ユインとジェス 後編
「お疲れでございますか?」
そう声を掛けられ、王妃の部屋の扉番をしていたユインはハッとした。顔を上げると、首を傾げたケティと目が合う。
いつの間に目の前に来ていたのか。これでは扉番の意味がないではないか。
ユインはたるんでいた気持ちを引き締めるように、背筋を伸ばした。
「いや、大丈夫です」
「でも、ボーっとしているでございますよ」
「そんなことは……」
首を横に振るユインの手首を、ケティが掴む。
「分かっております。さあさ、こちらへ」
何が分かっているのか。ぐいぐいと引っ張られ、ユインが慌てる。
「持ち場を離れるわけには――」
「交代の時間でございますよ。ほら」
ケティが指さす方向を見ると、確かに交代の騎士が歩いてきていた。
「ケティ殿、引継ぎをしなくては……」
「では、さっさと済ませてくださいませ」
何故ケティに命令されなくてはならないのか。若干不満に思いつつ引継ぎを済ませたユインは、ケティに引きずられるようにして、そのまま城の一室へと連れて行かれた。
「ケティ殿……」
「ええ、ええ。分かっておりますよ」
ケティは頷いて、ユインの手に小瓶を握らせる。
「これは……?」
小瓶の中には、どこかで見たような怪しい液体が入っている。まさかとは思うが……。
「『鋼鉄薬・魔』でございますよ」
やはり鋼鉄薬か、とユインは眉を顰める。しかし『魔』というのは何なのか。
「お気に召さないでございますか? ではこちらの『鋼鉄薬・神』はいかがでございますか?」
今度は『神』なのか。
「二つを同時に使用すれば、更に効くのでございますよ」
「…………」
いったい何に効くと言うのか。ユインは小瓶を押し付けるようにしてケティに返した。
「自分には必要がないので」
「またまたそんな。お疲れなのでございますよね? この薬は疲れに最高に効くので、ジェス様のお相手も存分にできますですよ」
「…………」
何か、大きな勘違いをされている。ユインは溜息を吐いて、首を横に振った。
「要らないのでございますか? せっかく陛下から分けて頂いたのに……」
残念そうに唇を尖らせるケティ。いや、それより――。
(陛下から分けてもらった……?)
この薬が何の目的で使用されているのか少々不安に思いながら、ユインはきっぱりと言う。
「必要ない。ジェス殿と自分は、そういう関係ではない」
ケティが「え?」と驚いてユインを見上げた。
「そういう関係じゃない……? どうしてでございますか?」
「どうしてと言われても……」
ユインが顔を顰める。
「もしやジェス様は変態なのでございますか? 陛下のように」
「いや、そういう趣味は無い……と思う」
「じゃあ何が気に入らないのでございますか」
「気に入らないというわけでは……」
曖昧なユインの態度に、ケティは「うーん」と唸って顎に手を当てた。
「何が問題なのでしょうか? 気になることでもあるのでございますか?」
「気になることというか……」
ユインの瞳が揺れる。それをケティは見逃さなかった。
「悩み事なら相談に乗ります!」
「悩みというか――」
ユインが小さく溜息を吐いて、視線を逸らす。
「――何故、あんな言い方をするのかと思っただけで……」
亡くなった妻に対する言葉に、違和感を覚えた。
ケティが首を傾げてユインの顔を覗き込む。
「まあまあ、喧嘩でございますか? 仲直りは早めの方がいいでございますよ」
一瞬、ユインが唇を噛む。
「……そういうのではない」
「はい、分かっております。男と女の間には、言葉にはできないようなことがいろいろあるものですから。大丈夫でございますよ、そういう時は態度で伝えれば良いのですから。真に大切なのは相手への気持ちでございます。そんな時にも役立つのが、陛下もご愛用の、この『鋼鉄薬・魔神』でございます。一服盛れば、たちまち――」
(だから、そういうのでは……)
ケティの言葉をぼんやりと聞きながら、再び押し付けられた小瓶の中で緩やかに蠢く液体を、ユインは見つめた。
少しだけ頭が痛む。いや、痛むのは頭ではなく――。
いつもより早く、まだ明るい時間に仕事を切り上げてジェスの屋敷に帰ったユインは、ベルを鳴らして使用人を呼ぶこともせず、静かに屋敷の中に入った。
食事の準備をしているのだろうか、パンの焼ける匂いが微かに廊下まで漂ってくる。そういえば、とケティのせいで昼食を食べ損なったことを思いだし、その途端に腹が鳴る。
菓子か果物でも貰おうか、しかし今食べると夕食に差し支えるか。迷いながら廊下を歩いていると、ふと、パンの匂いとは別の匂いが漂っていることに気づいた。これは――、
(煙草?)
