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サインをした書類を、ヴェリオルはガルトに渡した。
「急ぎのものはこれで終わりです」
「そうか」
頷いて、机の上の書類の山を見つめる。『急ぎのもの』は終わったが、まだまだ未処理の書類が残っている。
「多いな……」
思わず呟くと、ガルトがわざとらしく溜息を吐いた。
「そうですな。陛下にはもう少し頑張っていただかないと困ります」
「これ以上仕事をしろというのか?」
今でさえ、睡眠時間も食事時間もろくにとれないと言うのに。
「書類仕事だけではございません、王の仕事は。やらなくてはならない事が山積しておりますぞ」
「…………」
やらなくてはならないこと。王になってもなお不安定な立場。いまだ付きまとう影……。
「分かっている」
分かってはいるのだ。
すべてのものが自分を『王』を認めているわけではない。しかし、だから――。
ヴェリオルは立ち上がる。
「どちらへ?」
「後宮へ行く」
「陛下! 仕事はまだ終わっておりませんぞ。陛下!」
気晴らしにあの女をからかってやろう。
◇◇◇◇
「イリスのところへ行く」
ヴェリオルがそう告げると、女官長はピクリと肩を揺らした。
「前回もイリス様でございましたが」
「だから何だ?」
「……いえ」
女官長は数日前と同じようにヴェリオルを案内し、イリスの部屋のドアをノックする。
しかし反応は無い。
「またか。退け」
ヴェリオルが拳でドアをノックするが反応はない。
「鍵を出せ」
「……はい」
女官長は腰の辺りから鍵の束を取り出すと、そのうちの一本をヴェリオルに渡した。
鍵が開く。女官長に鍵を返してドアをゆっくり押すと、ベッドの上でイリスが目を見開いていた。
鍵を掛ければ入れないとでも思っていたのか。そもそも王を拒否すれば処罰されるという意識は無いのか。
「何故ですの?」
傍らまで行くと、イリスはヴェリオルを見上げて訊いてきた。侍女を押し退けてイリスの横に座る。
「来てはいけなかったのか?」
「いけません。帰るのが遅くなります」
この女はまだ帰りたいなどと思っているのか。そんなに家が恋しいのか。
では、帰さないというのも面白いかもしれない。
そう考えながら侍女を下がらせる。
イリスが額に手を当てて俯く。ブサイクな顔には不釣合いな美しい髪が揺れた。
「陛下、顔も身体も美しい他の側室のところに行っていただけませんか?」
「何故?」
「私の心が保ちません。なにより早く家に帰りたいのですが」
また帰りたいと言っている。ヴェリオルはクククッと肩を揺らして笑った。
「お前は本当に面白いな」
「……陛下は初めてお会いした時と、随分印象が違いますわね」
「ああ……」
そういえば、いつの間にか地が出てしまっていた。ヴェリオルは、眉を寄せて逃げるように身を引くイリスの髪を、一房手に取る。
「国王らしくしろと、うるさい奴がいるからな。お前は――」
そして、その髪に唇を寄せた。
「国王らしい俺と今の俺、どちらがいい?」
さて、どう答えるか。上目遣いでイリスを見る。『勿論両方』とでも言うのか。
しかしイリスの答えはヴェリオルの予想を大きく裏切った。
「どうでもいいです」
ヴェリオルが目を見開く。
どうでもいい? それはどういう意味なのだ?
「…………」
もしかして自分は、からかうつもりだった女に馬鹿にされているのか。それとも……。
俺などどうでもいい存在だと言うのか――。
まさか、そんな、こんなブサイクが……。手に力が入る。
頭の中で蘇る光景。
まるで、そこに居ないかのように。合わない視線、伸ばしても決して触れない指先。
ボクハココニイルノニ――。
悲鳴が聞こえた。気がつけば、イリスの夜着を引き裂いていた。
「なにをなさいますか! 勿体ない!」
イリスが叫ぶ。ヴェリオルはハッと我に返り、破った夜着を床に投げつけた。
「こんな物、欲しければいくらでもくれてやる」
それだけの力が俺にはある。王なのだから。そう、『王』なのだから――。
「え……?」
イリスが目を見開く。
ヴェリオルは固まったイリスの身体を強引に抱き寄せ、耳元で囁いた。
「なにが欲しい? ドレスか? 宝石か? 珍しい鳥や外国の菓子はどうだ?」
好きなのだろう? 女というのはそういうくだらないものが。
「俺に手に入らない物はないぞ。好きな物を、好きなだけやろう」
跪け、媚びろ、欲しいと縋れ――。
「…………」
イリスがじっとヴェリオルを見つめる。欲望にまみれた瞳で……。
「陛下……」
やがてイリスは、縋り付くようにヴェリオルの胸に手を触れた。
「では、ドレスと宝石を」
落ちた。
ヴェリオルが口角を上る。
「ああ、用意しよう」
「――頂戴して、家に帰してほしいです」
「…………」
なんだと? この女は何と言った? ドレスと宝石頂戴して……?
