19
懐かしい城が見える。
まだ遠いそれを見つめ、サンは懐かしさと嬉しさと、自分のせいで襲撃が行われたことへの申し訳なさと、それらが混ざった感情が胸を渦巻いて苦しくなる。
「気分が悪いの?」
「いいえ」
サンの体調を心配しているのか、リーニの声には労わるような響きが含まれている。
馬車は城に向かって進み続ける。小さくしか見えてなかったそれがはっきりと姿を見せ始め――。
「…………?」
人が集まっている。
王城へと続く道、その両脇に集まった国民が、馬車の姿が見えた途端に歓声を上げた。
驚くサン。
「帰国は事前にトバッチ国に知らせていたのよ。王太子の帰国を知った国民がこんなに集まって……、あなたは本当に愛されているのね」
「…………っ」
溢れそうになる涙をサンは堪える。
「泣いてもいいのよ。私は向こうを向いているから」
リーニはそう言ったが、サンは首を横に振った。
「いいえ」
泣き乱れた顔を晒すわけにはいかない。それを国民が望んでいるわけではない。
サンは一つ息を吐くと一瞬で華やかな笑顔を作り、窓の外に手を振った。歓声が大きくなる。
その姿を見て、リーニは寂しく呟く。
「あなたは、やっぱり王太子なのね。この国を導く存在。この国に、民にあなたは必要とされている」
振り向いたサンに、リーニはサンに負けない程の極上の笑みを見せる。
魂の籠らない、美しい笑顔。
その完璧に作られた笑顔を窓の外に向け、リーニは手を振る。また歓声が大きくなる。
「素直な国民たち。こんな国で育ったから、あなたはそれだけ美しいのね」
手を振らなくていいの? と訊かれてサンは慌てて窓の外に手を振る。複雑に蠢く心を笑顔の下に隠して。
やがて馬車は王城の前に着いた。
サンは馬車を降り、続いて馬車を降りようとしたリーニに手を差し出す。
「あら、こんな私にまでそんなことをしてくれるのね」
「当然です」
「まるで大切にされているみたいよ」
サンの掌にリーニはそっと自分の掌を乗せて、馬車から降りた。
城の前には、サンの両親である国王夫妻と弟が立っていた。
「サン、よくぞ戻った」
サンが膝を折るより先に、国王から声が掛かる。
「兄上……」
カイが呟く。視線は真っ直ぐにサンに向いている。
「ご迷惑をおかけしました」
サンの言葉に、トバッチ国王は緩く首を振った。
「そんなことを言うな、息子よ」
謝罪など必要ないと、王は瞳を潤ませる。そしてサンの隣のリーニに視線を移した。
「リーニ姫、よくぞ来てくださった。トバッチ国はあなたを心から歓迎する。さあ中へ」
王が城の中へ入ると、その後を王妃と弟が続く。
「…………?」
サンは立ち止まったまま眉を寄せた。
歓迎する――。
父王は確かにそう言った。社交辞令か。それにしても、襲撃してきた相手に向かって言う言葉なのだろうか。しかも『心から』などと言う言葉まで付けて。
「ねえ、中に入らないの?」
リーニの手がサンの腕に触れる。
「…………」
見上げてくるリーニの表情には甘えが含まれていて、それにも違和感を覚える。
殿下、と小さく注意する声が後ろから聞こえ、サンは慌てて歩き出す。その腕にはリーニの手が絡んでいる。
まるで、仲睦まじい恋人同士のように、リーニはサンに寄りそう。
「……姫」
小声で注意をした時、
「まあ! 素敵な城ね。天井画の美しいこと……。どなたの作品なのかしら」
リーニが大きな声を上げた。
前を歩いていた王が立ち止まり、振り返って答える。
「あれは三代前の王が描いたものです」
「国王が? 天井画を?」
目を丸くするリーニに王は笑う。
「ええ、そうです。三代前の王は画家になりたかったのです。だが王太子であるのでその夢を諦めたと聞いています。あの天井画は三代前の王の最後の作品です。彼はあの絵を描き上げると、それ以降二度と筆を握らなかったそうです」
リーニが視線を彷徨わせる。
「二度と……そんな……」
「自由が許されない立場というのは辛いものです」
「……そうですね」
「だが、叶えられるのなら、可能ならば自由をあげたい。国王としてではなく、親として」
再び歩き出す王に付いていきながら、サンは眉を寄せる。
何かがおかしい。では、何が?
