7
なんだこれは、とサンは眉を寄せた。
自由を許されないサンに与えられた本。少しだけ現実から目を背けようとその一冊を手に取り読み始めたのだが、その内容が少々おかしい。
大国に突如攻め入られてあっという間に戦場となった国から、齢六十を越えたベテラン騎士が仲間の助けを借りて、同じく齢六十の姫を連れて敵と戦う恋愛物語。
テラン戦記、と書かれた表紙をもう一度見て、サンは本を閉じた。小さく首を振り、額に手を当ててそのまま髪をかき上げる。捕らえられてから少し痩せてしまったが、指の間からさらさらと零れ落ちる銀の髪は、以前と変わらず美しい。
サンは深い溜息を吐いた。まともな本さえ与えられないのか。それともあえておかしな本を与え、正常な判断ができないようにしてやろうとでも思っているのか。
「その本は、お気に召しませんでしたかな?」
掛けられた声に視線を上げれば、爺やが優雅に茶を飲みながら微笑んできた。
「…………」
ずっと立っているのも辛いだろうと、座る許可を与えた。しかしまさか、目の前の席に座り、主人である自分と同じ茶を飲むとは思ってもいなかった。
エルラグド国では、使用人が主人と同じ席につくことが許されているのだろうか。あまりにも自然に目の前に座られたので、注意することもできなかった。
「そのテラン戦記は、エルラグド国の一部の者に絶大な人気を誇る物語なのです」
その一部の者とは余程の変わり者に違いない。
サンはそっと溜息を吐いて爺やに訊く。
「他の本を読みたいのだが、どこかで借りてきてもらえるか?」
「残念ですが、爺やは重いものを持つと、すぐに腰を痛めてしまいます」
「…………」
何の為に居るのだ。いや、高齢なのだから仕方がないのか。
爺やが立ち上がる。
「しかし、この棚にも面白い本が――ああ、これなどはいかがでしょうか?」
爺やが渡してきたのは、エルラグド国の歴史書だった。
サンが眉を寄せる。
「わたしにこの国について勉強をしろと?」
「敵を知ることは大切かと」
「…………」
パラパラと捲ってみれば、思った以上に細かく書かれていて少し驚く。起こった事柄とそれにどう対処したかが分かりやすく解説してあった。
「それから、こちらもおすすめでございます」
もう一冊、渡されたのは経済に関する本らしい。
「お国に帰った時に役に立つかと思います」
確かにそうかもしれないが……。
「……帰れると思うか?」
「諦めない気持ちが大切かと」
爺やは肯定も否定もしない。
サンは、カップを手に持ち茶を一口飲む。最高級であろう茶葉。ただ、惜しいことに淹れ方があまりよくない。
「トバッチ国は、豊かな国と聞きます」
爺やがまたサンの前に座る。
「確かにそうだが、エルラグド国に比べれば、まったくたいしたことはない」
「爺やはこの国から出たことがないので、遠い国には憧れのようなものを抱きます。是非お国のことを詳しくお聞かせいただきたい」
「トバッチ国のことを……?」
「はい」
ふーむ、とサンは顎に手を当てて小さく唸る。
「穏やかな国だ。民も明るく穏やかな性格の者が多い」
「穏やか、ですか。あまり争い事は好まないということですか?」
そうだ、とサンは頷く。
「無駄な争いはできれば避けたい。その為の努力もしてきた。それはどこも同じではないか?」
ふーむ、と爺やも顎に手を当てる。
「我が国は、力により周辺国を捻じ伏せて大国となりました。そしてそれは今も変わりない。しかしトバッチ国は、周辺国と交流し、良好な関係を築くことで国を守ってきたということですか」
「そうなるな。たまたま周辺に穏やかな国が多かったことが幸いしたのだろう。小競り合いはあるし、同盟国から助けを求められれば赴くこともあるが、最近は戦らしい戦をしていない」
なるほど、と爺やは頷く。
「作物の実りも――、年によって差はあるものの、豊かと言えるだろう。鉱山は残念ながらあまり無い。気候は一年を通して暖かで、外で水浴びをする子供たちが……」
と、そこまで話して、サンは額を押さえる。
「どうかされましたか?」
「……いや、少々嫌なことを思い出しただけだ」
水浴びと言えば、リーニから聞いた話だ。父王が――。
ああ、と爺やが手を打つ。
「そういえば、トバッチ国王も水浴びをされていましたな」
「…………!」
目を見開いて腰を浮かせるサンを、爺やはきょとんとした表情で見上げた。
「どうかなさいましたか?」
サンは、拳を握って爺やに訊く。
「何処でそれを?」
「何処でと言われましても……。姿絵が売っておりましたが」
爺やも姿絵を見たことがあるのか。ということは、その姿絵は大勢の目に留まるような状態にあるのだろうか。
「爺や……」
「はい?」
「その絵のトバッチ国王は……、その、下半身は……」
「ご立派でございました」
父よ――!
