10
トン! トン!
と、強めのノックの音がした。
茶菓子を取りに行った爺やが戻ってきたのかとも思ったが、ノックの音が違う。爺やはもう少し優しいノックをする。
では誰が……と返事をしようとしたのとドアが開いたのは同時だった。入ってきた人物を見て、サンが眉を寄せる。
「…………」
女性だ。金色の髪を緩く結い上げている。着ているドレスは装飾がほとんどないが、質のいい布を使用していて実に上品だ。ただ……。
「入っていいかしら?」
既に室内に入ってきている女性はそう訊いて、サンに向かって歩いてきた。訝しがりながらも、サンは読んでいた本を閉じる。
「読書中だったの? ごめんなさい」
「……いいえ」
女性がサンの足元を見て、微かに眉を寄せた。
「あの……」
「足枷までするなんて……」
サンと女性の声が重なった。
女性は許可を取ることなくサンの向かいの席に座る。いったい何者なのか。
女性が溜息を吐く。
「あなたも、無理矢理連れて来られたのですって?」
「あなた……、も?」
ということは、この女性も無理矢理ここに連れて来られたというのか。それはリーニに? それとも他の誰かに? いったいどんな理由で……?
眉を寄せるサンに、女性は頷く。
「そう。私もある日突然拉致されて城に連れて来られ、後宮に押し込められたのよ」
「……後宮?」
後宮とは、王の妃たちが住んでいる場所だ。では、この女性はあの王の妃の一人だと言うのか。しかし……。
サンはじっと女性を見つめた。
お世辞にも、綺麗とは言えない顔立ちをしている。
この女性があの王の妃だなどと信じられない。端正な顔立ちのエルラグド王ヴェリオルが、この女性を隣に置く姿は想像できない。
それに拉致されてとは、どういうことだ?
考え込むサンに、女性は「ああ……」と小さく笑った。
「自己紹介がまだだったわね。リーニの母のイリスよ」
「…………」
サンは己の耳を疑った。聞き間違えか。いや、確かにリーニの母だとこの女性は言った。
言われてみれば、髪の色は似ているか。しかしそれ以外はまったく似ていない。リーニの顔は――リーニだけではなく四姉妹の顔は、エルラグド王ヴェリオルによく似ている。
「失礼ですが、エルラグド王の側室様ですか?」
思い切ってサンは訊いてみる。
王太子は側室が産んだ子がなったというのか。
女性が首を横に振る。
「陛下に側室は居ないわ」
「居ない……?」
これ程の大国の王に側室が居ない。そのことも驚きだが、だとすれはこの女性は……。
「……王妃殿下?」
ということになるのだろうか。いや、まさか。
驚くサンに、女性――イリスは自嘲するような笑みを浮かべる。
「残念ながらそうなるわね。イリスと呼んでちょうだい」
「…………」
本当にそうなのか。
目の前に自分を拘束している少女の母親がいる。それが大国の、あの王の妃で、そして……見た目が少々特徴的である。
王は何故この女性を王妃に選んだのか。余程の有力貴族の娘だったのか。いや、見た目で人を判断してはいけない。判断してはいけないが、これは……。
「他の姫たちも、王妃殿下が……?」
「他の子にも会ったの? ええ、そうよ。陛下の四人の子は、すべて私が産んだ子よ」
「…………」
いろいろな考えが頭を駆け巡り言葉が出ないサンに、イリスが小さく首を傾げて訊く。
「足枷、ということは、この部屋からは出られないのかしら? 私の時は後宮内なら自由に動けたのだけど」
「…………」
「……大丈夫なの?」
目の前で手を振られ、サンがハッとする。
「は、はい。王妃殿下」
「イリスと呼んでちょうだい」
名で呼んでいいものだろうか。しかし本人がそう言うのならばと、サンは頷く。
「ところで、イリス様」
「なに?」
「イリス様が拉致されたというのは……?」
イリスが深い溜息を吐く。
「ちょっとした陛下の気まぐれのせいで、ね。馬車が迎えに来たと思ったら、後宮に入れられたのよ。その後放置されて喜んでいたのに、いきなりお相手をさせられて、王妃にまでされてしまったわ」
「…………」
その説明では何が何だか分からない。
「閉じ込められて辛いでしょう?」
「ええ、それは……」
勿論そうだ。
「後宮が空いているから使ったらどうかしら?」
「……は?」
後宮を使え?
