5
眠い、眠れない。
痛い、痛くない。
苦しい、苦しくない。
どこが――?
ハッと目を開ければ、大変なことになっていた。
どこの何が大変なことになっていたかはともかくとして、サンは慌てて膝の上に乗っていたリーニを強引に向かいの席に転がす。
「やん!」
潤んだ目で見てくるリーニから視線を逸らして額に手を当てる。うっかりうたた寝していたようだ。その僅かな隙に、襲われかけていた。
サンは大きく息を吐く。
揺れの少ない造りの馬車の中、当然のように椅子も座り心地が良い。それは、連日連夜のリーニからの猛攻を耐え凌いできたサンの眠りを誘う。
サンは唇を強く噛みしめる。
寝てはいけない。ここで眠れば――。
「…………?」
不意に、馬車が止まった。休憩にしては少々乱暴な止まり方だ。
どうしたのかと訝しがるサンの目の前で馬車のドアが開き、馬に乗ったままのケントが馬車の中を覗いてくる。
「悲鳴が聞こえたがどうした?」
どうやらリーニの声が外まで聞こえていたらしい。
サンは溜息を吐いてケントを見つめる。
「何もしていませんよ」
「ああ、また襲われたのか」
口角を上げるケントに、サンは眉を寄せる。
旅の間ケントとは同室で、当然同じようにリーニの猛攻で眠れないはずなのに、どうして平気な顔をしていられるのか。体力があるという理由だけではなく、眠り方に何か秘密でもあるのだろうか。
「顔色が悪い。寝ておけ」
「ここで?」
「おいリーニ、寝ろ」
「まだ眠くないわ」
リーニは宿でも馬車でも隙あらばサンを襲い、疲れたら眠る。しかし眠っていると油断していると、突然襲われたりもする。その結果、サンは休む暇がないのだ。
「いいから寝ろよ」
「嫌よ」
リーニとケントの会話を聞きながら、サンは腰を浮かせる。
「ん? どうした?」
「馬を貸してください」
「いや、駄目だろ」
「逃げるつもりではありません」
「そうじゃなくて、そんな顔色じゃ馬に乗るのは無理だって言ってるんだ」
落馬の危険があると指摘されるが、サンは首を横に振る。
「馬車の中より余程安全です」
とにかく離れたい、とサンは切実に願う。
ケントはサンとリーニを交互に見ると、小さく唸った。
「俺の後ろでよければ乗せてやる」
本当はリーニが馬の方がいいのだろうが、と言いながらケントは馬から降りて、周囲のものに指示を出す。鞍を付け替えるようだ。
まさか相乗りすると思っていなかったサンは驚き、しかし馬車の中よりはましだと外に出る。
「ちょっと、狡い!」
「うるさい。お前は馬車から出てくるな」
ケントが再び馬に乗り、サンはケントの後ろに乗る。リーニが何か喚いているが、兵士がリーニを中に押し込んで馬車のドアを閉めた。
「兵たちは、姫にあまり遠慮がないですね」
この旅の中で常々思っていたことを口にすれば、ケントが小さく笑う。
「まあな。ここに居るのは俺の隊の奴らばかりだからな」
頭がこういう態度だから、部下も遠慮が無くなるのだろうか。
「隊を一つ任されているのですか?」
「そうだ」
「その若さでとは凄いですね」
「実力があれば年齢は関係ないだろう?」
完全なる実力主義ということか。
「それであなたの部下たちも、年齢がまちまちなのですか」
サンは周囲を見回す。十代から四十代くらいに見える者までいる。
「俺の動きと指示についてこられるっていうのが、俺の隊に入る条件だ。それが満たされていれば年齢は関係ない。もちろん出自もな。それよりしっかり抱きつけ」
落ちるといけないから、抱きつくことは仕方がない。
サンはケントの腰に腕を絡めてしっかりと抱きつく。それを確認してからケントは馬を歩かせる。
「走らせるぞ」
そして速度を上げる。
頬に当たる風が気持ちいい。何よりも、リーニと離れたことが、サンの心を安らがせた。
いつしかサンはうとうととして、ケントの腰にしがみついたまま眠ってしまった。
力が抜けそうになるたびにハッと目を覚まして腕に力を込める。そんなことを繰り返していれば、大判の布で体を包まれて、紐でケントに括り付けられてしまう。
体がしっかりと固定され、サンの眠りは深くなる。
どれくらい眠ったのか。体を揺すられて目を覚ませば、ケントの背中が見えた。
「起きたか」
並走していた馬がすっと離れる。どうやら揺り起こしたのはケントではなく部下だったらしい。
「エルラグド国に入っているぞ」
「え?」
ぼんやりとしていたサンは、その言葉で目をしっかりと開けて周りを見回す。
のどかな田舎の風景が目に飛び込んでくる。しかしよく見れば道はよく整備されていて、こんな国の端にまで手が行き届いているという事実に国力の差を感じた。
「もう少し行けば街がある。そこで休憩だ」
ケントの言葉通り、少し走った先に街があり、そこでサンは馬から降りた。と、その途端、体がふらつく。かなり眠ったので回復したと思っていたが、そうではなかったらしい。
ケントがサンの体を支える。
「おい、しっかりしてくれよ」
呆れた口調がサンの胸に突き刺さる。
なんて情けない。
鍛えているつもりだった。それが、特殊な状況であるとはいえ、数日の旅でこのざまだ。
俯いて唇を噛みしめれば、溜息を吐かれた。
「まあ、当然か。仕方がねえな。あれを使うか」
サンが顔を上げる。
