究極の選択 1
サンの朝は早い。
朝日と共に目覚めるとそっとベッドから抜け出して、まだ眠るリーニに布団を掛ける。そして侍従の手を借りることなく着替え、身支度を整えて部屋を出て執務室へ行く。
執務室に入れば今日やるべきことを確認し、書類仕事を始める。午前に会議があるので、それまでに纏めておかなければならない資料があった。
祖国で王太子だったサンは、ここでは宰相見習いだ。他国から来ていきなり宰相見習いというのもなかなかない話だが、そのうえ未来の王配でもある。望んでそうなるわけでは決してないが、己の身を守るためにはある程度周囲に認められる働きをしなければならないことは確かだ。
帰る場所はない。
逃亡してしまいたいとも思うが、実際そうしたところで、その後どうやって生活していけばいいのか。
だから、ここで生きるしかない。
そうして仕方がないのだと自分に言い聞かせ、まだ薄暗い部屋の中でペンを手に取り仕事をしていれば――、
「…………っ」
視線を感じる。
陰から届く気配はリーニと似ているがリーニではない。それは……、
「……おはようございます、陛下」
薄く開けたドアの隙間から覗いていたヴェリオルが、サンの挨拶を合図にして入ってくる。
サンの朝は早い、が、ヴェリオルの朝も早い。毎朝この時間にヴェリオルはサンの元を訪れるのだ。
ヴェリオルはサンの横に立ち、椅子に座って仕事をするサンをじっと見つめる。
居心地の悪さを感じながら、サンは書類から目を離さない。するとヴェリオルの手がサンに伸びてきた。それでもサンは書類から目を離さない。
両手で頭を固定され、近づく鼻息。そして――。
すり……、すり……、すり……。
お髭が痛いの、国王陛下。
と、何故か女言葉がサンの頭の中でこだまする。そう、ヴェリオルはサンの頬に自分の頬をこすりつけているのだ。
いわゆる頬ずりというものであるこれを最初にやられたのは、この国に来て間もない頃、初めて国王ヴェリオルと対面した時だった。あの時も衝撃だったがそれ以来されることもなかったので、あれはきっと幻覚だったのだとサンは己を納得させて忘れようとした。しかし、
「…………」
こうして早朝から執務をし始めた数日後、それは再びやってきた。
隙間から覗く瞳、抱きかかえられる頭、頬のちくちくとした痛み……、固まるサンに無言で頬ずりをし、去っていくヴェリオル。
そしてその日から、毎朝薄暗い時間にやってきてはこうしてヴェリオルはサンに頬ずりをするようになったのだ。
今日もひとしきり頬ずりすると、無言のままヴェリオルは去っていった。
ドアが閉まる音が響き、サンは深く息を吐く。
なんなのだ、これは。
リーニの夜這いにはもう慣れた。というか今では起こされるのが面倒なので最初から一緒に寝ている。だがこれには一向に慣れない。そもそも無言であることが不気味だ。
もしやそういう趣味かと一瞬疑いもしたが、王妃への溺愛ぶりをみれば、そういうわけでもないらしい。では嫌がらせなのかといえば、それも違うような気がする。頬ずり以外はこちらが戸惑うような行動はしてこない。
誰かに訊こうかとも思ったが、訊いて引かれるのも考えもしないようなとんでもない答えが返ってくるのも恐ろしくて、結局この事実を胸に隠している。
溜息を吐き、サンは黙々と仕事を続ける。そうして暫くすると、宰相ネイラスがやってきた。
「ちゃんと仕事をしていますね」
「はい」
ネイラスと共に執務をこなし、軽食を摂り終わった頃に、再びヴェリオルは執務室にやってくる。
「おはようございます、陛下」
「……おはようございます、陛下」
二度目の朝の挨拶に、ヴェリオルは頷くだけの返事をする。まるで今日初めて執務室に足を踏み入れたという様子で己の机まで行って椅子に座り、ネイラスが今日の予定を伝え、書類を渡す。
ヴェリオルは会議の資料に視線を向けた。
「これは誰が作った」
「サン様です」
ヴェリオルはちらりとサンを見て鼻を鳴らす。
「…………」
知っているはずだ、その資料を作ったのが己だと。朝見たのだから。それなのに知らぬふりをして何故訊くのか。