「――と言っても、完全に見えていたわけではありませんが。そこらへんは実に上手く誤魔化してありました」
誤魔化してあった?
サンは爺やの目をじっと見て、それから安堵の息を吐く。
「……そうか」
さすがにそのものを忠実に描くことはしなかったか。
サンは椅子に座りなおした。
「その絵は、今でも売っているのだろうか」
爺やが首を横に振る。
「いいえ。売れたようです」
「売れた?」
父の水浴びの絵が売れたというのか。確かに見目は良いが、そんな絵が売れるものなのかとサンは内心首を傾げる。
「はい。さるお金持ちのご婦人が、一目で気に入り購入したと聞いております」
「……そうか」
売れたことは驚きだが、たくさんの目に晒されるくらいならば、いっそ誰かの屋敷にひっそりと飾られていた方が良いかもしれない。
疲れた表情で冷めてしまった茶を見つめるサン。それを見た爺やが立ち上がり、茶を淹れなおす。
どうぞ、と言われて茶が差し出された。頷いてよく確かめもせずに一口飲んだサンが顔を顰める。
「渋いぞ」
「おや、茶葉の量を間違えましたかの? もう一度淹れなおしましょうか」
「いや、いい。次は間違えないでくれ」
そう言えば、爺やが肩を揺らして椅子に座る。
「…………?」
含みがあるような、気になる笑い方だ。
サンは軽く眉を寄せて爺やを見る。
「いや、失礼をいたしました。あまりにお優しいので、感動したというか、心配になったというか……」
それはまさか、馬鹿にしているのか。
サンの表情が険しくなる。
「いえいえ、違います。我が国の王族は高圧的なお方が多いので、実に新鮮で。――おお、そうそう、それよりも……」
笑いを収め、爺やが訊く。
「トバッチ国は、芸術に力を入れているのでしょうか?」
「なに?」
「絵を熱心に売っているようなので、そうなのかと」
サンは大きく息を吐き、首を横に振る。
「そういうわけではない」
あれは父王が勝手に売っていただけだ。
「では、何に力を入れておられるのですかな?」
「…………」
サンは視線を濃すぎて黒くなっている茶に向ける。
他国に誇れる産業、と言われれば言葉に詰まる。豊かではあるが、これと言える産業が無いのも事実だ。
「たとえば……」
と、爺やが茶を一口飲んで顔を顰める。
「……不味いですな。まあそれはさておき、たとえばですが、サン様が着ている服の生地は、ある国でしか育たない植物の綿を紡いだ糸から作られているのです。しかし、その生地を使った製品となれば、そこから西に行った国が有名ですな」
サンが軽く眉を寄せる。
「それはどういう……」
「いや、別に。ただ芸術方面に力を入れているのであれば、細工なども得意なのかと思っただけでございますよ。確かトバッチ国の周辺の国で、鉱山が見つかったとか……」
サンが目を見開く。
「なに……?」
サンの反応に、爺やが首を傾げた。
「おや、違いましたかの?」
目を眇め、サンが爺やを見つめる。
「その情報はどこで?」
「お世話を仰せつかった時に、小耳にはさんだのです。リーニ様たちは、サン様をトバッチ国に迎えに行くついでに情報収集もしていたとか。これはその時に得た情報らしいです」
「…………」
そんなことまでしていたのか。
トバッチ国では、そんな情報は得ていない。本当なのかそうでないのか、今のサンには分からない。
俯いて考え込むサンの目の前から、黒い茶が消える。
「やはり、淹れなおしましょう」
爺やが立ち上がり、茶を淹れなおす。
再び目の前に置かれたカップの中を見れば、そこには淡く色が付いた茶があった。
サンはカップを手に持ち、その茶を一口飲む。
「……爺や」
「はい」
「薄い」
湯の味しかしないと言えば、爺やが肩を落とす。
「なかなか上手くいかないものでございますな。淹れなおしましょう」
カップを回収しようとする爺やの手をサンが止める。
「いや、いい。次は美味く淹れてくれ」
爺やが片眉を上げ、それから笑みを浮かべる。
「ほほ。やはりお優しい」
サンは軽く眉を寄せ、爺やが薦めた本を手に取る。読書に集中することで、いろいろなことをほんの少しの間だけ忘れたい。
本を捲る音と爺やが茶を啜る音、それだけが静かな部屋に響いた。