18
「帰っていいぞ」
突然来たエルラグド国王が開口一番告げた言葉に、サンは間抜けにも口をぽかんと開けて呆けた表情を見せた。
それに汚らわしいものでも見るような視線を向けながら、ヴェリオルがもう一度言う。
「今すぐトバッチ国に帰れと言っている」
サンは瞬きを繰り返し、ヴェリオルの端正な顔を見つめながら混乱する頭の中で告げられた言葉を繰り返す。早朝、叩き起こされたサンの頭はまだ上手く働いていない。そして、
「……え?」
漸く出てきた言葉は、ヴェリオルの不興を更に買ったらしい。
「さっさと出て行け」
「本当に――」
帰れるのかと訊こうとしたが、ヴェリオルは鼻を鳴らして踵を返すと、サンの言葉など聞こえないかのようにドアから出て行った。
「…………」
呆然とするサン。その目の前でドアがもう一度開き、爺やが現れる。
「サン様、お召し物をお持ちいたしました」
爺やが手にしているのは、ここ暫く着ることが叶わなかったまともな服である。
「すぐに出発するそうなので、急いでお支度をしなくてはなりません」
爺やに腕を引かれて立ち上がり、寝衣を脱がされて服を着る。
「洗顔を」
そう言われて洗面台まで行き、顔を洗えば爺やが剃刀を手にする。
「サン様……。短い間でございましたが、あなた様のお側に居られて幸せでした。最後はこの爺やが、心を込めてサン様の髭を剃りたいと思います」
爺やが剃刀をサンの顎に当て、
「…………!」
サンはハッとして、爺やから剃刀を取り上げた。
「何をなさるのですか!」
それはこっちの台詞だと、サンは目を見開いて首を横に振る。
「震えているではないか」
「それはもう、サン様とのお別れが悲しくて悲しくて、手ぐらい震えますぞ」
サンはもう一度首を振る。
「そんなに震えていれば、肌が切れてしまう」
「傷を見るたびに、爺やを思い出してくださいませ」
そんな趣味はない。
「自分で剃る」
老い先短い爺の願いも聞いてもらえないのか、などと爺やが言っていたが、無視してサンは自分で髭を剃る。
「酷い方です。最後まで爺やに心を許してはくださいませんでしたな」
傷をつけようとしていたくせに何を言うか。
髭を剃り、もう一度顔を洗ったサンは部屋に戻る。
「この部屋の中にある物ならば、持って帰ってもよいそうです」
そう言われたサンは部屋を見回し、それから爺やに視線を向ける。
「本当に……帰れるのか?」
「そのようです」
「…………」
まさか、とサンは考える。
――数日中に良い知らせを伝えられると思うので……。
先日部屋で告げられた言葉が頭の中で蘇る。
この急展開は、宰相ネイラスによるものなのか。
「何か、持って帰られますか?」
サンはもう一度部屋を見回し、それからテーブルの上に置きっぱなしになっていた本を二冊手に取る。
「これを持って帰ろう」
それは爺やが勧めてくれた、歴史書と経済書だ。
爺やがサンの手の中の本を見つめ、それから顔を上げる。
「爺やは寂しゅうございます。もし、もし爺やが帰らないでくれと言えば、この国に残ってくださいますか?」
サンは爺やの目を見つめ、首を横に振る。
「トバッチ国に帰ることをわたしは望んでいる。それに、エルラグド国王が帰れと命じたのだから、わたしはこの国に居ては迷惑な存在だということだ」
爺やが溜息を吐く。
「では、爺やも連れて行ってほしいと言えば、どうですかな?」
サンは軽く目を見開き、それからもう一度首を横に振る。
「爺やはこの国の民だ」
「では、エルラグド国を捨てましょう」
なんてことを言うのだとサンは驚く。
「己の国を捨てることなどできはしない。それは本心か?」
爺やは顎に手を当てて首を傾げた。
「さあ、どうでしょうか」
「…………」
この爺やも、やはりよく分からない。からかっているだけなのか、それとも他の目的があるのか。
と、そこで木箱を持った数人の騎士が勢いよく入ってきた。ぎょっとするサンを尻目に、騎士達はサンの手から本を奪い取ってそこらの物と一緒に木箱に詰め込んで肩に担ぎ、更にはサンまでも肩に担いで部屋から出て行く。
「お別れでございます、サン様。お元気で!」
爺やの声が廊下に響く。
騎士が歩くたびに、足枷が足首に食い込んで痛む。サンは顔を顰め、抵抗しようと腕に力を込める。
「大人しくしてないと、斬るよ」
そんなサンに声を掛けたのは、いつの間にか側に来ていた白騎士ケントだった。
