今日だけの関係
「あぁ……」
と、ベッドの中で溜息を吐き、イリスは髪をかき上げた。
「どうした、イリス?」
もう一度溜息を吐いて、イリスは横に寝ている男をチラリと見る。淡い光に照らされた、端正な顔が近づいてきた。
「鬱陶しくて……」
「何がだ?」
「陛下が」
「…………」
またか、とヴェリオルが心の中で呟く。
イリスは眉を寄せ、ヴェリオルの身体を掌で押した。
「こうずっと傍にいられたら、息が詰まります。何処か遠くに静養にでも行ってもらえませんか? 数年間ほど」
「イリス……」
ヴェリオルがイリスの手を握り、首を横に振る。
「そう言うな。身重のお前を置いて、何処かに行けるわけがないだろう」
臨月に入り大きくなったイリスの腹を、ヴェリオルは見つめた。
「執務室に寝泊まりされてはいかがですか? 陛下がさぼってばかりいるので仕事が溜まって困っていると、宰相補佐が嘆いておりましたよ」
「あいつ……」
いつの間にイリスに余計なことを吹き込んだのか。決してさぼってなどいない。ただ仕事の量が多すぎるのだと舌打ちをして、ヴェリオルはイリスの髪を手で梳く。
「あれの言うことは聞かなくてもいい」
「ああ、そうですか。早く何処かへ行ってもらえますか?」
「イリス――」
今日は、いつもより刺々しくてしつこい。ヴェリオルが怪訝そうに、イリスの瞳を覗き込んだ。
「――もしかして、やきもちを焼いているのか? ネイラスに」
イリスが大きく目を見開き、それからヴェリオルに向かってあからさまに嫌悪の視線を向ける。
「何を言っているのですか?」
「仕事ばかりであまり構ってやれなくて、すまないと思っているのだぞ」
「…………」
驚くほど自分に都合の良い解釈。何処かに行ってほしいと散々訴えているのに、何がどうなって、そんな考えに辿り着くのか。勘違いもここまで行くと、怒りを通り過ぎて気色が悪い。だいたい、宰相補佐にやきもちを焼く、というのが理解できない。
混乱する頭を軽く振り、イリスは額に手を当てる。と、その時――。
「…………?」
「どうした、イリス?」
表情の変化に気づいたヴェリオルが、イリスに訊く。
「いいえ、たいしたことはないのですが……、なんとなくお腹が痛いような気がして……」
「何?」
腹を撫で、イリスが首を傾げる。ヴェリオルはそんなイリスを一瞬真剣な表情で見つめ、ベッドから降りた。
「陛下?」
「医師を呼ぼう」
「いえ、少しチクリとしたような気がしただけで、もう何ともありません」
「駄目だ」
イリスの制止を無視し、ヴェリオルは大きな声で、隣室に控えていたフェルディーナを呼んだ。
「生まれます」
医師に言われ、ヴェリオルは「は?」と間抜けな声を出した。
「うまれる?」
「はい。今すぐにでも」
「…………」
ヴェリオルはポカンと口を開けて、廊下からイリスの居る部屋のドアを見つめた。念のために診察をとは思ったが、まさか生まれる寸前だったというのか。出産とは時間のかかるものだと聞いていたが、違うのか。
事態を上手く飲み込めていないヴェリオルを残し、医師が頭を下げて急いで部屋の中に戻って行く。と、そこに聞こえる足音と声。
「陛下」
振り向くと、宰相補佐であるネイラスが足早にこちらに向かってきていた。
「お世継ぎ誕生と聞きましたが」
「……ああ、そのようだ、な」
「では、急ぎ準備を致します」
「ああ……、そうして――!」
ネイラスの言葉に、ヴェリオルはハッとした。『準備』。そうだ、呆然としている場合ではない。必要なものがあったのだった。
「ネイラス!」
「はい、陛下」
必要なもの、それは――。
「宝物庫の鍵を――」
「駄目です」
言い終わる前の冷たい返答に、ヴェリオルは眉を寄せた。
「イリスが――」
「駄目です」
ヴェリオルが忌々しげにネイラスを睨み舌打ちする。
「出産祝いのことは、以前話しただろう」
ネイラスは分かっているというように、大きく頷いた。
「ええ。宝物庫の宝をやる、と約束されたのでしたね」
「ならば何故、鍵を寄越さない」
「何故、と、聞きますか? 国を滅ぼす気なのですか、陛下は」
ある程度ならばいい。だが、イリスの要求は度を越している。そしてそれを叶えようとするヴェリオルもおかしい、と、ネイラスは首を緩く振る。国民が以前噂していた『傾国のブサイク』という言葉も、このままでは笑い話でなくなってしまう恐れがある。
「国が傾くほどのことをするわけがないだろう。俺は『国王』なのだぞ。早く鍵を寄越せ」
「駄目です」
ネイラスが頑なに拒否し、喚くヴェリオルを無視して踵を返したその時――。
「…………!」
部屋の中から聞こえた歓声。
弾かれたように振り向いたヴェリオルの前で、ドアが薄く開いた。
「……何故、俺よりも先に侍女が抱いている?」
眉を寄せるヴェリオルと、睨まれておろおろとするケティ。そのケティの腕には、生まれて間もない赤ん坊がしっかりと抱かれている。
