12
トン……。
ドアから小さな音がして、サンは眉を寄せた。読んでいた本から顔を上げ、ドアに視線を移す。
トン……トン……。
今度は先程より強めの音が聞こえ、漸くサンは誰かがドアをノックしているのだと気づいた。
トントントントントントン……。
小刻みなノックの音が聞こえる。
……不気味すぎる。
できれば無視したいとサンは思ったが、爺やが返事をしてしまう。
「はい。どうぞ」
ドアが薄く開き、現れたのは、
「サン王子……」
金の髪に深い緑の瞳。その顔に薄く張り付いた笑みに、サンの身体が小さく震える。
「入ってもいいかしら?」
言いながら、サンの返事を待たずにリーニが部屋の中へと入ってくる。そしてサンの傍まで来ると、リーニは大きく口角を上げてみせた。
「サン様、ご機嫌いかが?」
「…………」
無理やり作った奇妙な笑顔に背筋が寒くなる。機嫌などいいわけがない。
それにしても、いつもと違うこの雰囲気は何なのか。
「今日はね、サン様に素敵な贈り物をしたいと思って」
「贈り物?」
リーニが頷く。
「そう、それはね……」
それは、何なのか。
「――私よ!」
リーニがサンに飛びつく。
サンは眉を寄せて溜息を吐いた。
前言撤回。いつもと何も変わらなかった。
サンはリーニの体当たりを両手で防ぎ、
「…………!」
と、そこでリーニが隠し持っているものに気づく。
「姫!」
手首を掴んでリーニを引き倒す。
「きゃあ!」
悲鳴を上げて床に転がるリーニ。その手が握っているのは、
「手枷……?」
銀色に光る拘束具だった。右手首と左手首を腕輪のようなものでそれぞれ拘束し、それを長めの鎖で繋ぐという形をしている。
サンの表情が険しくなる。
「これで何をしようとしていたのですか?」
「何って、私とサン様を繋げようとしていただけよ」
だけ、ではない。
「やめていただきたい」
「どうして? そうすれば、ずっと一緒に居られるのよ?」
「湯浴みも排泄時も、ですよ?」
「素敵ね」
「…………」
素敵なのか。
やはりこの姫の感覚は分からないと、サンは手枷を強引に奪う。
「ああ……!」
「没収です」
「そんな……」
落ち込むリーニに、サンは手を差し出す。
「掴まって、立ってください」
リーニが手を乗せ、サンが引っ張って立たせる。リーニの髪とドレスが乱れてしまった。少しやりすぎたかと考えて、サンは小さく首を振る。
やらなければ、やられていた。
リーニは椅子に座り、溜息を吐く。
「どうして嫌なの? サン様の為に特別に作らせたのに」
「要りません」
「手枷は嫌? じゃあ宝石を……」
「要りません」
「…………!」
リーニが目を見開く。
「手枷も宝石も要らないなんて……。じゃあ、何ならあなたは喜ぶの?」
分からないのか。何度も訴えているのに。
溜息を堪えてサンは答える。
「ここから解放してくれれば喜びま――」
「それは駄目! 他の物なら何でも言って」
「…………」
手放すつもりは全くないらしい。
サンは手を額に当てて首を振り、――しかしふと、思う。他の物なら何でも、ということは、
「剣を……」
望めば叶うのだろうか。
リーニがサンを見つめ、瞬きを繰り返す。
「剣?」
サンは頷いた。
「剣です」
リーニが頬に手を当てて眉を寄せる。
「まさか、エミリアと手合せを?」
「エミリア姫……? いいえ、そうではありません。単純に、剣の鍛錬がしたいだけです」
「…………」
リーニが小さく唸る。やはり無理なのか。
それも当然か、と思いながらもサンは少しだけ顔をリーニに近づけた。そして不満げに、険しい表情で、意識して少し低めの声で言う。
「なんでもいいのでは、ないのですか?」
