究極の選択 2
サンの朝は早い。
あくびをしてベッドから抜け出し、リーニに布団を掛ける。と、
「サン様……?」
リーニが薄く目を開けた。
「まだ早い。寝ていなさい」
頭を撫でてやれば、リーニが両手を伸ばしてくる。口づけをねだられているのか。
それくらいならと、サンが顔を近づける。が、そうではなかった。リーニはサンの頭を抱え込み、
すり……すり……すり……。
頬ずりをしてきたのだ。
目を見開き、サンは慌ててリーニを引きはがす。その衝撃で、寝ぼけていたリーニはしっかりと目を覚ました。
「え? なに?」
きょとんとするリーニ。そんなリーニを凝視するサン。
今のこの頬ずりの仕方、それはまさしくヴェリオルと同じものだった。何故、何の意味があってこんなことをしたのか。
「サン様?」
再び伸ばされたリーニの手を掴む。
今、訊くべきだろう。サンは覚悟を決めて口を開く。
「今のは?」
「なに?」
「頬ずりです」
それが何か、と分からない様子でリーニは首を傾げる。
「何故、頬ずりを?」
訊き方を変えれば、ああ、とリーニは頷いた。
「だって、愛情を伝えるには頬ずりでしょう? お父様が昔よくやってくれたわ。気色悪いから物心ついた頃からは断固拒否していたけど、こうして自分に愛しい人ができると、頬ずりするお父様の気持ちも理解できるわね」
愛情? 伝える?
「…………」
では愛されているというのか。それは、どういう意味で?
「わかりました。ありがとうございます」
若干の不安を抱えたまま離れようとすれば、リーニが不満げな表情をする。
「待って、朝の口づけ……を……!?」
今は執務室に急ぎたい。サンはリーニを抱き寄せて深く口づけし、舌を絡める。
リーニは目を見開いて固まっている。応えない舌をサンは強く吸った。
大胆なことをする割には、中身は穢れていない。慣れてもいない行為を懸命に誘う姿も、こうしてみれば笑えるものだとサンは目を細める。
ちゅぽん、と音を立てて口を離し、サンはリーニをベッドに転がして布団をかぶせる。
「おやすみなさい、姫」
返事はない。
サンは着替えて身なりを整え、執務室に向かう。そして仕事をしていれば、いつものようにヴェリオルがドアの隙間から覗いてきた。
「おはようございます、陛下」
今まではヴェリオルを見ないように、できるだけ現実逃避をしてきたが、いつまでもそのままでいいはずもない。いまこそ勇気を振り絞る時なのだ。
じっと見つめれば、見つめ返される。正直逃げたい。とんでもない答えが返ってくる可能性もまだ十分残っている。
目を見つめたまま、ヴェリオルが近づいてくる。
「…………」
「…………」
いつもと違うサンの様子にヴェリオルは眉を寄せ、しかしいつもと同じように手を伸ばしてくる。が、
「お待ちください」
今朝はそれをサンが制した。
「……なんだ?」
不機嫌な声。だが、初めて無言ではない。
サンは自分の身を守るように掌をヴェリオルに向けたまま、思い切って疑問をぶつける。
「……何故、頬ずりをするのですか?」
するとヴェリオルの瞳に、あきらかに怒りの炎が宿った。
「何故、だと?」
しまった、失敗した――。
そう思った時にはもう遅かった。髪をヴェリオルに掴まれて引っ張られた。ぷち、ぷち、という音が聞こえたから、何本か抜けたか。
徐々に核心に迫るような訊き方をすべきだったと今更後悔しても遅い。椅子から落ち、床に転がる体を受け身で守る。すぐさま襲ってきた靴先を躱す。
そして床に座って見上げれば、ヴェリオルは怒りに震えてサンを見下ろしていた。
「リーニが選んだ相手だからと我慢してやっているのに、何が不満だ」
我慢するのと頬ずりがどんな関係があるのか。
「娘をとられて不愉快ではあるが、息子として受け入れて多少は目をかけてやってもいいと思っているのに、それが気に入らないか。貴様のような者を仕方がないから息子として愛そうと努力している俺を笑うのか」
サンは目を見開いた。つまり、必死に受け入れようとして、愛そうとして頬ずりをしていたのか。
……なんと迷惑な。