「陛下から聞いただろう? トバッチ国まで送って行くだけだ」
「では、本当に帰れるのですか。それはどうして……?」
ケントは肩を竦めただけで答えない。
やはり宰相が何かをエルラグド王とリーニに言ったからなのか。そう考えたと同時に体が激しく揺れて眉を寄せる。
「舌を噛まないようにな」
階段をおりているらしい。
騎士達は急ぎ足だ。歯を食いしばりながら少しだけ顔を上げるが、周囲に人影は見られない。人払いをしているのだろうか。
一階まで下りると、開かれた大きな扉から外に出る。そしてそこに停まっていた馬車にサンは放り込まれた。打ち付けた尻と足枷をはめた足首が痛む。だがそんなことよりも、目の前に座っている者にサンの意識は向けられた。
「リーニ姫……」
いつもの勝ち気な目が赤く腫れて見えるのは気のせいではないだろう。リーニは少しだけ口角を上げると、サンの足元に手を伸ばした。小さな音がして、足が軽くなる。足枷が外れたのだ。
「やられたわ。あの陰険男に」
「陰険……。宰相殿ですか?」
「そうよ。陰険スケベ男」
スケベなのか。
サンが思ったところで、馬車が走り出す。
「相応しい相手との婚姻が進められるそうよ。それにあなたが邪魔なの。婚姻前から愛人がいるようじゃ困るのですって。お父様まで上手く丸めこんで……。あの性悪陰険むっつりスケベ宰相」
「…………」
何故そのようなあだ名で呼ばれているのかは分からないが、とにかくネイラスの働きかけでサンの帰国が叶ったことだけは間違いないらしい。
「嬉しい?」
訊かれたサンは戸惑いつつも頷いた。
「ええ、まあ……」
「良かったわね」
リーニが鼻を鳴らす。
「いっそ、既成事実でも作っておけばよかったわ」
ぎょっと目を見開くサンをリーニは笑った。
「冗談よ」
本当に冗談なのか。祖国に帰すと言いつつ何処かに監禁でもされて襲われるのではないか。
そんな心配をしたサンだったが、旅は何の問題もなく順調で、再び監禁されることもリーニが夜這いを仕掛けてくることもなかった。
「だって、どうしようもないのですもの」
もう決定してしまったことだから、どうあがいても覆らない。
リーニはそう言って自嘲する。
「正直、諦めるとは思わなかったがな」
旅の途中で、ケントはリーニを見つめて呟く。恋愛感情はなくとも、幼馴染としてケントなりにリーニのことを大切にしているのだと、その時サンは気づいた。
そして、馬車はトバッチ国へと入った。
サンは馬車の中から祖国の様子を見つめる。以前と変わらぬ穏やかな姿を見せる祖国に、サンはほっと胸を撫で下ろした。エルラグド国からの突然の襲撃による混乱も既にみられない。
「いい国ね」
リーニの呟くような言葉にサンは頷く。
「ええ。そうですね」
「私が王太子でなかったら、この国にお嫁に来たかったわ」
「…………」
外を見つめるリーニの横顔をサンは見る。その瞳は暗く、諦めの色が浮かんでいた。
ねえ、と外を見つめたままリーニは訊く。
「生まれ変わりって信じる?」
「生まれ変わり?」
「人は死んだ後、新たな命として生まれ変わるのだそうよ」
ああ……、とサンは言葉の意味を理解して頷く。輪廻転生のことを言っているのか、と。
「そうですね。本当にあるのかどうかはわかりませんが、どちらかと言えば信じていますよ」
「……私が生まれ変わったら」
「…………?」
「あなたを捜すわ。だから、その時は私をお嫁さんにしてくれる?」
「…………」
「……なんで黙っているのよ」
リーニは眉を寄せて振り返り、返事をしないサンに視線を向ける。
サンは困った顔をした。
「いえ……。ただ、なんとなく姫は転生しても性格はそのままのような気がして……」
「嫌だっていうの!?」
「いや、まあ……」
この姫は本当に転生しても自分を捜しだしそうだと、サンの顔に苦笑が浮かぶ。
「最後に口づけをしてくれる?」
「…………」
サンはリーニの手を取り、指に唇を落とす。
「そこじゃないわ」
不満げなリーニ。だがサンは首を横に振った。
「いつか現れる、あなたの大切な方の為に取っておいてください」
リーニが唇を噛みしめる。
「酷い人。思い出もくれないなんて」
「姫は若い。これからいくらでも作れますよ」
「次は絶対に逃がさないから」
睨み付けられ、サンは溜息を吐く。
「それは、困りますね。その時は……」
観念して捕まろうか――。
リーニの瞳から零れる涙を、サンは指先で拭った。