11
空を見つめる。
この青く広い空は、祖国まで繋がっているのだろう。だが、あの鳥のように飛んで行くには足に付いた枷は重すぎる。
窓際で溜息を吐くサンに、爺やが声を掛ける。
「お茶の用意ができました」
サンが振り向く。
「ありがとう」
椅子に座り、茶を一口飲む。当然のように不味い。
「こちらの菓子もどうぞ」
爺やが勧めてくる焼き菓子を、サンは手に取る。そして口に入れ、
「…………!」
サンはカップを手に取り、口の中のものを無理やり嚥下した。
「おや? どうなさいましたか?」
首を傾げる爺やに、サンは涙目で訊く。
「この菓子は……」
「菓子が何か?」
「……少々個性的な味がするのだが」
何が入っているのか分からないが、辛くて苦い。
爺やが眉を寄せる。
「おかしいですな。ちゃんと作ったはずなのですが」
作った?
サンが目を見開く。
「誰が作ったのだ?」
「爺やが作りました」
何故、爺やが作るのか。
エルラグド城に来てからの食事は、味も見た目も極上のものばかりが出されている。優秀な料理人がこの城で働いているのだろう。それなのに何故、わざわざ爺やが作る必要があるのか。
爺やが肩を落とす。
「サン様に喜んでいただこうと思ったのですが……。申し訳ございません」
爺やが菓子を下げる。
「……その気持ちだけいただいておこう」
努力は認めるが、さすがにこれ以上は食べられない。
「茶を、もう一杯淹れてくれ」
「かしこまりました」
爺やがティーポットを手に取り、と、そこで、
ドカン、ドカン、ドカン!
ドアから大きな音がして、サンは驚いた。
ノックなどではない。これは、
(蹴っている……?)
そう、ドアを蹴っている音だ。
いったい誰が。
まさかまた国王が来たのではと身構えるサンの目の前で、爺やが呑気に返事をする。
「はい。今開けます」
ポットを置いてドアまで行き、爺やは誰が来たか確かめることもせずにドアを開けた。
そして入ってきたのは――、
「ああ、重いでございますよ」
三本の酒瓶と二つのグラスを抱えた、茶色の髪を編み込んだ美しい女性だった。
女性は爺やを見て、目を瞬かせる。
「あらまあ、お久し振りでございます。こんなところで何を?」
「サン様のお世話を仰せつかりました。今はここで爺やをしております」
「え……。そうなのですか? 余生を楽しむとおっしゃっていたのに、それは大変でございますねえ」
「いやいや、こうして声を掛けて頂けるだけでありがたいと思わねば」
二人は知り合いなのか。親しげに会話を続けながらサンの目の前までやって来る。そして女性はテーブルに酒瓶とグラスを乱暴に下ろすと、サンに微笑んで頭を下げた。
「はじめまして、サン様。イリス様の侍女で、リーニ様の乳母のケティでございます」
サンは女性――ケティを見つめる。
「乳母……?」
この女性が、あのリーニの乳母だと言うのか。しかし何故乳母がやって来たのか。
首を傾げるサンに、ケティは酒瓶を一本、掲げて見せた。
「さあ、飲みましょう!」
ケティが酒をグラスに注ぐ。金色に光る液体が二つのグラスに満たされた。
「あら、グラスが足りないでございますねえ。ではわたくしはこれで」
紅茶用のカップに、ケティは酒を注いだ。
「ささ、サン様。ぐいっといっちゃってくださいませ」
どうぞどうぞと言われ、サンは戸惑う。
「これは……?」
「イリス様からの差し入れです」
ケティは酒瓶をテーブルに置いて、グラスの一つをサンに渡し、もう一つを爺やに持たせて満面の笑みで答える。
「美味しいお酒でも飲んで楽しい気分になってください、ということでございます」
ほっほ、と爺やが笑う。
「気が利きますなあ、イリス様は」
「そうでございますねえ。では乾杯!」
勝手に乾杯し、ケティがぐいっと酒を呷った。
「ああ、美味しいでございます。さあさ、サン様も」
飲んで飲んで、と勧められ、サンはまだ戸惑いつつもグラスに口をつけた。
「…………!」
サンが目を見開く。
一口飲むと、口内に広がる芳醇な香り。サンはグラスの中の酒を見つめ、それから酒瓶に視線を移す。
見たことのない酒だ。自国でも他国でも酒を飲む機会は多々あるが、こんな酒を飲んだのは初めてだった。
「……美味しい」
素直に呟けば、ケティが大きく頷く。
「本当に。さすが、陛下が大切にしまっていただけのことはあります」
「……え?」
もう一口飲もうとしていたサンの動きが止まった。
「鍵付きの棚にしまってあったのでございますよ。陛下はリーニ様のお誕生日にこのお酒を飲むのを楽しみにしていたようです」
「…………」
国王が楽しみにしていた酒を飲んでいる。
一気に汗が噴き出したサンに、ケティは屈託のない笑顔を見せた。
「大丈夫でございますよ。イリス様が鍵をこじ開けて持って行っていいと言ったのですから。私とイリス様とサン様は同罪です」
同罪ということは、全然大丈夫ではないではないか。しかも鍵をこじ開けたのか。
グラスを置こうとしたサンの腕をケティが掴む。
