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ユインとジェス 前編

 今朝まで住んでいた屋敷に入れない、なんてことがあってよいのだろうか?

 ユインは屋敷の玄関で、深く頭を下げる家令のつむじを呆然と見つめた。

「どうか、どうかご容赦ください。お嬢様のお部屋は、この屋敷にはもうございません」

 容赦してほしいのは自分の方だ、と、ユインは顔を顰める。仕事から帰ればこの状況というのは、予想もしていなかった。

 しかし、ここで強引に屋敷の中に入れば、責められるのは目の前に居る家令だろう。自分が生まれる前から家に仕えてくれている老人を、路頭に迷わすことなどできない。

 そしてこれもまた――、計算の内なのだろう。

 無言で踵を返し敷地外に出たユイン。その前に、スッと馬車が現れる。

「どうしました、ユイン」

 あまりにもタイミングが良すぎる。ユインは舌打ちを堪えて、馬車の中のジェスを見上げた。

「知っているのでしょう?」

 ジェスはそれには答えずに、ただ微笑んだ。

 もしかして、今回のことはジェスが首謀者なのかもしれない。そう思っていると、馬車のドアが開いた。

「違いますよ。私はただ、『我が儘娘を追い出す』とリュート殿が言っているのを聞いて、様子を見に来ただけです」

「…………」

 なんて嘘っぽい。

「喧嘩もほどほどにしないといけませんよ」

 その喧嘩の原因が手を伸ばし、ユインを馬車の中へと導く。抵抗しても疲れるだけだということを既に知っているユインは、黙ってそれに従った。

 無言で揺られ、ジェスの屋敷に辿り着く。

「自由に使ってもらって構いません」

 廊下を歩きながらそう言われて、ユインは曖昧に頷いた。

(自由に、と言われても困る)

「荷物はそちらの部屋に纏めてあります」

「荷物……?」

 指し示された部屋のドアを開けると、ジェスが言った通り――いや、それ以上の状況が出来上がっていた。

「これは……」

 実家の自室、そのものがあった。

 やはり、計画的なのか。思えば喧嘩を仕掛けてきたのは父親であった。

「どうしましたか?」

「……それを聞きますか?」

 ジェスがクスクスと笑う。

「お試し期間、とでも思ってください」

「それで? 噂が広がって、後戻りができなくなる、と?」

 いいえ、とジェスは首を横に振った。

「あなたが本当に嫌なら、無理強いはいたしません。その場合は、あなたの名に傷が付かないようにすると約束いたしましょう」

「…………」

 何を言っても上手く躱される。

 ユインはゆっくりと息を吐き、新しい自室へと一歩足を踏み入れた。




 驚くほど穏やかに、毎日が過ぎていく。言葉通り、一つ屋根の下に居ても、ジェスは無理強いしない。だからこそ、このまま流されて行ってしまいそうな自分が、ユインは怖かった。

(緩やかに、緩やかに、蝕まれていく……)

 そんな錯覚さえする。

 カーテンの隙間から漏れる日差しの眩しさに目を開けたユインは、ゆっくりと体を起こしてベッドからおりた。いくら仕事が休みだからといってもこれは寝過ぎたか、そう思いつつ鈴を鳴らして使用人を呼び、着替えと洗顔、それに遅い朝食を済ませる。ジェスは既に城へと行っていた。