ケティは乳母だから、と言っても納得はしそうにないか。
イリスは深い溜息を吐いて、ゆっくりと口を開いた。
「ケティ、陛下に……」
ケティが赤ん坊を差し出す。ヴェリオルは一瞬だけケティに鋭い視線を向け、それからそっと赤ん坊を腕に抱いた。
「なんて、愛らしい」
生まれたばかりでもはっきりと分かるほど自分に似た女の子に、ヴェリオルは笑みを浮かべる。
「ええ、見事に陛下似です」
「でも、髪の色はイリス似だ」
「そうですね」
少しだけ生えた短い髪にイリスが指先を伸ばす。奇跡的に両親の良いところだけを受け継いだ子は、とびきりの美人になるに違いない。
そんなことを思いながら赤ん坊を見ていた二人に、控えていた医師が、遠慮がちに声を掛けた。
「陛下、王妃様はお疲れのようですし、そろそろお休みになった方がよろしいかと思いますが……」
ああ、と頷いて、ヴェリオルは名残惜しげに赤ん坊をケティに渡す。いくらイリスが丈夫だと言っても、さすがに今は休ませてやらなくてはならない。
「イリス、ゆっくり休め」
額に口づけて離れようとするヴェリオル。だが、その手をイリスが握った。
「ん? どうした?」
何か伝えたいことでもあるのだろうか。
離れようとしていたヴェリオルが動きを止める。イリスはヴェリオルの目を間近で見つめ、握る手に少しだけ力を込める。
「……宝物庫の宝」
呟くような、イリスの言葉。
「――――!」
ヴェリオルは、ぎょっと目を見開いた。今、『宝』と言ったか。
「いや、それは……これから用意する」
もう催促するとは早すぎる。ヴェリオルは足を一歩後ろに引き、イリスから身体を離す。
しまった、何とかネイラスから鍵を奪わなくてはならない。いや、もういっそ鍵は諦めて、良い宝を持っていそうな国を攻め落としてあれこれ奪った方が早いか。
考えを巡らすヴェリオルに、イリスは眉を寄せた。
「まさか、鍵を手に入れられなかったのですか?」
うっ、と言葉に詰まったヴェリオル。やはりそうなのか、と言うように、イリスはまた溜息を吐く。そのイリスの態度にヴェリオルは慌てた。
「だ、大丈夫だ。ちょっと忙しくてまだ用意できていないだけで、必ずお前に宝を――」
「まあ、いいです」
「――なに?」
必死に言い訳をしていたヴェリオルが、言葉を止めて首を傾げる。今、イリスは何と言ったか。
イリスがだるそうに口を開き、もう一度同じ言葉を言う。
「いいです」
「いい?」
「はい」
「…………」
それはつまり、宝は要らないという意味なのか?
ヴェリオルは驚愕し、慌ててイリスの額に手を当てた。
「具合が悪いなら、そう言え!」
心の底から心配しているようなその言動にムッとし、イリスがヴェリオルを睨む。
「悪くありません。そうではなくて、あの宰相補佐から鍵を奪うのは容易ではないので、とりあえず今はいい、と言っているのです」
「……ああ」
そうなのか、とヴェリオルは胸を撫で下ろした。具合が悪くないならそれでいい。
「分かった。では、ゆっくりと休め」
そう言って歩き出そうとするヴェリオルの手を、しかしまだイリスは離さない。
「イリス?」
「――今日だけ」
「なに?」
天井を見つめ、イリスは呟く。
「今日一日だけ、側に居てもいいです」
少し掠れたイリスの声が、ヴェリオルの耳を通り、頭に届く。
「…………」
その意味を理解するまで数秒、ヴェリオルはイリスをじっと見つめた。つまり、それは――。
「『お願い、行かないで』と言って――」
「違います」
ヴェリオルの言葉を素早く否定し、イリスは視線を赤ん坊に向けた。
「仕事が溜まっている陛下をここにとどめておけば、あの宰相補佐が困り果てて宝物庫の鍵を持って来るかもしれませんから。簡単に言うと、人質です」
「…………」
王妃が宝欲しさに、国王を人質――。
「ですから、今日だけ側に居ていいです」
イリスがケティに目配せをする。ケティが頷いて、赤ん坊をもう一度ヴェリオルに差し出し、ヴェリオルは戸惑いつつも再び赤ん坊を抱いた。
腕から全身に広がる温もり。動けない男を残したまま、静かに時は流れる。そうして、力を込めればすぐに壊れてしまいそうな小さな存在の熱に、徐々に満たされていく。
今しがた感じていた戸惑いも焦りも迷いも、熱の中に穏やかに溶けていき、残ったのは、ただ一つの感情。
ああ、そうか。ならば――。
ヴェリオルは小さく息を吐いて、口角を上げた。
「今日だけ、か?」
「今日だけ、です」
ケティが持ってきた椅子に、ヴェリオルが腰を下ろす。
今日一日だけは、愛しい二人の側にずっと居ようか――人質として。
「そうだ、子守唄でも歌ってやろうか?」
「いりません、迷惑です。陛下はただ――静かにここに居れば、それでいいのですから」
「……そうか」
「はい」
赤ん坊があくびをして、深い緑色の瞳で自分を抱く人間を見つめる。それに気づいたヴェリオルが目を細める。
イリスは視線をゆっくりと天井に向け、大きなあくびをして目を閉じた。