そしてそれならそうと口で言ってほしかった。別の方法で愛情を示してほしかった。いや、そもそも愛が欲しいとは思っていないが……。
「選べ。死か頬ずりか」
また迫ってきた靴先を、サンは避ける。
何故その二択なのか。
「他に、何か方法は?」
「ない」
「陛下のお気持ちは十分に分かりました。ですからもう……」
「もう、なんだ?」
避けた、と思った靴先が頭をかすめてひやりとする。
もう頬ずりはやめてくれ、と言った瞬間命が危うくなるだろう。死にたくない。だからといって黙って頬ずりをされるのも嫌だ。
サンの迷いをどう受け取ったのか、ヴェリオルの手が伸びてくる。
ああ、殺される――。
最後の抵抗をしようとサンが身構えたとき、
「……何をなさっているのですかな」
神の声――いや、元宰相ガルトの声が部屋に響いた。
驚いて視線を向ければ、ガルトが訝しげな表情で執務室に入ってきていた。
「ガルト、何をしに来た」
ヴェリオルの手が引いた。
「歳をとると目覚めが早くて……。散歩がてら城まで来て、ついでに執務でも手伝おうと思ったのですが、お邪魔でしたか」
踵を返そうとしたガルトを、サンが慌てて引きとめる。
「お待ちください! 邪魔などではありません!」
今帰られては、本当に殺されるかもしれない。
「ふむ。サン様、これはいったいどういう状況ですか」
「それは……」
サンが口ごもり、ガルトの視線はヴェリオルに向けられる。
「危害を加えようとしていたようにも見えましたが」
ヴェリオルが鼻を鳴らす。
「選ばせていただけだ」
「何を、ですかな?」
「…………」
「言えないようなことをしていたのですか。イリス様に報告いたしましょう」
ガルトの言葉に、ヴェリオルが顔を顰める。
「何故ここでイリスの名が出てくる」
「言えないようなことをしていたようなので」
「別に言えないようなことではない。ただ……こんな奴でも息子になるので、仕方なく可愛がってやろうとしていただけだ」
「それはどうやって?」
「…………」
イリス様に報告を、とガルトが踵を返しかけたので、ヴェリオルは渋々答える。
「頬ずりをしてやろうとしていただけだ」
ああ……、とサンは項垂れる。あまり他人に知られたくない事実だ。
ガルトはそんなサンを一瞬見て、それからヴェリオルに視線を戻す。
「ほう、頬ずりを……。しかしその様子では、拒絶されたのですかな?」
ぴくり、とヴェリオルの体が動く。
ガルトが溜息を吐いた。そして、
「まあ、それも致し方ないことでしょう。サン様は照れ屋でございますから」
……なに?
と、サンとヴェリオルが同時に思う。
特にサンは、己が照れ屋だという自覚がない。何の話だとガルトを見つめた。
「照れているだけですので、存分になさるといいでしょう」
ちょっと待ってくれ、とサンがガルトに手を伸ばす。
「心配無用ですよ、サン様。仕事なら爺やが手伝って差し上げます。さあ、爺やのことは花瓶だとでも思って存分に可愛がってもらってください。本当は嬉しいのでございましょう?」
嬉しくない、嬉しくなど全くない!
どうしてだ、なんてことを言うのだと茫然としている間に、いつの間にか鼻息が近づいてきていた。
「…………!」
抱きつかれ、頬に感じる温もりとちくちくとした痛み。
すり……、すり……、すりすりすりすりすり……!
お、お髭が痛いの国王陛下……。
せめて綺麗に剃ってからしてほしいのと、現実逃避をしている間に頬ずりは終わった。
「おや、もうよろしいのですか、陛下」
ヴェリオルは頷き、執務室から去っていく。
パタン、とドアが閉まる音が響くと、ガルトはサンに手を差し伸べた。
「さあ、椅子に座って。頬が赤くなっているので冷やしましょう」
「……何故」
「説明は後で。とにかく座ってください」
納得できないまま椅子に座り、ガルトが洗面所で冷やしてきた布を頬に当てる。
ガルトはサンの前に椅子を一つ持ってくると、ふう……と息を吐いてサンを見つめた。
「どこから話したらいいでしょうか……」
そしてガルトは、頬ずりの秘密を語り始めた。




