17
長めの黒い髪を組紐で結び眼鏡をかけた男が、眉間に皺を寄せてさも嫌そうに部屋を見回し、それからサンに視線を向けた。
値踏みするような視線を受け、サンの眉間にも微かに皺が寄る。
この男は誰なのか。
丁寧なノックと丁寧な挨拶をして部屋に入ってきた男は、言葉とは真逆の失礼極まりない態度を見せている。
「……あなたは?」
サンが思わず訊けば、男は片眉を上げた。
「これは失礼致しました」
頭を下げることなく謝り、男は自分がこの国の宰相であると名乗った。
「どうぞ、ネイラスとお呼びください」
この男が宰相なのかと改めてサンはネイラスを見つめる。国王ヴェリオルと歳は同じくらいか。口元に僅かに浮かんだ偽りの笑みは冷たい。王太子として育てられたサンにさえ威圧感を与えてくるのは、さすが大国の宰相と言ったところか。
(いや、舐められているだけか……)
背筋を伸ばし、サンは努めて冷静な口調で訊く。
「それで、どのような要件でしょうか?」
「素晴らしい衣装を着ていらっしゃる」
質問に対して別の言葉を返されて、サンの頬が引きつる。サンは今日も王太后から贈られた道化師のような服を着ていた。
王太后と四姉妹以外の誰がどう見ても滑稽なこの衣装が素晴らしいはずがない。
単純に、捕らわれの者を馬鹿にしに来たわけでもなさそうだが、ネイラスの目的は何なのだろうかとサンは目を眇める。
ネイラスは許可なくサンの前の椅子に座り、小さな溜息をわざとらしく吐いた。
「なるほど、お美しい方だ」
「……わたしは男ですが?」
「ええ。勿論存じておりますよ。だから困ったことになったのです」
あなたが女性なら良かったのですがと、またネイラスは溜息を吐く。
「それはどういう意味ですか?」
「まあ、単刀直入に申しまして、トバッチ国の王族を婿に迎えたところで何の利益もないということです」
「…………」
「それなのに、その美貌で我が国の王太子を虜にしてしまった。私としては、正直もっと大きな国と婚姻関係を結びたいのですよ」
トバッチ国とでは得られるものが何も無いとネイラスは肩を竦める。
サンは奥歯を噛みしめた。
大国のエルラグドから見れば、確かにトバッチは取るに足らない国かもしれない。だがしかし、サンは祖国を愛している。捕らえられて連れて来られた挙句、自分だけではなく祖国を馬鹿にされたことに、沸々と怒りが湧いてきた。
「エルラグド国からすれば、我が祖国は何の価値もない国かもしれません。しかしトバッチ国には――」
穏やかな国民性と実り豊かな土地があると続けようとしたが、それはネイラスに遮られた。
「ええ、分かっております。しかしそれは、我が国にとっては必要のないものです」
それ以上のものをエルラグド国は持っているとネイラスは首を横に振る。
「……っ」
反論さえまともにできない。己のふがいなさにサンは拳を握る。
「リーニ様は陛下に似て思い込みの激しいところがあり、私も困っているのですよ。まあリーニ様だけでなく姫様方は皆、性格が似ていると言うか……。」
末の姫様でさえ、大人しそうでいて意外におてんばなところがあるのだとネイラスは苦笑する。
「そうなのですか」
「ええ。――ところで」
ネイラスがサンを真っ直ぐ見る。
「――あなたは、帰りたいですか?」
そう訊かれてサンは軽く目を見開き、それから頷いた。勿論だと。
「そうですか」
ネイラスも頷く。私とあなたの利害は一致している、と。
まさか、とサンが半信半疑で訊く。
「帰してくれるのですか?」
「そうですね。私ならば陛下とリーニ様を説得して、あなたを国に帰すことは可能でしょう」
二人の性格なら熟知している。自身に満ち溢れた表情でネイラスは言う。
「…………」
信じられない思いでサンはネイラスを見つめた。
爺やがネイラスの前に茶を置く。それを一口飲んだネイラスは、眉を寄せて爺やに視線を向けた。
ビクリ、と爺やの体が震える。
ネイラスはカップをテーブルに置き、視線をサンに戻す。
「あなたには婚約者がいらっしゃるのでしたね。そちらのことも含めて上手くいくように取り計らいましょう」
祖国に帰った後に不自由のない、むしろトバッチ国の王家からも国民からも歓迎されるような状況を作ると、ネイラスは思案するように顎に手を当てる。
「……本当に?」
罠にはめられているのではないかと疑うサン。
ネイラスはそんなサンを嘲笑う。
「あなたを陥れたとして、何の得があるのですか」
「…………」
それは分からないが、突然現れて帰してくれると言われれば疑いたくもなる。
「まあ、信用できないのは当然ですし、信用してもらいたいとも思ってはいません。あなたがリーニ様に対して特別な感情を抱いていないか確認しに来ただけですので」
特に協力してもらうこともないが邪魔だけはしてほしくないと、ネイラスはポケットから懐中時計を引っ張り出して時間を確認し、もうこんな時間かと呟いて立ち上がる。
「私はこれでも忙しい身なのですよ。実は困ったことに、私の後を任せられる人物がまだ見つかっていないのです。優秀な人材さえ見つかれば、自由な時間がもう少し作れるはずなのですが……」
ネイラスはサンに向かって丁寧にお辞儀をする。
「では、数日中に良い知らせを伝えられると思うので、それまで荷物を纏めるなどしてお待ちください。ああ、その素晴らしい衣装の数々は持ち帰っていただいて結構ですよ」
あなた以外に着る者などいないですから。
拳を口に当てて小さくふきだして、ネイラスは去っていく。
「…………」
音が立たないようにネイラスが静かに閉じたドアを、サンは見つめる。
信用してもよいのか。いや、信じられる話ではない。なんとも胡散臭い人物だった。本心など欠片も見せていないのではないだろうかと疑うほどに。
だが……。
心の隅に生まれた小さな期待。胸に拳を強く当て、大きくなるなと言い聞かせる。
駄目だ、駄目だ、騙されるな。
先日来た王妃の侍女もだが、怪しいものが多すぎる。
そう思っていれば、大きな溜息が聞こえた。
視線を向けると、爺やがハンカチで額の汗を拭いながらサンの前の椅子に座った。
「体調が悪いのか?」
違う、と爺やが首を振る。
「爺やは、あの方が苦手です」
サンが眉を寄せる。
「何かあったのか?」
「いえ、何かと言うほどではないのですが……。あの方は少年時代から陛下のお遊び相手を務め、上位貴族の出身でもあることから何というか……」
「きつく当たられたことがあるのか?」
爺やが苦笑する。
「ただの妬みです。家柄の良さと才能でどんどん出世していく若者と、いつまで経ってもこき使われる立場の自分。仕方のないことだと分かっていても、己よりずっと年若い者に蔑まれるのは……、苦しいものではありました」
「…………」
それはなかなか、王太子として育ったサンには理解しづらいことだ。
「宰相様には宰相様の悩みや迷いがある。頭では分かっているはずなのですが……」
分かっていても、納得できないこともある。
――ここからは逃げられないわ。
不意に王妃の言葉が頭の中で響き、サンは顔を顰めた。