何を言っているのか。
「それとも宮殿でも建てるように、陛下に伝えた方がいいかしら?」
宮殿……。
イリスの表情は真剣だ。冗談かとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あの……」
首を傾げるイリスに、サンが告げる。
「私は祖国へ帰りたいのです」
一瞬、イリスはきょとんとした顔でサンを見つめたが、すぐそれは同情の籠った視線と微かな笑いに変わった。
「私もそう思っていた時期があったわ。今でも時々、あの時陛下を刺し殺しておけば良かったと後悔するの」
刺し殺す、という言葉にサンが目を見開く。
王を刺し殺す? 王妃が?
いったい何があったというのか。しかもそれを堂々と口に出すとは。
「毒は盛られる、瀕死の重傷は負わされる、挙句の果てには王妃にさせられる。それもこれも、あの気色の悪い変態のせいだと思うと、本当に今でも……」
大きな溜息を吐き、イリスが額に手を当てて目を閉じた。
「気色の悪い変態……?」
サンが呟く。いったいそれは誰のことなのか。
イリスは目を開け、サンに視線を向ける。
「ここにも来たのでしょう?」
「来た……?」
「陛下よ」
「…………」
気色の悪い変態とは、エルラグド王のことなのか。
王妃とはいえ、それはあまりに不敬……いや、それよりもこの国の王であり夫を気色の悪い変態などと……。
しかしふと、サンはヴェリオルと初めて会った時のことを思い出す。
そうだ、エルラグド王は――。
視線を彷徨わせるサン。
イリスが眉を寄せる。
「何かあったの?」
あったといえば、あった。だがそのことを王妃に訊いていいものなのか。
迷っていれば、ふっとイリスが息を吐く。
「陛下は意味不明な気色の悪い行為をよくするのよ」
あまり気にし過ぎると気を病むと、イリスは自らを嘲るような笑みを浮かべる。いったい、どんなことをされているというのか。
でもね、とイリスは扇を広げる。華やかでいて上品な、宝石付きの扇だ。
「お金だけは手に入るのよ」
サンは、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「え……?」
「嫌な相手と一緒に居るだけで、信じられない程の富が手に入るの」
「…………」
それは、そうだろう。大国の王妃なのだから、富も名誉も手に入るだろう。
「あなたもそうよ」
扇で指され、戸惑うサン。そんなサンに、イリスは若干身を乗り出して語る。
「お金も宝石も宮殿も、それにあなたが望むのならば国だって手に入るわ」
「……国?」
イリスの勢いに押される形でサンは背を反らした。
「あなたの祖国は、お金に困っていないの?」
「いえ……」
サンは首を横に振る。エルラグド程の大国ではないが、トバッチ国は豊かな国である。
「そう。でもお金はいくらあっても困らないでしょう? この先もずっと豊かだとも限らないわ」
「それは……」
そうなのかもしれないが、だからといってそれと引き換えに嫌な相手と居なければいけないというのか。
サンはもう一度首を振った。
「分からないの?」
「分かりません」
「割り切ればいいの」
王太子として育てられて、その考えが必要な場合があることも知っている。知っているが、今回のこれは納得ができるものではない。
イリスが俯いて唇を噛み、それから顔を上げて少し低い声で告げる。
「……ここからは逃げられないわ」
「…………!」
逃げられない。
断言されて、サンは思わず小さく震えた。
「リーニは狙った獲物を逃さない。そういう教育をされているから」
教育、という言葉を聞いたサンの脳裏に、国王ヴェリオルの姿が浮かぶ。
「しかし……」
「逃げられないの、あなたも私も。だから――」
だから、何なのか。
イリスの顔が近づく。
「――一緒に国が傾くくらいの贅沢をしましょう」
サンが目を見開く。
「……は?」
間抜けな声を出すサンを見つめながら、イリスがゆっくりと椅子に座りなおした。
「多少我が儘なところはあるけど、基本的にリーニは優しいいい子よ。そのリーニと一緒に居るだけ、たったそれだけでいいのよ」
「…………」
多少の我が儘でトバッチ国を攻めたのか。優しい子が人を監禁するのか。
この王妃もどこかおかしい。
目を眇めるサンに、イリスは「そういえば……」と顎に扇を軽く当てた。
「陛下が『トバッチ国を滅亡させてやろうか』と激怒していたのをリーニが必死に宥めていたわ。あなた陛下に何をやったの?」
「え……!」
サンが驚愕する。何もやっていない。むしろされたのだ。
「気をつけて。変態だけど、あれでも一応国王なのだから」
イリスは立ち上がると、茫然とするサンに微笑んだ。
「欲しいものがあったら、遠慮なくリーニに言いなさい。何でも手に入るから――自由以外は」
そしてイリスは部屋から出て行く。ドアが閉じる瞬間、振り向いたイリスの瞳に浮かんでいたのは同情か諦めか――。
「自由以外……」
残されたサンは呟き、閉じられたドアをじっと見つめた。