21(終)
「サン様、お茶はいかが?」
「…………」
「お菓子もあるの。とっても美味しいのよ」
「…………」
「ねえ、サン様!」
溜息を吐き、サンはリーニに視線を向ける。
「姫、執務室から出て行ってもらえませんか? 今日中に仕上げなくてはならない書類が山のようにあるのです」
机に積まれた書類の量に頭が痛くなる。大国の宰相というのは、これ程までに仕事が多いのか。――と言ってもサンはまだ宰相補佐でしかないが。
トバッチ国から帰ったサンに待っていたのは、宰相としての勉強と大量の書類だった。王太子だったのだから簡単な書類仕事くらいできるだろうという乱暴な理論で、サンはいきなり宰相ネイラスの仕事の一部を任されてしまったのだ。
「手伝うわ」
「結構です」
「じゃあ、肩でも揉む?」
「それも結構です」
頬を膨らませるリーニに邪魔だと手を振り、サンは書類に目を通す。
「ねえ、まだ帰りたいと思っているの?」
「何処に? わたしに帰る場所なんてありませんよ」
弟にまで売られてしまったのだ。それでいったい何処に帰れと言うのか。
トバッチ国の未来を考えれば、自分一人の犠牲で済むのならばそれもやむを得ないのかもしれない。だが、分かっていてもまだ納得はできていない。
「そうよね。あなたの帰る場所は、私のところしかないのだから」
そんなやり取りをしていると、ドアが開いて宰相であるネイラスが部屋に入って来た。
ネイラスはサンとリーニを見て眉を寄せる。
「私は書類を片付けておくようにと言ったのであって、姫といちゃつくようにとは言っていない筈なのですが」
サンが顔を顰める。
「これのどこがいちゃついていると?」
「照れ屋さん」
「リーニ姫は黙っていてください」
「いやん、リーニって呼び捨てにして」
「…………」
サンは立ち上がるとリーニを抱き上げる。
「こんなところで? サン様ったら大胆……!」
そしてドアまで行くと、廊下にぽいとそれを捨てた。
「この部屋には入らないこと。いいですね」
「じゃあ、今夜ベッドで待っているわ」
「行きません」
ドアを閉め、鍵もかける。
そして執務机に戻ると、サンは仕事を再開させる。
「仕事は順調に進んでいますか?」
ネイラスに訊かれ、サンは首を横に振る。
「邪魔が入ったので進んでいません」
「何をやっているのですか」
仕事をさせたいのなら姫を近づけさせないでくれ、という言葉をサンは飲み込む。言ったところで、鼻で笑われるだけだ。
「もし分からないことがあれば、なんでも聞いてください」
では、とサンは顔を上げた。
「何の価値もないトバッチ国の王族を婿に迎え、更に宰相としての勉強もさせるのは何故ですか?」
ネイラスはわざとらしく目を見開いて首を横に振った。
「価値が無いなんてとんでもない! 元王太子だけあって、国に関わる仕事についての基礎が既にできていて、そして丁寧。見た目が麗しく、また頭の回転が速いので交渉事にも最適。リーニ姫の横に並んでこれだけ似合う方はそうそういないでしょう」
婿に来る決意をしていただいて本当に感謝しております、とネイラスは頭を下げる。
わざとらしい物言いに、サンは頬を引きつらせた。
「いつからリーニ姫に加担していたのですか?」
「いつからとは? 私はリーニ姫が生まれた時から、いえ、生まれる前からこの国に忠誠を誓っているのですよ」
サンは思わず舌打ちし、書類を一枚掴む。
ドアをノックする音が聞こえるが、どうせリーニなのだろうと無視した。
「あまり冷たくしていると、陛下に叱られますよ」
「エルラグド王も、何を考えておられるのか。何故あれ程までに娘に甘いのですか」
「それはまあ、可愛い子供に甘いのは仕方がないことではないですか」