「もう飲んでしまったのですから遅いです。さあさ、もう一杯」
ほとんど飲んでいないグラスに更になみなみと酒を注がれ、サンは頭を抱える。
「ほっほ。では爺やも罪を背負いますか」
爺やが酒を呷り、ケティが手を叩く。
「よい飲みっぷりでございます!」
妙に盛り上がるケティと爺やを、サンは頬を引きつらせて見つめる。
「それにしても、サン様も大変でございますね。昔のイリス様を思い出すでございますよ。二年お渡りがなかったイリス様は家に帰れるはずだったのですが、最後の日に嫌がらせのように陛下がやってきたので、帰ることもできずついに王妃にまでなってしまって……。そりゃイリス様は愛嬌のある素敵な方ですが、でも美しい側室はたくさんいたのに、おかしいと思いませんか?」
一人で喋りながら、ケティは酒を注いでは飲むを繰り返す。
部屋には椅子が二脚しかなかったので、爺やが廊下の騎士に声を掛けてもう一脚持ってこさせる。
三人でテーブルを囲む形になり、酒を飲む。
「ほら、飲んでくださいませ。ケティとお酒は飲めないとおっしゃるのですか? 飲んで、飲みましょう。飲んでくださいませ!」
既に酔っているらしいケティの迫力に押されて、そしてもうどうにも言い訳はできそうにないことを理解して、サンは溜息と共にグラスに口をつけた。
「大変なことも沢山あったのでございますよ。毒を盛られたり大怪我をしたり……。サン様はまだ毒を盛られていませんでございますか?」
「毒……?」
「では、これからかもしれませんよ」
「…………」
毒を盛られるのか。
グラスを握りしめるサンに、ケティはころころと笑う。
「でもまあ、大丈夫でございますよ。あの事件から食べ物には十分気を遣うようになったようですし、今はいい解毒薬もございます。それより……ああ、酒がもうないでございます……」
三本の酒が、もうなくなっている。ケティもだが、爺やも先程からそこそこ飲んでいた。
「爺や、そんな飲み方は体に良くない」
思わずそう言えば、爺やが笑う。
「心配をしてくださるとは、何とお優しい」
空瓶を見つめ、ケティが唇を尖らせる。
「……足りないでございますよね?」
上目遣いで見てくるケティに、サンは首を横に振る。
「いや、十分だ」
「……足りないでございますよね?」
「いや、だから……」
ケティは立ち上がってフラフラと歩くと、ドアを開けて廊下に向かって叫んだ。
「お酒、持って来てくださいー!」
廊下をパタパタと走る音が聞こえ、まるで準備をしていたかのように、すぐに騎士たちから追加の酒がケティに渡された。
「もう酒は……」
「大丈夫でございますよ。今日はとことん飲むでございます」
ケティが酒瓶を抱えてよたよたと歩く。
「先程のお酒より味は落ちますが、質より量でいくでございますよ!」
テーブルに酒瓶を置き、グラスとカップに酒を注ぐ。
「乾杯! ……でもですね、イリス様も悪いことばかりではないのでございますよ。金銀財宝を手に入れて、屋敷の部屋に籠っていたお兄様も仕事をするようになって、可愛いお子様にも恵まれて……。気色悪い気色悪いと言いながら、結構幸せそうなんでございます」
ケティはサンの目を真っ直ぐ見つめ、微笑んだ。
「サン様も、なんだかんだで幸せになる可能性があるでございますよ。そう暗くならずにもっと飲んでくださいませ」
幸せになる可能性などあるのか。むしろ不幸になる可能性の方が高いのではないか。
「もう結構……」
緩く首を振って酒を断るサンに、ケティは力強く頷く。
「大丈夫でございます」
何が大丈夫なのか。
この乳母もどこかおかしい、さすがあのリーニの乳母だと思いながら、サンはドアを手で示した。
「そろそろ終わりに……」
「これからでございます!」
帰る気がまったくないケティは、酒を呷り続ける。そして――。
「寝てはいけない。起きなさい」
溜息を吐きながら、サンはテーブルに突っ伏すケティの肩を揺すった。
部屋には酒のにおいが充満している。
「おやおや、困りましたな」
まったく困っていない様子で爺やが言う。
ケティが薄く目を開いた。
「まだでござ……」
「もう十分飲んだでしょう。帰りなさい」
「まだでございますよ……」
ケティは手を伸ばし、爺やが作った焼き菓子を掴む。
「それは……!」
止める間もなく、ケティは菓子を口の中に放り込んで咀嚼する。
「うん、うん、美味しいでございます」
ついに味覚までおかしくなってしまったか。
「もう本当に帰りなさい」
「暑いでござ……」
「…………!」
腕を持って強引に立たせると、ケティがよろめきながらサンに頭を下げる。
「はい、分かりました。帰るでございますよー。失礼をいたしました。是非また一緒に飲んでくださいませ」
右へ左へとふらつきながら、ケティはドアに向かって歩き出す。お気をつけて、とその背中に爺やが声を掛けた。
「…………」
絶対にもう一緒には飲まない。
ケティが出て行ったのを確認したサンは、溜息を吐きながら足元に転がる酒瓶を拾い上げた。