サンは心の中で疑問を投げかける。が、当然答えは返ってこない。
「まあ、いいだろう」
及第点だということか。サンが苦労して作った資料を無造作に置き、ヴェリオルは自分のやるべきことを始める。
そうして会議の時間になり、三人は会議の間へと移動した。
部屋に入ればそこにはリーニもいて、サンを見て小さく手を振る。それを無視してサンはヴェリオルの横に座った。ヴェリオルを挟んでリーニとサン。サンの横にネイラスである。
この席順で座るように初めていわれた時、宰相が王の横に居たほうがいいのではないかとサンは訊いたが、ヴェリオルもネイラスもこれでいいと言った。次の王が誰かということを知らしめる意味があるから、と。
そして王配には己がなることも決定なのかと、サンは逃げられない現実を突きつけられた。納得できなくても覚悟はしなくてはならない。
会議では、様々な立場のものが様々な意見を出す。最終的な決定権は王にあるが、そこまでは比較的意見を言いやすい環境だということが窺える。昔は雰囲気も悪く、一部の者の意見だけが通るような状況だったが、それを変えたのがヴェリオルらしい。
優秀であるのだ、この国の王は。学ぶべきことも多い。ただ、そうなるとますますあの謎の行動が気になるのだが。
「おい」
声を掛けられて、サンは背筋を伸ばす。
「はい」
「お前はどう思う?」
最近では、意見を訊かれることも多い。しかし何故次期王となるリーニではなく己に意見を訊くのかとサンは内心首を傾げる。慎重に考えを述べれば、ヴェリオルは頷いてそれでいこうとサンの意見に賛成する。そしてリーニに意見を訊くことなく方針は決まり、会議は終わった。
「リーニ姫の意見は訊かなくていいのでしょうか」
思わずネイラスに小声で問えば、ヴェリオルが鼻を鳴らす。
「リーニがお前の意見に頷いていた。だからそれでいい」
つまり、今はあなたの能力を皆に知らしめることを優先しているのだとネイラスは言う。リーニの優秀さは皆既に分かっているから、と。
「優秀……」
なのですか、という言葉をサンは飲み込む。サンはまだ、リーニの優秀さを欠片も見ていない。大胆さは持っている、行動力もある、ただし悪い方向に。
執務室に戻り、仕事を続ける。そして夜になれば仕事をそこでいったん止め、晩餐となる。今日は皆で食事をするらしい。皆、というのは国王一家のことだ。
食堂に移動し、大きなテーブルを囲んで座り、王の合図で食事が始まる。
次の夜会の為に新しいドレスが欲しいの、と言うのは次女のシェリスだ。これ以上作ってどうするのだと言うリーニともめている。
三女のエミリアは騎士の正装で出るので問題ないと言い、四女のクレアは……もしかして夜会に出たくないのか、少し暗い表情をしている。
そして王妃イリスは、夜会に出てやるから金を寄越せという内容のことを王に言い、王ヴェリオルはそれに笑顔で頷いている。
濃い、とサンは思う。食欲も減退するほどこの一家は濃い。だが今日は王太后がいないだけまだましだ。
優秀な王は、王妃のこととなると金銭感覚がおかしくなるのか、馬鹿みたいな要求を呑んでいく。溺愛ぶりが凄まじい。
この王妃のどこにそれほどまでの魅力があるのかとじっと見ていたら、ヴェリオルとリーニに激怒されたのでサンは俯き黙々と食事を摂ることにする。
食事を終え、執務室で少し仕事をしてから部屋に戻り、当然のように一緒に湯浴みをしようとするリーニを浴室から追い出す。湯から上がってベッドに入れば、隣の部屋で湯浴みを終えたリーニが既にベッドの中に潜り込んでいた。
裸で待たれると萎える、と以前言った言葉が効いていて、リーニはしっかりと夜着を着ている。それに若干ほっとして横になり目を瞑る。
「ねえ……」
「疲れているのです。休ませてください」
誰のために頑張っていると思う? と囁けば、リーニは大人しくなる。しかし、この言葉の効力もいつまで続くか分からないので、そろそろ次の手を考えなくてはならない。
疲れているのは本当で、サンはすぐに夢の世界へと沈んでいく。
ああ、今夜も悪夢だ――。