リーニの瞳を覗き込むサン。こんなことをしても変わらないだろうが、この苛立ちを少しでも目の前に居る思考のおかしな姫に伝えたかった。
脅すつもりのサンの行動。しかし予想に反し、リーニの頬が一気に赤くなる。
「そ、そうね」
リーニは「うんうん」と何度も頷く。
「大丈夫よ。何とかするわ」
リーニの言葉に、今度はサンが目を見開く。
「何とかなるのですか?」
まさか、本当に剣の稽古ができるのだろうか。監禁している者に、剣を与えるというのか。
戸惑うサンに、リーニは極上の笑みを見せる。
「ええ。任せてちょうだい」
本当なのだろうか。半信半疑ながら、サンは頷く。
「では、お願いします」
「分かったわ。でも……」
まだ何かあるのか。
眉を寄せるサンに向かって、リーニは手を伸ばす。
「頑張るから、先にご褒美をちょうだい」
近づいてきた唇を、サンは掌で押し返す。
「やん! 激しい……!」
「変な声を出さないでください」
聞いている方が恥ずかしいと、サンはうんざりしながら手をリーニの髪に伸ばす。
「サン様?」
サンがリーニの髪を手で梳き、そして、
「…………!」
一房持ち上げると、そこに唇を押し付けた。
ぼんやりと自分を見つめるリーニをサンは立たせる。
「これでいいですか?」
ハッと正気に戻ったリーニが激しく頷く。
「待っててね、必ず何とかするから!」
そしてリーニは、そのまま部屋を飛び出して行った。
「…………」
疲れた。
叶いはしないだろうという諦めと、少しの期待。
トバッチ国では毎日のように剣の鍛錬をしていた。そうしないと、腕はどんどん落ちていく。捕らわれてから一度も鍛錬をしていない今、どれだけ腕は落ちているのだろうか。
椅子に座ろうとして、ふと気づく。手に枷を持ったままだった。
「…………」
没収したはいいが、これをどう処分すればいいのか。
サンは、この騒ぎの中でものんびり椅子に座ったまま茶を啜っていた爺やに視線を向ける。
「この枷だが、どこかで処分してもらえるか?」
爺やが頷いて枷を受け取る。
「ありがとうございます」
サンが首を傾げる。何故爺やが礼を言うのか。
「ちょうど爺やは、こんな枷が欲しいと思っていたところなのです」
「…………」
え。
サンに頭を下げて、爺やは枷を満足げに眺める。その様子をサンは茫然と見つめた。
いったい爺やは、この枷を何に使うつもりなのか。いや、考えるのはやめよう。
座り直して、冷めてしまった茶を飲む。
「サン様とリーニ様」
「…………?」
何か、と視線を向ければ、爺やが微笑む。
「見た目だけは、実に似合いの二人でございますな」
「…………」
だから何なのか。
「お二人で夜会にでも出れば、場が華やかになること間違いなしなのでしょうが、いや、実に惜しいですなぁ。それに先程の口づけ……」
「髪にしただけです」
「いやいや、あんなのを見せられては、爺やもサン様に惚れてしまいます」
「……やめてもらえないか」
爺やが片眉を上げて微笑む。
「…………」
これは、からかわれたのか。この爺やも今一つ分からない。
サンは溜息を吐いて、冷めた茶をまた一口飲む。と、そこで、
「斬りたいというのはお前か!」
ノックも無く開けられたドア。
いきなり物騒なことを叫んだ筋骨隆々な男は、部屋の中にずかずかと入ってきた。
サンは驚いて男を見上げる。鼻息荒い男は、まるで二足歩行をする闘牛のようだ。
「……あなたは?」
「では、斬り合おうか」
話がかみ合わない。そしてこの男は絶対におかしい。
警戒するサンの目の前で、男は腰に下げていた剣を抜こうとした。
「…………!」
まさか、処刑でもされるのか。慌てて立ち上がったサンだが、しかしそこで別の人物が現れた。
「やめろって。殿下はまだ剣を持っていないじゃないか」