 さて、何をしようか。本を読むか、それとも剣の鍛錬でもするか――。少し迷って、ユインは剣を片手に部屋を出た。

 敷地内で剣を振っても、ジェスは特に何も言わない。それに関しては、ユインも感謝していた。

 カツカツと靴音を響かせて廊下を歩いて玄関に向かう。と、その途中、掃除道具を持った使用人と会った。

「ユイン様、どちらへ?」

 若く可愛らしい使用人が、笑顔で訊いてくる。

 どうせなら、自分などではなくこんな女性と一緒になればいいのに……という言葉を飲み込み、ユインは答える。

「剣の鍛錬をする為に、庭へ」

「そうですか」

 使用人は頷いてから、顔を顰めて水の入った桶を足元に置いた。

「どうした?」

「いえ……」

 曖昧に笑って首を振る使用人。その手を見てユインは気づく。

「痛むのか?」

 手が酷く荒れている。これで水仕事はつらいだろう。

「はい。でももうこの部屋の掃除をすれば終わりですので」

「手伝おう」

「え!? ユイン様にそんなことはさせられません。それに――!」

 慌てて使用人は止めたが、ユインは桶を手に持って目の前の部屋のドアを開けた。そしてそのまま部屋に入ろうとして、ふと気づく。

「…………?」

 壁に、女性の肖像画が掛けられている。茶色の髪を緩く結い上げて柔らかく微笑む姿は実に美しく、女性の優しさが絵からは溢れ出ていた。

「この方は……?」

 ユインの問いかけに、使用人は『しまった』という表情で、言いにくそうに答えた。

「……亡くなった奥様です」

「奥様……?」

 ユインが軽く目を見開いて、絵を見上げる。この女性が、ジェスの亡くなった妻なのか。

 元々体が弱かったとジェスからは聞いていたが、確かに少し力を入れて抱きしめれば折れてしまいそうな体をしている。

(丈夫さだけが取り柄の自分とは、正反対だな)

 どうしてこの女性の次に自分を選ぶのか。理解できないと緩く首を振り、ユインは使用人に視線を移した。

「では、掃除をしようか」

 使用人が頭を下げる。

「あの、申し訳ございません」

「……何がだ?」

「その……、ここが奥様のお部屋だと知っていたのに……」

 俯く使用人に、「ああ……」とユインは微笑んだ。

「気にすることはない」

 そして桶の中の雑巾に手を伸ばし、ひやりと冷たい水に驚く。

(ああ、こんなに冷たい水では、この娘には辛いだろう……)

 ぼんやりとそう思いながらユインは部屋の隅に行き、少しだけ埃が積もった棚を拭き始めた。

 棚とベッド、それにテーブルしかない部屋は、あっという間に掃除が終わる。ユインは泣きそうな表情で礼を言う使用人に雑巾を返し、庭へと移動して剣を振った。




 コンコン、とノックの音が聞こえ、ユインは読んでいた本から顔を上げた。

「はい」

 返事をすると、ドアの向こうからジェスの声が聞こえた。

「夕食を一緒にどうですか?」

 帰ってきていたのか、と思いながらユインは答える。

「分かりました」

「では食堂で待っています」

 去っていく足音。本を閉じて立ち上がり、ユインも食堂に向かった。

 昼間、鍛練をし過ぎたのか、少々身体がだるい。食事をしたら早めに寝ようと決めて、ユインは食堂に入る。ジェスが向かいの椅子を手で示した。

 小さく頷いてユインが椅子に座ると、料理が運ばれてくる。実家よりも質素ではあるが、バランスのとれた食事を黙々と食べていると、ジェスが話しかけてきた。

「妻の部屋に入ったそうですね」

 ユインは手を止めて、視線を上げる。あの使用人がジェスに伝えたのか。わざわざ言う必要はないのに、と思いながら口を開く。

「ええ、入りましたが、何か不都合でもありましたか?」

「いいえ」

 では、どうしてそんなことを訊いてくるのか。眉を寄せるユインに、ジェスは微笑む。

「綺麗だったでしょう?」

「はい。亡くなられたのが残念です」

「そうですね」

 頷いて、ジェスはワインの入ったグラスに手を伸ばした。赤い液体が徐々に減っていくのを見つめながら、ユインはふと思ったことを口にする。

「ああして肖像画を飾っているということは、今でも奥方のことを愛されているのですね」

 ピクリと小さく反応し、ジェスの動きが止まった。

「……ええ、確かに愛していましたよ」

 ジェスがグラスをテーブルの上に置く。ユインが首を傾げた。

(愛して……『いた』?)

 何故過去形なのか。

 ナイフとフォークを手にして、ジェスはユインに片眉を上げて見せる。

「食べないのですか? それとも口に合いませんか?」

「え? いいえ」

 首を横に振り、ユインが食事を再開させる。それを確認し、ジェスも目の前の料理にナイフをいれた。

「愛していたから、あまり長くはもたないと知っても離縁することはなかったですし、高名な医師に診せ、高価な薬も買い与えました」

 ユインの動きがまた止まる。

「……は?」

「ああ、それから盛大な見送りもして、立派な墓も建てました」

「…………」

 いったい何を言っているのか。戸惑うユインにジェスは笑う。

「それが彼女にとって幸せだったかどうかは分かりませんが」

 食べないのですか、と、もう一度訊かれたが、ユインはジェスの顔を見つめたまま動けなかった。

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