13
――魔女だ。
と、サンは思った。
目の前に立つのは、真っ赤な唇と同じく赤く長い爪、少し上がり気味な目尻、それに大きく開いた胸元から零れ落ちそうなほど豊かで張りのある乳房を持つ女だった。
女の視線が自分に向けられた瞬間、サンは目を逸らした。
(目が合った瞬間に、石にされるかもしれない)
それともスープの具材にされるのか。
頭の中で警鐘が鳴り響く。絶対に視線を合わせてはならない、と。
しかしそんなサンの態度が女には気に入らなかったらしい。女はサンの顎を掴み、無理やり視線を合わせようとしてきた。
絶対に視線を合わせたくないサン。
合わせたい魔女。
暫し続いたその攻防を破ったのは、爺やの一言だった。
「王太后様でございます」
その言葉が聞こえたサンは、目を見開く。そして思わず女に視線を向けてしまった。
「……王太后?」
サンは女をじっと見つめる。女が口角を上げる。
「…………!」
サンは女の手を振り払い、一歩後ろに下がった。
サン様、と爺やの咎めるような声を、女が軽く扇を上げて止める。その間にサンはもう一歩後ろに下がった。
「どうしたのかしら?」
揶揄するような、それでいて身体が震えるほど艶やかな女の声に、サンは首を振る。
「そんな筈はない」
女が首を傾げる。
サンはもう一度言った。
「そんな筈はない」
王太后、ということは王の母親ということだろう。それにしては、あまりに目の前の女は、
「若すぎる」
のだ。
サンの言葉を聞いた女は扇を広げて口元を覆うと、愉快そうに笑った。
「まあ、口の上手い子だこと」
褒め言葉ではない。目の前の女が王太后だとするなら、本当に不自然に若いのだ。
女が椅子に座り、扇でもう一つの椅子を指す。
「座りなさい」
命じられるが、サンは立ったまま動かない。爺やが茶を淹れ、テーブルに置く。
女はもう一度サンに命じた。
「座りなさい、美形のくせに」
意味の分からないことを言う女にサンは眉を寄せる。女がわざとらしく溜息を吐いてみせる。
「イリスも我が儘な子だったけど、この子もね」
サンは目を見開いた。イリスというのは王妃の名だ。
「ヴェリオルもリーニも、どうしてこう、ちょっとおかしなのを捕まえてくるのかしら」
おかしいのはあなたの容姿だ、という言葉をサンは辛うじて飲み込んだ。国王も王妃も王女も呼び捨てにするということは、本当にこの女は王太后なのか。
「早く座ってこの菓子を食べなさい、美形のくせに」
「…………」
サンは椅子に座った。この女は命令をすることに慣れている。信じられないが、王太后であることは間違いが無さそうだ。
「早く食べなさい、あなた少し痩せているわね、美形のくせに」
「…………」
「食べなさい」
もう一度言われ、サンは菓子を摘んで口に入れる。甘い菓子からは、少しだけ酒の香りがした。
「笑いなさい、美形のくせに」
もしかして、おかしな語尾は王太后の口癖なのか。そう思いながら咀嚼していると、王太后が扇で口元を隠して爺やに小声で何かを命じる。
爺やは頷き、部屋から出て行った。
「…………」
何を命じられたのだろうか。
二人だけになり、サンは居心地の悪さを感じながら、王太后と視線を合わせないように菓子を見つめる。
「菓子はあまり好きではないのかしら?」
「いえ……」
サンは菓子を摘んでもう一つ食べる。
「その首輪は、リーニからの贈り物かしら」
「はい」
「リーニにしては、なかなかいいわ」
「選んだのはエルラグド国王だと聞いています」
「ヴェリオルが……?」
ふーん、と王太后は片眉を上げる。
「でも、それではまだまだね」
王太后が扇を広げてあおぐ。濃厚な香りが部屋に広がった。
「髪や肌の手入れは誰がしているのかしら」
「爺やがしています」
「手入れには何を使っていて?」
そんなことは知らない。手入れと言っても、湯浴みの時に体を磨いて、朝に髭を剃る程度だ。その髭剃りも、爺やの手つきが怖くて自分でやることが多いくらいなのだ。
「答えられないの? 美形のくせに」
「…………」
いったい何なのか。
そう思っていたら、ノックの音がして爺やが戻ってきた。爺やは手に、綺麗な刺繍の入った巾着袋を持っている。
「王太后様、どうぞ」
王太后が鷹揚に頷いて巾着袋を受け取る。そして無造作に袋の中身をテーブルの上にぶちまけた。
「…………!」