そう、煙草だ。しかし誰が。この屋敷に煙草を吸うものが居ただろうか?
訝しげに思いながら歩いていると、近くの部屋から『ガタン』と何かが倒れるような音が聞こえた。
(あの部屋は……)
ユインは立ち止まった。音が聞こえたのは、肖像画が飾ってあった部屋ではないか?
使用人が居るのだろうか? 少しだけ迷って、それからユインは肖像画の部屋に足早に近づいてドアをノックした。すると――、
「はい?」
聞こえた声に驚く。
「ジェス殿……?」
こんな時間に、何故帰っているのか。固まったユインの目の前でドアが開いた。
「ユイン? こんなに早い時間にどうしたのですか?」
ユインを見たジェスが軽く目を見開く。
「それは……こちらの台詞です」
そのジェスの人差し指と中指の間には、煙草が挟まれていた。ユインの視線に気づき、ジェスが「ああ……」と溜息のような声を漏らす。
「煙草、嫌いでしたか?」
「え? いいえ」
ユインは首を振った。父も祖父も煙草を吸うので、特に苦手ということはない。
「入りますか? どうぞ」
「はあ……」
勧められて部屋に入り、そこで灰皿が床に落ちて割れていることに初めて気付く。ジェスが苦笑した。
「落としてしまって」
屈んで灰皿の欠片を拾うジェスに、ユインが訊く。
「煙草、吸われるのですね」
「はい。煙草が好きだったことを不意に思い出したので吸ってみました」
「え……?」
ジェスが灰皿の欠片をテーブルの上に置き、煙草をもみ消す。
「妻の身体のことを考えて、結婚と同時に煙草をやめていたのです」
「……そうですか」
(やはり、今も――)
「――愛しているのですね」
ジェスがゆっくりと振り向いた。
「さあ、分かりません」
おどけるように両手を広げて肩を竦めた姿に、ユインが眉を寄せる。
「分からない?」
「ええ。確かに愛していた筈なのに……、最近、よく分からなくなってきました。幻を見ていたような、そんな感覚です」
「幻……?」
ジェスは口角を上げて頷き、肖像画を見上げた。
「妻とは政略結婚だと言いましたよね」
「はい」
「一目見た瞬間、私は彼女のことが気に入って、結婚を承諾しました。しかし彼女は――彼女には、密かに将来を誓い合っていた男がいたのです」
ユインがヒュッと息を吸う。
「それは……」
「初めての夜、彼女は震える手で短剣を握り、私に言いました。『たとえ指一本でも、触れられた瞬間に、私はこの喉を突いて死にます』と。別にやろうと思えば力づくで何とでもなる状況でしたが……、彼女の強い決意の籠った目を見ていたら無理強いは出来なくて。結局、彼女の言う通り指一本触れることなく終わってしまいました。――馬鹿みたいでしょう?」
「…………」
何と答えればいいのか分からず、ユインは小さく首を横に振った。
「この肖像画のような笑顔の彼女を、私は一度も見られなかった。綺麗な宝石も高価な薬も――私の言葉も、彼女の心には届かなかった。日に日に弱りゆく彼女が欲しかったのは、愛する男だけだったのです」
ユインが乾いた唇を舌で濡らし、口を開く。
「その、男は……」
二人を再び会わせることはしなかったのか。
言葉の意味を理解したジェスがチラリとユインを見て、また肖像画に視線を戻した。
「結婚が決まってすぐ、私は男に金を渡しました。男は生まれて初めて手にした大金に喜び、あっさり彼女から離れて行きました。それから――酒と女とギャンブルと、とまあ労せずして大金を掴んだ者のお決まりの道を進み、つまらない口論で刺されて、私と彼女が式を挙げる前には既に冷たくなって路地に転がっていました」
