16
「あれが陛下の本性です」
爺やの言葉にサンは小さく唸る。昨日見た、乱暴な言葉を使い、少々おかしな発言をするエルラグド王。それが王の本来の姿なのだと爺やは語る。
「荒れていた時期もあったのですよ。城の中では比較的おとなしくしていましたが、外ではやりたい放題していたようです」
乱暴な言葉遣いもその頃に覚えたらしい。
「外、というのは?」
「言葉のままです」
「王太子が、外に遊びに出ていたと?」
「いろいろと複雑な事情がありましたからな。鬱憤を発散させていたのでしょう。しかし戴冠してからは王としての執務をそれなりにこなしておりましたし、イリス様と出会ってからは、精力的に改革などにも取り組むようになりました」
イリスの存在がエルラグド王を支えてきたと爺やは言う。
(あの王妃が……)
何処に惹かれたのだろうかと、サンは内心首を傾げる。
「陛下はイリス様を溺愛しておられます。イリス様の為ならば、国の一つや二つ滅ぼすことも厭わない程に」
「…………」
そこまでなのか、とサンの背筋が寒くなる。
「リーニ様の執着心が強いのは、陛下の性格を受け継いでいるからなのでしょう」
何故そんなものを受け継いでしまったのか。
サンが溜息を吐いた時、
トン、トン、トン、トン、
と一定間隔でドアを叩く音がして、サンは眉を寄せた。
おかしな叩き方だ。今までの誰とも違う音がする。ということは、今まで来たことのない人物がそこに立っているということか。
トン、トン、トン、トン。
叩き方からして嫌な予感がする。いっそ無視したいが、そんな真似をしてはかえって面倒なことになるかもしれない。
などと考えていると、爺やが「どうぞ」と返事をしてしまう。
入ってきたのは、髪をきっちりと結い上げて無駄な装飾のないドレスを着た女だった。
女はお手本のような美しい歩き方で椅子に座るサンのもとまでやって来る。
「初めまして、サン様。イリス様の侍女のフェルディーナと申します」
愛想笑いひとつせずに女は言い、頭を下げる。そして冷たい瞳でサンを見下ろした。
「…………」
また変なのが来たのか、とサンは思わず目を瞑る。王妃付きというだけでもう怪しい。
「イリス様がサン様のことを大変心配されて、様子を見て来るようにと私に命じられたのです」
放っておいてほしい、と思いながらサンは目を開ける。
「そうか、それならばもう役目は果たしたはずだ」
帰れと視線で言われ、フェルディーナは僅かに片眉を上げた。
その表情に、サンは違和感を覚える。目上の者に対してしていい表情ではない。それをあえてしているこの侍女は、ただの侍女ではないのか。
「実は……」
無表情に戻って口を開くフェルディーナを、先程よりも若干警戒しながらサンは見上げる。
「この城には地下道がございます」
サンは眉を寄せた。この女は何を言っているのか、と。
「その地下道は外に繋がっています。ですから――」
逃げることは可能だ、とフェルディーナはサンを見つめる。
サンは目を見開いた。ここから逃げる手段があるというのか。しかし突然現れてそんなことを教えてくる女の言葉は果たしてどこまで信用できるのか。
「もしその意思があるのならば、お手伝いは私がさせて頂きます」
そう言いながらフェルディーナは突然、年齢の割には弾力のある太ももを見せつけるかのようにドレスの裾を大胆に捲る。サンの目は、捲られたドレスの中にある秘密の場所に釘づけになった。
太ももにベルトで固定された短剣――。
そんなものを何故持っているのか。もしも王妃に何か会った時の為の護身用なのか。
フェルディーナは短剣をベルトから外し、テーブルの上に置く。
「どうぞ」
手に取れと促された短剣を、サンはじっと見つめる。これを手にした瞬間に、逃亡の意思ありとみなされるのだろう。しかしそれで、逃げ切れるのか。
サンはゆっくりと首を横に振った。そして問う。
「罠にかける意味は?」
「ただの親切心ですが?」
親切な者が、こんな危険な話を持ち込むわけがない。
「信頼できない者からの親切は断るようにしている」
はっきり言えば、フェルディーナは頷いた。
「賢明な判断です」
フェルディーナは短剣をベルトに戻し、ドレスを整える。
「やはり嘘を教えていたか」
「いいえ。地下道の話なら本当です。ただ、何処にあるかはもうお話しできませんが」
本当だったのか、とサンは若干驚きながら訊いた。
「それで、逃げ切れる可能性は?」
「おそらくは、サン様が思っている通りだと」
限りなく不可能に近いのか。
では何故こんな話をしたのか、フェルディーナの目的を探ろうとするかのように、サンは目を眇める。
そんなサンの表情など気にならない様子でフェルディーナは話し始めた。
「エルラグド国は、豊かな国です。資源も豊富で鉱山もある。土地も肥えていて、軍も強い」
「……それで?」