巾着袋の中から転がり出てきたのは、見たこともない大きな宝石だった。驚くサンに王太后は言う。
「これをあげましょう」
国宝級――いや、もしかして本当に国宝なのかもしれないこの宝石を、実に簡単にあげると言われ、サンは呆然とする。いったい王太后は何を考えているのだろうか。
いらない、と首を振るサン。こんなものを貰えば、後で何か面倒が起こるに違いない。
王太后が溜息を吐く。
「これでは満足しないというの? 仕方がないわね。では宮殿をあげましょう」
サンは驚き、更に強く首を振る。
王太后が軽く眉を上げた。
「あら、意外に強欲なのね、美形のくせに。ではどこかの国でも用意しようかしら」
「…………!」
どうやって国など用意するというのか。
「では、急ぎ侵略をするようにヴェリオルに……」
「要りません!」
思わず叫ぶと、王太后の鋭い視線がサンを貫く。
「何故?」
「な、何故と言われても……」
贈り物に国を用意するなど狂っている。この国は、王女も王も王妃も王太后も、そして騎士や乳母も狂っているのか。これでは大国ではなく狂国だ。
「素直じゃないところも、イリスと似ているわね」
王太后が扇で口元を覆って笑う。
「王太后様……」
困って呟くように呼べば、王太后が扇を閉じて、それでサンを指す。
「私のことは、『お義母様』とお呼びなさい」
「おかあ……?」
何故、母と呼ばねばならないのだ。
「リーニの婿となれば、私はあなたの義母となるのだから、当然でしょう」
「…………!」
リーニの婿になどなる気はない。いや、それよりもそれで何故義母という表現になるのだ。
「リーニは私の可愛い娘なのだから」
ホホホ、と王太后は笑う。サンが思わず訊いた。
「祖母、では……?」
サンの言葉に笑い声を収めた王太后が、目を眇める。
「私は生きとし生ける者全ての母となる存在なのですよ。美形のくせにそれぐらい覚えておきなさい」
「…………」
意味が分からない。
王太后が爺やに視線を向ける。
「髪と肌の手入れにもっと力を入れるように。それから――」
と、そこでノックの音が聞こえ、ドアが開いた。
「サン様!」
現れたのはリーニ――だけではなく、リーニの妹たちも一緒に部屋の中に入ってくる。
何故また四姉妹が来るのか。
眩暈がすると、内心で溜息を吐くサン。そんなサンの目の前で、三女のエミリアが片膝をついて王太后の手を取る。
「フィー、今日も美しい」
そして王太后の手の甲に口づけた。
ホホホ、と王太后が笑う。
「エリックは今日も正直ね」
四女のクレアがドレスの両端を摘んで膝を折る。
「ごきげんよう、フィー」
「ごきげんよう、クレア。今日も可愛らしいわね」
王太后が満足げに頷く。
「フィー、わたくしは?」
「シェリスは今日も素敵よ」
「うふふ、フィーも素敵」
どうやら姉妹は王太后のことを「フィー」と呼んでいるらしい。
リーニがサンの腕にしがみつく。
「ねえ、フィー。私のサン様はどうかしら?」
王太后が扇を顎に当ててサンを見つめる。
「そうねえ。まあ、いいでしょう。でも服が地味だわ、美形のくせに。もっと華やかな服を着せないといけないわよ」
そうかしら、とリーニが首を傾げ、シェリスが鼻で笑う。
「そんな格好をさせておくなんて、本当にセンスがないわね」
「何ですって!?」
「わたくしだったら、もっとサン様の魅力が引き出せるような大胆な服を選んで差し上げるのに」
「大胆じゃなくて下品でしょう!」
リーニとシェリスが言い合いを始める。
エミリアが「うーん」と顎に手を当てる。
「騎士服の方が似合うんじゃないか? 動きやすいし。クレアはどう思う?」
「え? わ、わたしは……」
クレアはサンに視線を向け、目が合うと顔を赤くした。
「……わ、わたしは、お父様のような服がいいと思う」
王太后が扇をパチンと鳴らす。
「分かったわ。ではここで、サンが着る服のデザインを決めましょう」
皆の意見を王太后が纏め、服を作ることが決定した。
「お腹よ、お腹! お腹を見せなきゃ!」
「いっそ鎧はどうだ?」
「勝手なことを言わないでよ! それだったらもっと可愛らしい服がいいわ!」
「わ、わたし、マントがあった方がいいと思う……」
「そうね。宝石をちりばめましょう」
爺やが紙とペンを持ってきて、皆の意見を書いていく。
「…………」
関わり合いになりたくない。
サンは心の底からそう思った。