「イリス……」
「はい?」
ヴェリオルはスッと息を吸った。
「駄目だ!!」
なんという図々しい女だ。信じられない。
「何故ですの!? 欲しいものを言えとおっしゃったではありませんか!」
「意味が違うだろう!」
「違いません!」
「違う!」
「国王陛下ともあろう御方が、嘘をお吐きになるのですか!?」
「…………!!」
その上、このように自分を罵倒するのか。ああそうか、あくまで楯突くというのか、面白い。
押し倒し、力でねじ伏せる。
イリスの口から漏れる悲鳴、怒りの目、口汚い言葉――。
ゾクゾクとした。
◇◇◇◇
イリス・アードン、二十歳。
二位貴族で大臣補佐のモルト・アードンの娘。
父、母、兄の四人家族、使用人は老夫婦とその孫のみ。
父親には現在多額の借金がある模様。
「……何だ、これは」
ネイラスから渡された紙に書かれた内容に、ヴェリオルは眉を寄せた。
「一応、調べなおしておきました」
「……フン」
鼻を鳴らし、続きを読む。
大臣であった祖父が病気になってからアードン家は急速に傾く。イリスも刺繍などを売って生活を支えていた。
「刺繍? そんな細かい作業が出来るようには見えなかったが」
学校に行く費用が無く、家庭教師も雇えなかったので、自称研究者の兄に勉学を教えてもらっていた。
「自称研究者? 何の研究だ?」
「それが謎というか、良く分からないようなのです。色々なことをしているようなのですが……調べ直しておきます」
「いや、別にいいだろう」
ヴェリオルは資料を最後までざっと読み、投げるようにネイラスに返す。
「まともな生活をしておらず教育も受けていないことは分かった。これで二位貴族とはな」
破った夜着に執着していたのも貧しい生活のせいか。ヴェリオルはイリスの怒った顔を思い出した。
「……夜着を」
「はい?」
「夜着をくれてやろうと思うのだが……」
ネイラスが片眉を上げる。
「イリス嬢に、ですか? 今まで特定の側室に贈り物などしたことが無いのに、ですか?」
「……別に、ただの施しだ」
髪をかきあげるヴェリオル。ネイラス暫く無言でその光景を見て、それからニイっと口角を上げた。
「分かりました。とびきり素敵なものを用意いたしましょう。ああ、それはそうと陛下。女官長から後宮の体制について意見が来ていますよ」
「女官長から?」
「手が足りていないそうです」
ネイラスの言葉に、ヴェリオルは首を傾げた。
「今までそんなことは一度も言わなかっただろう」
「状況が変わったのではないですか?」
「状況?」
訝しげなヴェリオルにネイラスは頷いた。
「イリス嬢対他の側室で、小競り合いがあるようです。どうされますか? これを機会に後宮の体制をもう少し整えますか?」
ヴェリオルは顎に手を当てる。
「あの女なら何があっても大丈夫なような気がするが……。他の側室と醜く争う姿をみるのも一興か」
「陛下」
困ったように眉を寄せるネイラスにヴェリオルは手を振った。
「まあ、そのうち考えよう」
後宮の体制を整えるとなれば、手間も時間もかかる。他に山ほど仕事があるのに、そんなことに構っている暇など無い。第一そこまでする価値があるようにヴェリオルは思えなかった。
「それより、今日中に仕上げなくてはならない仕事はどれだ?」
ネイラスはフウっと息を吐き、ヴェリオルの執務机に置いてある書類を手に取った。
◇◇◇◇
「陛下、これからどちらに行かれるつもりですかな?」
真夜中に近い時間。やっと仕事から解放されたヴェリオルが立ち上がると、ガルトが訊いてきた。
ヴェリオルは内心舌打ちをする。
「……後宮に行く」
「また、あの側室の元に、ですかな?」
「……なにが言いたい?」
ガルトは、やれやれという感じで首を振る。
「お遊びもほどほどに」
ヴェリオルが鼻を鳴らした。
「そんなことは分かっている。アードンの娘など何の価値も無い、これはほんの気まぐれだ」
