1
カツカツと靴音が廊下に響く。
音に気づいて振り向いた女達が、「きゃ!」と小さな歓声を上げてから廊下の端に並び、頭を下げる。
近づいてくる人影が二つ。
女達は頭を下げながらもこっそりと視線を上に向ける。
長い手足に、一見細く見えるが程よい筋肉の付いた体、更に視線を上げれば、形の良い顎と唇が見え――と、そこで、
「…………!」
女の一人が、手に持っていたままの雑巾を床に落としてしまった。
息を呑む女達。
すぐに拾わなくてはと手を伸ばそうとした時、スッと伸びてきた節くれ立った指。その指は躊躇なく雑巾を拾い、固まっている女に向かって差し出す。
「はい、どうぞ」
女は動けない。目の前の男を、目を見開いて見つめることしかできない。
すると、雑巾を拾った男の後ろにいた男が咳払いをした。それでハッと我に返った女が、漸く震える手を伸ばして雑巾を受け取る。
雑巾を拾った男が女達を端から順番に見ていく。赤みがかった瞳で見つめられ、女達の頬が朱色に染まる。
男は、ふわりと柔らかい笑顔を見せた。
「いつも城を綺麗にしてくれてありがとう」
衝撃を受ける女達。笑顔だけではなく言葉まで……。
女達の意識がふっと飛びかける、とそこで後ろに居た男がまた咳払いをした。
「兄上、そろそろ行きましょう」
「ああ」
男が頷き踵を返せば、銀の髪が光の加減により不思議な光沢を見せる。
「サン様……」
遠ざかっていく姿を、女達は失神寸前の状態で見つめ続けた。
「兄上」
眉を寄せて話し掛けてくる弟に、兄は首を傾げた。
「なんだ、カイ」
「なんだ、ではありません。誰にでも笑顔を振りまいては困ります」
「別にそんなことは……」
「しています!」
口を尖らせる弟の姿に、兄――トバッチ国の第一王子であるサンは苦笑した。
「ただでさえ兄上の容姿は特別なのに、その上優しい言葉まで掛けて……。妙な勘違いでも起こされたら面倒なことになりますよ」
「考え過ぎだ」
自分の容姿が他より優れていることは、サンも分かっている。天使の祝福を受けている、などと言う者までいることも。
だが使用人に労いの言葉をかけたくらいで何かあるとは思えない。民を大事にすることは、王太子として当然のことだとサンは思っているのだ。
「お前だって、似たようなものではないか」
「全然違います。残念ながら」
横を歩く弟のカイも、決して醜い容姿をしているわけではない。それどころか、かなりの美男子なのだ。髪はサンと同じ銀、瞳は青。だがサンと並べばどうしてもそれは霞んでしまう。
サンは肩を竦めて弟に微笑みかける。
「分かった、気をつけるよ」
「またそういう表情をする」
「お前は弟だろう?」
「駄目です。仏頂面の練習でもしてください」
「大袈裟な」
呆れるサンを、カイは真面目な表情で見つめる。
「そんなことを言っていると、いつか酷い目に遭いますよ」
勉強も剣術もできて容姿も端麗な兄は、カイの自慢である。ただ、優しすぎるというかお人好しというか、そういうところが少々心配なのだ。
「まさか……」
そんなことは、と言いかけた時、遠くで悲鳴のような声が聞こえた。
サンとカイは一瞬視線を合わすと、すぐに声が聞こえた方向へ走り出す。サンの表情も、真剣なものに変わっていた。
トバッチ国は穏やかな国である。もう長い間他国と争うような状況にもなっていない。だが、先程聞こえた悲鳴はあきらかに異常を伝えていた。
声が聞こえたのは、城の入り口の辺り。その辺りに行けば、人だかりができていた。
「何かあったのか!」
サンの声に皆がハッと振り向き道を開ける。そして、
「で、殿下……」
城の兵に支えられた状態で、一人の男が喘ぎながら顔を上げる。顔は汚れ、髪は乱れ、服もやぶれている。だがその汚れた服をよく見れば、トバッチ国の兵士服であることが分かる。
サンが男に近づく。
「何があった」
男は顔を歪め、だが気力を振り絞って声を出す。
「砦が……、砦が溶けました!」
何を言っているのか。
サンとカイは顔を見合わせた。
「溶けたのです! 砦は混乱、わたしは隊長より急ぎ知らせよと命を受け……」
「落ち着きなさい」
サンは男を支える兵に目配せをして男を移動させ、周囲に視線を向けた。
「皆は仕事に戻りなさい」
心配することはない、とばかりに笑顔を向ければ、納得はしていなくともその場から皆が去っていく。
サンとカイは足早にその場を去りつつ小声で話す。
「どういうことだと思う?」
「溶ける、というのが分かりませんが……」
嘘を吐いているような感じでもない。
何かが起こっている。
王と宰相に急ぎ知らせて謁見の準備を整え、サンとカイは男を父の元に連れて行く。
そこで男が話したことは、おとぎ噺のような信じられない内容だった。
男は隣国との国境にある砦を護る兵らしい。現在隣国との関係は良好。もちろん手を抜いているわけではないが、砦でも穏やかで平和な毎日が続いていた。
「それが見えた時、商隊かと思ったのです」
旅の一団らしき影が遠くに見え、近づいてくる。正面から堂々と近づいてくる小さな集団に、砦の兵士達は商隊が入国手続きに来たと思ったのだ。ところが、
「突然、その集団が引いていた荷車から何か……光のようなものが飛び出し、そして……」
砦が溶けた――。
崩れたのではない、どろりと溶けて無くなったのだと男は言う。
溶けたのは砦の上部。怪我人はいなかったが兵は混乱し、その上、
「白い鎧を身に付けた少年が砦の中に入ってきて、次々と兵を倒していったのです」
男は隊長からこの状況を陛下に伝えるようにと命じられ、馬に乗り一人この城まで駆けてきたらしい。
そして更に、男は衝撃の事実を伝える。
「少年は『白騎士ケント』と名乗っておりました。襲ってきた一団はその少年を筆頭に数名。荷車に載せられていたものは兵器らしいのですが、詳しいことは分かりません。一団の中心には馬車があり、その馬車には……」
男はそこで一度言葉を区切る。
馬車に何があるのか。
皆の緊張が高まり、男は拳を握りしめて声を絞り出す。
「馬車には、エルラグド国の紋章が!」
馬鹿な、と誰かの声が響いた。
サンも目を見開いて男を見つめる。
エルラグド国と言えば、大陸一の大国ではないか。大規模な軍隊を保有する最強国、それが何故トバッチに、それも攻撃を仕掛けてくるというのか。
エルラグド国とトバッチ国に交流はない。当然不興を買った覚えもなく、トバッチは豊かな国とは言えども、大国のエルラグドからしてみればたいした財などない。攻める理由などない筈だ。
王に視線を向ければ、青い顔をして茫然としている。
エルラグド国から宣戦布告文が送られてきた事実もない。
「兄上……」
サンはカイに視線を向ける。カイの顔色は悪い、そしておそらく己の顔色も悪いだろうと思いながら、サンは王に代わって周りの者達に指示を出す。
たった数人で攻めてきたというのも気になる。
事実を確認し、緊急の会議を開き、もし本当にエルラグド国が攻めてきているのならば、迎え撃たねばならないだろう。いつでも出撃できるように軍の準備を整え――、だが勝てる可能性はあるのか?
エルラグド国の目的は何なのか。国が、民が生き残るためにどうすればよいのか。
何かの間違いであってくれたなら――。
サンは中空を睨んで唇を噛んだ。