あれ、とは何か。
訊こうとした時、後ろから異様な気配が近づく。
「…………!」
驚き振り向けば、それはリーニだった。
「狡いわ狡いわ! 一人でサン様の体を堪能して! サン様もそんな風にしなだれかかって色気が駄々漏れで、私、私もう……!」
意味不明な言葉を叫びつつ飛びついてくるリーニを軽く避け、ケントはサンを連れて食堂に入る。
椅子に座らされたサンの目の前に、ケントが何かを置いた。
「これは……?」
「薬包」
「それは見れば分かります」
問題は、その中身だ。
「疲労回復薬とでも言えばいいか。俺たちは旅の間これを飲んでいた」
ケントが薬包を開けば、そこには緑色の粉が入っていた。その粉をケントが少しだけ自分の口に入れる。
「不味い。が、効き目は抜群だ」
飲め、と言うように差し出された薬包を、サンはじっと見つめる。
「わざわざ毒を盛る必要などないだろう?」
その通りではあるが、怪しすぎる。
躊躇していれば、食堂に入って来たリーニが近づいてきて首を傾げた。
「あら、サン様はお薬苦手? じゃあ私が口移しで飲ませて差し上げるわ!」
リーニが嬉々として薬包を掴もうとする。
それを見たサンは、慌てて薬包を掴むと己の口の中に粉を入れた。
安全なものかどうかもっと確かめてから飲むべきなのだろう。だが、リーニの口移しなど冗談ではない。
「う……」
ケントの言う通り薬は不味い。
顔を顰めれば、目の前に飲み物の入ったコップが置かれる。コップを掴んで中身を喉に流し込めば、ほんのりと甘い味がする。砂糖水だったようだ。
「暫くすれば、体調が回復してくるだろう。じゃあメシにするか。ああ、その前に用を足した方がいいか」
「私がお手伝いするわ!」
「おい、誰かリーニを拘束しておけ」
連れ立ってトイレで用を足し、食堂に戻ればリーニが頬を膨らませていた。
「酷いわ! 私だって見たかったのに!」
何を、とは訊かずにサンは椅子に座り、出された料理を食べる。
「サン様、あーん」
差し出されたフォークを無視して黙々と食べ、その後は少しだけ休憩をしてから再び出発の準備をする。渡されたローブを羽織り、そこでふとサンは気づいた。
体が軽くなっている。疲れがかなりとれているようだ。
まさか、先程の薬が効いているのか。しかしこんなに早く効果があらわれるものなのだろうか。
「どうした?」
サンの表情を見て、ケントが声を掛ける。
「体調が……、よくなっているような気がするのです」
「ああ、凄いだろう?」
「あの薬、ですか?」
「そうだ」
信じられないという表情をするサンを見て、ケントは肩で笑う。
「本当はもっと早くに渡す予定だったのだが、予想以上に頑張るから、薬なしでどこまでいけるのか見てみたくなった」
まさかここまで踏ん張るとは思わなかったとケントはサンの肩を叩く。
サンは眉を寄せた。
「いつ音を上げるか試していたと?」
「そう怒るな」
別に怒ってはいない。嫌悪感があるだけだ。
「砦を溶かした兵器を作った奴と、その薬を作った奴は同じだ」
「え?」
ケントの言葉にサンは軽く目を見開く。
「兵器も薬も、その男が一人で考えて作った」
「…………」
サンは愕然とした。兵器と薬、全く違う二つのものを作ったのが同一人物だというのか。
「天才、ですね」
「いいや。変態だって言っただろう?」
サンは緩く首を振る。どちらだろうが凄い人物に変わりはない。そしてそんな人物がエルラグド国には存在する。
外に出れば、新しい馬が用意されていた。
「どうする? また俺の後ろに乗るか?」
「いいえ。できれば一人で馬に乗りたいです」
「馬車という選択は?」
「あり得ません」
きっぱりと言ったところで、別室で着替えていたリーニが戻ってくる。
「ねえ、このドレスどうかしら?」
リーニはサンの前でくるりと回って見せる。
「……似合っていると思います」
実際似合っている。それに可愛らしい。黙って大人しくさえしていれば、ただの美少女なのだ。
「うふふ、ありがとう。じゃあ馬車に――」
「乗りません」
「――ええ!?」
大袈裟に驚くリーニから視線を外し、サンは馬に乗る。
「なーんてね!」
「え?」
サンは目を見開き、慌てて手綱を強く握った。
馬が上げかけた脚を地面に下ろす。
「姫!」
思わず声を荒げた。なんとリーニが、突然後ろに飛び乗ってきたのだ。
「なに?」
首を傾げるリーニ。
サンは怒鳴りつけたい気持ちを堪える。下手をすれば大怪我をしていたかもしれないと、この少女は分かっていないのだろうか。
「危険です。降りてください」
冷静になれと自分に言い聞かせ、意識して落ち着いた声を出す。
「嫌よ。サン様とケントだって二人乗りをしていたじゃない」
リーニがぎゅっと腰に抱きついてくる。
「いけませ――」
「こら、降りろ」
ケントがリーニを引きずり下ろす。そのままリーニは数人がかりで馬車の中に押し込められた。
ほっと息を吐くサンに、ケントが注意する。
「油断するな。それからフードをもっと深くかぶれ」
お前の容姿は人目を引くと言いながら、ケントも馬に乗る。
サンがフードを目深にかぶり、それを確認してからケントが号令をかけた。
「出発だ!」
「嫌あああ! 出しなさいよ!」
「うるさいぞ、リーニ!」
一行は王都に向けて馬を進めた。