ドアが開いた。そして現れたのは――。
「また貴様がリーニを泣かしているのか!」
娘に甘い父親の登場で、サンの疲労は増す。
「泣かしてなどいませんよ」
「では何故あれ程までにリーニは悲しい顔をしていたのだ」
「気に入らないのならば、追い出してもらって結構です」
「誰が貴様を気に入らないと言った!」
「…………」
なんなのか、この国の王は。
そこに王妃もやって来る。
「陛下、なにをそんなに怒鳴り散らしているのですか、気色悪い」
この王妃の『気色悪い』は口癖なのだろう。
王妃の登場で機嫌が良くなった王は、王妃を連れて去っていく。仕事をさぼって王妃といちゃつく気なのだろう。
ネイラスが懐中時計で時間を確認する。
「ああ、もうこんな時間か」
後は任せましたと言いながら立ち去ろうとするネイラス。ところが、
「う……っ」
開け放たれたままのドアから入って来た人物を見て、その足が止まる。
「こら、ネイラス。何処へ行こうとしている」
入って来たのは、白髪の男――爺やだ。
爺やは眉を寄せてネイラスを見つめる。ネイラスの視線が彷徨った。
「いえ、少々用がありまして……」
「さぼる、の間違いではないのか?」
「違います。大切な仕事です。大変だ、急がねば! では、失礼します」
ネイラスが爺やに頭を下げて素早く部屋から出て行く。
逃げたな、とサンは溜息を吐いた。
「サン様、仕事は進んでいますかな?」
目の前に立った爺やに、サンは首を横に振る。
「いいえ。進んでおりません」
爺やが笑う。
「それはいけませんな。どれ、爺やが手伝って差し上げましょう」
「ありがとうございます、ガルト殿」
爺やことガルトが椅子を持ってきて、サンの横に座る。
「わたくしのことは、爺やと呼んでくださればよいのですぞ」
「元宰相殿を、そのようには呼べません」
下位貴族などとよくも言ったものだと、サンは内心で毒づく。
一位貴族で元宰相、ネイラスに宰相の座を譲って引退した後も、度々城を訪れては王や宰相の相談相手になったり、先程のように叱咤して仕事をさせたりしているらしい。
何かおかしい、とは思っていた。だがまさか、爺やが元宰相だなどとは思いもしなかった。
ガルトが溜息を吐く。
「爺やは寂しゅうございます。せっかく見つけた年よりの生きがいを奪わないでください」
大袈裟な、と横目で見つつ新たな書類を手に取る。そして書類に目を通してから爺やに訊く。
「ここに書かれていることを、もう少し詳しく教えていただきたい」
「ああ、それならば――」
勉強が得意というのと仕事ができるというのは違うと以前ガルトは言っていたが、ガルトは勉強も仕事も得意らしく、教え方も上手い。
「分かりました。ありがとうございます」
「いやいや、サン様は実に優秀な生徒で教えがいがありますな。ネイラスなどより余程立派な宰相となりましょう。王配として、これ程相応しい者はおりませんな」
「…………」
褒めてくれるのは嬉しいが、それは己が望んでいることではない。
心の中で深い溜息を吐けば、
「お茶を淹れたわよ。あ・な・た」
「…………」
先程入るなと言い聞かせたにも関わらず、ガルトが入って来たどさくさに紛れてリーニもまた部屋に入って来ていた。
差し出されたお茶を、仕方なく一口飲む。鼻に抜ける香りは独特で、サンが好んで飲む茶の味がした。
「……そこに、大人しく座っていてください」
リーニは途端に笑顔になり、サンの膝の上に座る。
そこ、というのはソファであって、決して自分の膝の上ではない。
「ほっほっほ。仲睦まじいようで、大変結構ですな。これでエルラグド国も安泰でしょう」
爺やが愉快げに笑う。
「…………」
サンはリーニを膝に乗せたまま、書類をまた一枚手に取った。