その答えが見つかる前に部屋に着く。謁見の間ではなく、王が私的な訪問客と会うための部屋だ。
椅子に座り、茶が用意され、その茶をサンは一口飲む。鼻に抜ける香りは少しだけ癖がある。それはサンが好んで飲んでいた茶だった。
「サン、よく戻って来てくれた。もう二度と会えないかと思っていた」
王の言葉にサンは首を振る。
「わたしも……。帰ってくることができるとは思っていませんでした」
「辛い思いをさせて済まなかった」
辛い思い、それは自分よりもこの国と残された人だったのではないか。
「わたしのせいで……」
「違う、そうではない。気づけなかった余がいけなかったのだ」
気づく、とは何を?
サンは王の目をじっと見る。そして次の瞬間、王の口から衝撃的な言葉が飛び出した。
「何故言ってくれなかったのだ。駆け落ちするまで思いつめていたなんて」
……駆け落ち。
サンは言われた言葉が理解できずに、カップに手を触れたまま固まった。
駆け落ちとは、あの駆け落ちなのか。何故今そのような言葉が出てくるのか、誰が駆け落ちしたのか。
頭の中でぐるぐると言葉が回る。すると突然、リーニが涙を流しながら頭を下げた。
「申し訳ございません。わたくしがいけなかったのですわ!」
わたくし? わたくしとは誰だ。何がいけなかったのか。
「互いに国を背負う身であることは分かっておりました。しかもサン様には婚約者がいる。でも、どうしても諦めきれなくて、いっそ二人で死ねればと、そんな言葉を口走ったばかりに……」
王が首を横に振る。
「いや、それほどまでに追い込んでしまったのは余の責任でもある。エルラグド王が二人の計画に気づき止めてくれなかったら、どうなっていたことか……」
計画――二人。
いったい何の話なのか、エルラグド王が何を止めたのか。
サンの背中に汗が伝う。嫌な予感がする。いや、予感などではない。現実に、すぐ目の前で――。
「父上っ」
サンがそう呼びかけたのと、王が言葉を発したのは同時だった。
「王位継承権は放棄してよい」
「…………!」
告げられた言葉にサンは絶句する。
「まあ、それではトバッチ国は……」
「姫、心配には及ばない。既にこちらの第二王子が立太子している」
ちょっと待て、とサンは心の中で叫んだ。既に弟が立太子しているなどあり得ない。自分の王太子としての立場は廃されているというのか。
「サンの婚約者だった者はこの第二王子、カイと結婚することが決まった。先日顔合わせをしたのだが互いに気に入ったようで……」
そこからの会話は頭に入ってこなかった。
弟と元婚約者は互いに一目ぼれをしたらしい。
「とても素敵な姫でした。あの姫とならこの先もずっと一緒に歩んでいけます。兄上のように立派な王太子となれるよう、そして国を導く存在となれるように努力したいと思っています」
決意表明を弟がしていたが、そんなことはどうでもよかった。
「わたくしたちのしたことを許してくださってありがとうございます、お義父様。トバッチ国がより発展するための援助を、エルラグド国は惜しみません」
王はサンの虚ろな目を見つめて微笑む。
「大国の婿となり、しかも宰相となるというのは、我が国の王となるよりも大変なことかもしれない。だがそれも二人でならば乗り越えていけるだろう。幸せになれ」
婿、宰相……?
サンは震える手で冷めた茶の入ったカップを握りしめ、口元に引きつった笑みを浮かべた。
「……どうやって?」
その言葉を遮るように、リーニがサンに体当たりをかます。
「愛しているわ!」
カップが飛んで行く。それを軽く受け止めたケントの姿が視界の端に映った。
そして床に押し倒されながら、サンは悟る。
自分は帰る場所を失ったのだ、と――。