「リーニ様は、いずれこの国の女王となる方です。その方に見初められて何が不満なのかと。まさかリーニ様がサン様を手に入れるためにとった手段が気に入らないなどという、子供じみた答えではないとは思いますが」
サン王子の眉がぴくりと動く。
「ヴェリオル陛下は、それはもうイリス様を可愛がっておいでで、その気に入ったものに対してみせる異常なまでの執着愛を、リーニ様は見事に受け継いでおられます」
サンの表情が嫌悪に歪む。
「それは、先程爺やから聞いた」
フェルディーナの視線がちらりと爺やに向く。
「そうですか」
そもそも爺やという第三者がいる場で秘密の話をするというのがおかしい。
サンが目を眇める。
「何が言いたい?」
どうしろというのか。
フェルディーナは淡々と続けた。
「つまり、従順なふりをして支配するという選択もあるということです」
「…………」
リーニの愛情を利用し、リーニを傀儡として影の支配者となる。この大国を指先一つで動かす力を手にすることができる、サンさえその気になれば。
とんでもないことをさらりと言っている。やはりただの侍女ではなさそうだ。
サンは大きく息を吐き、首を横に振る。
「それは分かっている」
既に考えたことがあるのだ。
「分かっているのであれば、後は覚悟だけではないですか」
「しかしそんなものは――」
「望んでいないと?」
「…………」
エルラグドは大国だが、そのぶん敵も争いも多いだろう。そんな中にわざわざ身を投じる必要があるのか。トバッチ国の王太子であるサンには、トバッチ国の平和と安定が何より望むことなのだ。
いずれは王としてトバッチ国を導いていく存在となるようにと育てられ、その為の努力もした。しかし、想像を超える現状にどう対処すべきなのか、未だ答えは見つからない。
「簡単に言うが、どうやって傀儡とする」
「それはサン様の腕の見せ所でございます」
「リーニ姫一人だけではないだろう。エルラグド王もいる、優秀な騎士や文官だっているだろう。それらすべてをどうにかできると思うか?」
「陛下を何とかしたいのならば、イリス様に取り入ればよいのです」
それは自身の主を売るということか。
本当にそれができれば、なんとかなるのだろうか。だが……
サンが考えていると、不意にそれまで無表情だったフェルディーナの口角が僅かに上がった。その表情を見たサンの意識が現実に引き戻される。
(この女……)
危うく行ってはいけない方向へと思考を誘導されかけた。
厳しい視線を向けると、また元の無表情に戻ったフェルディーナが頭を下げる。
「目的は?」
「何のことでしょうか?」
「混乱させようとでも思っているのか? 何の為に?」
何を言っているのか分からない、というようにフェルディーナが首を傾げる。
「何をさせたいのかは知らないが、そんなものに乗るほど馬鹿に見えるか?」
「まあ、それなりに」
「…………!」
見えると言うのか。
「その格好ですので」
「…………」
それを言われては何も返せない。
今日もサンは、王太后から贈られたおかしな服を身に付けていた。
フェルディーナが短剣を元通り太もものベルトに装着し、頭を下げて部屋から出て行く。
ドアが閉まる音を聞きながら、いったいなんだったのかとサンは眉を寄せる。
もしや誰かの命を受けてサンに逃亡の意思が無いか確かめに来たのか、あるいは……。
「遊びに来ただけではないですかな」
爺やの声に、サンは顔を上げる。
「あれは、先々代王の側室だった女です」
サンが目を見開く。
「先々代王?」
そんな歳には見えなかったが。
「側室になったのは十歳程度の頃でしたか。それからあの女はここで生きているのでございますよ」
「側室だった者が、ずっと残っている……?」
「上手くやったのでしょう」
それにしても、王妃の侍女にまでなれるものなのか。
「おそらく、サン様がどんな人物か見てみたかっただけでしょう。まあでも……」
爺やが顎に手を当てる。
「……そのついでに、問題ありと判断すれば殺してやろうとでも思っていたかもしれませんがな」
笑う爺やにサンは唖然とする。そんなに軽く言う内容ではない。
サンは考える。あの侍女は要注意か。そして――。
「爺やは、下位貴族で長年文官の小間使いのような仕事をしていたと」
爺やが首を傾げる。
「はい。そうでございますが?」
「小間使いとは、どんなことをしていた?」
うーん、と爺やが小さく唸った。
「色々でございますな」
「色々、か」
「はい。大抵は書類運びと八つ当たりの相手です」
「なるほど。それにしては、いろいろとよく知っているな」
「そのような仕事の方が、意外にも噂が耳に入りやすいものでございますからな」
「…………」
胸の中の妙なざわつきを洗い流そうとするかのように、サンはテーブルの上の冷えた紅茶を一気に飲んだ。