呆れた表情で部屋に入ってくる人物、それはケントだった。
ケントはサンの前に立ち、筋骨隆々の男を親指で指す。
「これ、うちの親父」
サンが軽く目を見開いた。
「父君……?」
ケントが手に持っていた剣をサンに投げ渡す。
「赤騎士って言われていてかなり強いから。じゃあ、死んだ方が負けってことで。始め!」
え、という間もなく、赤騎士ことランガの剣が鼻先をかすめる。紙一重で避けた剣は、訓練用の刃を潰した剣ではなく真剣だ。
「あ、うちの親父、最近人を斬ってないから鬱憤溜まってて、今ちょうど我を失っている感じだから」
軽く言われた内容に、背筋が寒くなる。右上から左下へと振り下ろされた剣は、テーブルを真っ二つにした。
ひえ! という声を上げて、爺やが浴室に続くドアの中に慌てて入っていくのが視界の端に見えた。
当たれば死ぬ。
サンは剣を鞘から抜き、間合いを詰めてきたランガの剣をかろうじて横へと流す。
サンが渡された剣も、刃は潰されていなかった。本気で斬り合いをしろというのか。
力では勝てない。受け止めることができないならば、受け流すしかない。だが、できるか?
ランガが一歩下がり、口角を上げる。
「綺麗な顔をしているな」
サンの顔をじっと見て、ランガは舌なめずりをする。
「生首を持って帰れば、さぞかしケティが喜ぶだろう。お前の首はどれだけの飛距離が出るのだろうか?」
「なに……?」
生首、飛距離。
何を言っているのかと訝しげな顔をするサンに、ケントが説明した。
「うちの母親、生首投げが趣味なんだ。会ったことがあるだろう? リーニの乳母」
サンはその人物を思い出した。酒を持ってきたあの非常識な女性か、と。言われてみれば、ケントとよく似ている。しかし生首投げとは、本当にそんなことをするのだろうか。本当だとすれば……。
――家族全員狂っているのか。
防戦だけではやられると、隙を見て攻撃を仕掛けるが、簡単に弾き返された。
「思うんだけどさぁ、殿下の剣技はお綺麗すぎるんだよな。それって魅せる剣で、戦う剣じゃないんじゃないかな。つーか、経験不足?」
「…………っ」
そんなことは分かっている。とっくに痛感している。
苛立った瞬間、腕に痛みが走った。
「冷静さを失ってなお強い奴なんて一握りだぞ。そこの赤騎士のように」
深くはないが浅くもない傷口から、血が滴る。
一度崩れると、元に戻すのは困難を極めた。腕に、脇腹に、胸に痛みが走る。そしてランガの剣が眼前に迫る。
「…………!」
斬られる、と思った。しかし眉間に触れる寸前で、剣は止まった。
「ふん!」
ランガが鼻を鳴らし、剣を鞘に収める。
「父さん、ちょっとは気晴らしになった?」
息子の言葉にランガは頷き、茫然としているサンを見つめた。
「しかし、首が欲しかった」
「楽しみは後に取っとくものだろ? まだ早い」
ランガがもう一度頷き、サンに手を伸ばす。
「そうだな。まだ早い」
ランガの大きな手が、サンの頬から首を撫でる。
「欲しいな……」
「駄目」
「味見だけ」
「それも駄目」
味見とはなんなのか。
サンの背筋が寒くなる。
ケントはサンが持ったままの剣を取り上げると、ポケットから傷薬を取り出し、それを肩で息をするサンの手に押し付ける。
「お綺麗な肌に傷をつけたってばれたらリーニが発狂するから、必ず塗るように。ほら、父さん」
「……うむ」
未練がましくサンの腕の傷口に触れるランガの襟首をケントが掴む。
「じゃあな」
そしてケントとランガは部屋を出ていった。
「…………」
触れられた傷口からじわじわと広がる痛みと屈辱。
嵐が起こったかのように荒れてしまった部屋の中で、サンは傷薬を握りしめて二人が去っていったドアを見つめた。