ジェスが顎に指を当てて、クスクスと笑う。
「それも、大金で男の心を惑わせた私がいけないのですが」
愉快そうに笑う声を聞きながら、ユインは目を伏せた。金を渡したジェスが悪いのか、それとも簡単に変わってしまった男が悪いのか。
俯いて考えるユインの顎に触れる、かさついた指。ハッと我に返るユインの顔を、ジェスが強引に上向かせた。
「目が、似ていると思ったんです。強い意志の籠った目が。幻のように消えていく記憶を、あなたは呼び戻してくれる」
「ジェス殿……」
「忘れたくないんです。その為にあなたが必要だ。幸い身体もとても丈夫そうですし、ね。だからあなたも――、私を利用してください。私を愛する必要はありません」
「…………」
割り切れと言うのか。騎士を続けるため、家督を継ぐため。確かに良い考えかもしれない。でも……。
「ジェス殿は、それでいいのですか?」
いつまでも幻を追いかけて、それでいいのだろうか?
ジェスが、ユインの唇に己の唇を重ねる。流れてくる煙草の甘い香りに目を閉じる。
「……抵抗しないのですか?」
ユインは目を開け、ジェスを見上げた。
「抵抗してほしいのですか?」
「抵抗しなければ、これ以上のことをしますよ」
「……どうぞ、お好きに」
何故、そう言ったのか。世界が回り、頭と背中に痛みを感じた。
(ああ、ちゃんと受け身を取らなくてはいけなかったな……)
まだ鍛錬が足りないか、と少々ずれたことを考える頭の上で両手が纏められる。恐怖は無い。ただ、腰に下げた剣がカチカチと床を鳴らす音がうるさかった。
焦っているのか苛ついているのか分からない強引な手つき。母親から教えられていたものと随分違う、と眉を寄せながら視線を上げると、逆さまで笑うジェスの妻と目が合った。
目の前に居るのに触れられないというのは、どういう気持ちなのだろうか? 失ってなお、記憶の糸にしがみつき――。
「ジェス殿……」
「何ですか?」
手つきとは違う、不自然なほど冷静な声。
「今度一緒に、奥方の墓参りに行きましょうか」
ユインの胸に置かれていた手の動きが、ピタリと止まる。
「…………」
「…………」
暫く続いた沈黙の後、ジェスがゆっくりと身体を起こし、ユインに手を差し出した。その手に手を重ね、ユインが立ち上がる。
「やめるのですか?」
服を整えながら訊くユインに、ジェスは笑った。
「ええ。食事と湯浴みがまだでしたから。それらが終わったら、私の部屋に来てください。続きをしましょう」
「…………」
来い、と言うのか。
「来なくてもいいのですよ」
引き寄せられて、抱きしめられて、囁かれる声が身体に響く。
「……来てほしいのでしょう?」
胸に手を置けば、鼓動が伝わる。
「ええ、出来れば」
手を引かれて部屋を出れば、窓から差し込む橙色の光がやけに美しくて目を細めた。と、その時、思い出したように、腹が大きく鳴る。
「あ……っ」
慌てるユインの姿に、ジェスがクスリと笑う。
「すぐに食事を準備させましょう」
「……はい、お願いします」
ああ、恥ずかしい。赤く染まった耳をくすぐる指。睨み付ければ、微笑まれる。
(捕らえられた――いや、自ら飛び込んでしまったか)
しかし、後悔はない。
ジェスの手を乱暴に払いのけ、ユインは微かに口角を上げた。