと言いますか。もう過去のことですから」
「言えないようなことを中途半端に教えないでください」
母親のことさえ信じられないような状態になったヴェリオル。だけど、あの頬ずりだけは、あの温もりだけは真実だと思いたい。愛だと思いたい――いや、あれこそ愛だ!
「ということで、頬ずりとは陛下にとって愛そのものと言ってもよいほど大きなものとなったのです」
「…………」
なんて雑な説明だ、とサンは唖然とする。
「そしてイリス様と出会い、子が生まれ、当然陛下はイリス様にもお子様にも愛をこめて頬ずりをします。ところが……」
最初はまだよかったのだ。だが少し大きくなると、子たちは頬ずりをする父親を気色悪がり、拒絶するようになった。そして妻は、金を払わないと頬ずりをさせてくれない。
ヴェリオルの、妻と子に対する溢れんばかりの愛は行き場を失った。
「それはもう、涙なしでは見ていられないような状態でした。愛を発散させるためだけに、妻に大金を払って頬ずりさせてもらうのですよ」
サンは顔を引きつらせる。自国の王が頬ずりさせてもらうために大金を払っているのを見たら、それは泣いてしまうだろう……情けなさ過ぎて。
「だけど、たまに金を払って頬ずりするだけではとても追いつかないほど、陛下の愛は深かったのです。そんな状態が何年も続き、そして――」
ガルトが身を乗り出す。
「――あなたが現れた」
「現れたのではなく攫われたのです」
頬ずりをしても拒絶しなかった。金を払わなくても頬ずりさせてくれた。実は男の子も欲しかった。剣の稽古をつけて『お父様強いです!』とか言われてみたかった。
溜めに溜めていたヴェリオルの愛は爆発した。
「まあ、今は嬉しさと愛しさが爆発状態なので少々おかしくなっていてしつこくて気色悪いですが、少しすればましになるでしょう」
「まし、ですか? やめるのではなくて?」
そうですなあ、とガルトは顎に手を当てる。
「孫でも生まれれば愛も頬ずりもそちらに移るかもしれませんが、それまではサン様が陛下の愛を無償で受け止めてくださればよろしいかと」
「何故わたしが犠牲にならなくてはいけないのですか!」
「犠牲ではありません、愛です。そう思い込んで頑張ってください。これも仕事の内と割り切ればいいでしょう」
「…………」
なんてことだ、とサンは頭を抱える。ガルトの言っていることは真実なのだろうか? 嘘っぽい感じもするが、もしや皆でからかって遊んでいるだけとかそういうことではないのか。いや、むしろからかわれていただけのほうがずっとありがたい。
「さあ、そろそろ仕事に戻りましょう」
肩を叩かれたが、今日は集中できそうにない。
しかし仕事は待ってくれないので、ガルトに手伝ってもらって何とかこなす。そうしていると、ネイラスとヴェリオルが来た。
「う……。ガルト様……」
ガルトを見たネイラスが顔を引きつらせる。ネイラスにとって、おそらくガルトは唯一頭の上がらない相手なのではないだろうか。
ヴェリオルがサンの前に立つ。
「おい」
「……はい」
「今日は剣の稽古をつけてやろう」
「…………」
剣の稽古……これはガルトの話は本当か。しかし、
「剣ならエミリア様のお相手をしてはいかがですか?」
三女のエミリアの名を出せば、ふん、とヴェリアルが鼻を鳴らす。
「あれでは相手にならん。いいから来い」
「仕事が……」
「ガルトが来ているだろう」
いってらっしゃいませサン様、とガルトも言うので、渋々サンは立ち上がってヴェリオルに付いて中庭へと行く。
「さあ、どこからでもかかってこい」
「…………」
赤騎士やケントほどではないが、ヴェリオルも強い。
稽古をつけてもらえるというのならそれはそれでいいかもしれないと、サンは無理やり気持ちを切り替えて練習用の剣でヴェリオルに向かっていく。
サンも決して弱いわけではない。だがそんなサンの攻撃を、ヴェリオルはことごとく防いで流していく。
「踏み込みが甘い! 判断が遅い!」
時々繰り出す攻撃で、ヴェリオルはサンを追い詰めていく。そして、
「…………っ」
サンが剣を落とした。
痺れる手を反対の手で押さえ、サンは片膝をついてヴェリオルを見上げる。
ヴェリオルは何も言わず、じっとサンを見つめる。だがその口は弧を描き、目は輝いている。
これはもしや……。
サンはごくりと唾を飲み込んだ。
期待されている、これはあの言葉を絶対期待されている!
ヴェリオルが何を求めているかは分かった。しかし何故己がわざわざ言ってやらなくてはならないのか。
地面の剣に手を伸ばせば、素早く剣を足で踏まれた。
「…………」
「…………」
ヴェリオルの目の輝きが強くなる。
絶対に待っている、あの言葉を言うのを!
二人の姿に気づいた者たちが、足を止めている。見物人が増える前に、ここを去りたい。
(そんな目で見つめないでくれ……!)
サンは震える唇をゆっくりと開いた。
◇◇◇
ごりごりと、体力と精神を削られた。
仕事を終えて湯に浸かっていたサンは、深い溜息を吐く。もう今すぐ寝てしまいたい、だが寝れば朝が来る、朝が来れば仕事をするために執務室に行かなければならない、するとヴェリオルが来て……。
「…………」
割り切ればいいのか、だが納得ができない。この国に来てから納得ができないことばかりだ。
湯から上がり、自分で寝衣に着替えてベッドに行けば、お約束のようにリーニが待っていた。しかもいつもより熱っぽいうるんだ目をしている。
どうしてだ、と考えてサンは思い出す。そういえば今朝、深い口づけをして放置したのだった。その先を期待しているから、そんな顔をしているのか。
「サン様……」
声まで、リーニにしては色っぽい。
「疲れているのです」
あなたの父親がおかしいから、と心の中で言ったところで、ふとガルトの言葉が頭の中で蘇る。
『孫でも生まれれば愛も頬ずりもそちらに移るかもしれない』
孫……。
サンはじっとリーニを見つめる。その方法なら目の前にある。食べても食べなくても道は一つしかないのならば、しゃぶり尽してしまえばいいではないか。しかし……。
サンはベッドに身を横たえた。
頬ずりか、子が生まれるまで励むか――。
「究極の選択だ……」
呟くサンの上にリーニが飛び乗ってきた。それを受け止めて、サンはまた溜息を吐いた。