そのまま執務室から出て行こうとするヴェリオルを邪魔するように、ガルトは立ちふさがる。
「何だ、まだ何かあるのか?」
不快感をあらわにするヴェリオルに、ガルトは紙を一枚渡した。
「そうですか、分かっておられるのならこちらを」
見ると、そこには数人の女性と思われる名前と国名が書いてある。
「この中から王妃をお選びください」
「なに?」
「先日、適当に見繕えとおっしゃっていましたな」
「…………」
そんな事も言ったか。
「政略結婚も世継ぎを作るのも王の義務ですぞ」
「…………」
ヴェリオルは紙を床に落とす。
「陛下!」
ガルトが紙を拾っている隙に、ヴェリオルは無言で執務室から出た。
◇◇◇◇
「……はぁ」
溜息を吐くイリスを、ヴェリオルは引き寄せて胸に抱いた。
「俺が来てやっているというのに、溜息を吐くな」
「……頼んでいませんわ」
イリスはもう一度、深い溜息を吐いた。
もう何度もヴェリオルはこの部屋を訪れていたが、未だにイリスは媚びる様子を見せない。しかし文句を言いつつも激しく暴れて抵抗することは無くなった。
少しずつだが、手懐けている。
ヴェリオルは多少の手ごたえを感じていた。
「シュイさんはいかがでしょう? お気に召しませんか? ではカバレさんは?」
「俺は今、お前を抱いたばかりなのだぞ」
「それがなにか?」
「…………」
まともな教育を受けていないので仕方が無い。これは『イリス』と言う名の珍獣だ。もう少しすれば何でも言うことを聞く、面白い愛玩動物が出来上がるはずだ。
イリスの髪がヴェリオルの素肌をくすぐる。肉の付いていない男のようなイリスの身体を撫でた。
女らしさは欠片も感じないが、その温もりにヴェリオルは目を閉じる。そしてそのままウトウトと眠り始めたその時――。
「そうですわ!」
イリスの大きな声に、ヴェリオルは目を開けた。
「なんだ?」
せっかく気持ちの良い状態だったというのに。
「新しい側室です」
「……な、に?」
それは何のことだと眉を寄せると、イリスは強引にヴェリオルの腕から抜け出し満面の笑みを浮かべた。
「新しい側室を後宮に入れられてはいかがでしょうか?」
イリスが、ヴェリオルを見下ろす。
「…………」
ヴェリオルは何を言われているのか理解出来ず、ポカンと口を開けた。
新しい側室を入れる?
何を言っているんだ、この女は。
ヴェリオルは険しい表情でイリスを見つめた。
「イリス」
「はい?」
余裕の笑顔はふざけているのだろうか。イリスの腕を掴み、乱暴に二人の身体を入れ替えた。
「必要ない」
「必要です」
即座に返ってきた言葉。
「今居る側室は皆、少々年齢が高めでございますでしょう? 若く美しい子を後宮に入れ、陛下好みに仕立てあげれば良いのです」
『自分好みに仕立て上げる』。それは、今まさにやっていることではないか。
つまりイリスは、他の女を使ってやり直せと言うのか。
素晴らしい考えだと言わんばかりに笑うイリスの肩を、ヴェリオルが掴む。
「お前は……、どうしてそんな……!」
こんなに頑張って丁寧に調教してやっているというのに、何が気に入らない。それほどまでに何故――。
ヴェリオルは気持ちを整えるため、目を閉じて何度も深呼吸を繰り返す。
「陛下……?」
無邪気ともとれるイリスの声。
ああ、そうか、そうなのか――。
ヴェリオルはやっと気付き、身体を起こしてベッドから降りた。
「陛下? どうなさいました?」
イリスも身体を起こす。
「…………」
ヴェリオルは無言で服を身に付けた。
「陛下? ――あぁ、他の側室の所に行かれるのです――!」
必要なのは飴だけではなかった。
ある程度痛い目に遭わないと分からないこともある。
生意気な口を利く女をベッドに叩きつけ、囁いた。
「後悔、するがいい」
お前は調子に乗りすぎた。
『捨てないで』と泣いて縋って来るまで許しはしない。
ヴェリオルは素早く身体を翻し、部屋から出て行った。