1
「陛下、こちらに署名を」
渡された書類にサッと目を通してサインを書く。
「早くしてください。まだこんなにあるのですから」
机の上には、山積みされた未処理の書類。「分かっている」と口の中で呟く。
「陛下今度の式典ですが……」
「ああ」
「陛下、治水について……」
「ああ」
「陛下、隣国から使者が……」
「ああ」
「陛下、大臣が話があると……」
「ああ」
陛下、陛下、陛下……。
「陛下、やる気があるのですか?」
「…………」
「あなたはこの国の王なのですよ」
『あなたがこの国の王なのよ! 邪魔ならば――』
「陛下、殿下が……」
「――殺してしまえ」
「陛下!」
ああ、少しだけ――。
◇◇◇◇
近づく気配に気付き、ハッと目を開ける。目の前にいるのは……確かどこかの小国の姫だ。眉を寄せて身体を起こす。
「陛下、お帰りですか?」
伸びてくる白い手。よく出来た作り物の笑顔と、完璧な身体――。
「ああ」
分かり切ったことを一々訊くな、と怒鳴り付けたくなるのを堪えて立ち上がると、女が着替えを手伝う為に同じように立ち上がる。
「また、来てくださいね」
「ああ」
名前も思い出せない側室の部屋から出ると、この後宮を取り仕切っている女官長が既に待っていた。
軽く頭を下げる女官長の前を素通りし、歩く。
また忙しい一日が始まった。
◇◇◇◇
エルラグド国――。
カルセラと呼ばれる世界の中央にある一番大きな大陸、その東に位置する大国である。
肥沃な土地で育つ野菜や果物、穀物、特に鉱山から産出される宝石が有名で、それらは国と国民を豊かにしていた。
エルラグドは軍隊も有名である。
騎士、準騎士、兵士、見習い騎士や予備兵まで合わせれば、約二十万。
これ程の規模の軍隊を保持する国は、カルセラの中では僅か数国しかない。
そして大国の宿命か、当然味方も多ければ敵も多い。
一見安定しているように思える国内も、影では様々な問題が山積していた。
そんなエルラグド国の王、ヴェリオル。
先王の急死による突然の戴冠からもうすぐ五年、大きな混乱もなく統治していると国民からの評判はよい。
また、輝く黄金の髪に深い緑の瞳、おそろしく整った容姿は国民に、特に女性に人気があった。
その国王ヴェリオルが、女官長を従えて早朝のまだ人気の少ない後宮の廊下を早足で歩き、出口へと向かう。
これから自室に帰って着替え、執務室に行かねばならない。朝食は……要らない。
今日は何をやらなくてはならないのか。まだ内容を確認していない書類の山、会議、隣国の使者も来ると言っていた。それから……。
溜息を吐きたくなるのを堪える。付け入る隙を周囲に見せてはいけない。意識して背筋を伸ばし、前を見据えたその時――ふとヴェリオルは気付いた。
足音が聞こえる。
パタパタというよりドカドカとした音。
側室や侍女はまだ出てはいけない時間であるし、女官にしては品がない。
料理人だろうかと思いつつ歩いていると、出入口の前、扉番の騎士と一緒にいる女……あれは誰なのか。着ているドレスから考えると、女官でも料理人でも誰かの侍女でもなさそうだが。
ヴェリオルが眉を寄せていると、突然――。いつもは静かに後ろを歩くだけの女官長が、ヴェリオルを追い越して叫んだ。
「イリス様!! 何をなさっているのですか!」」
女官長の声に反応し、女が振り向く。ヴェリオルは思わず目を見開いた。
振り向いた女は見たことがなく、しかも驚くほどブサイクで……いや、以前何処かで見たことがあるような気もする。見た、とすれば後宮か。しかしこれほどブサイクな女が後宮にいたか?
ヴェリオルが考えていると、女官長がそのイリスという女を厳しい口調で問い詰め始めた。
「長く後宮で勤めておりますが、これ程堂々と規則を破った方は、あなたが初めてです」
「はぁ……。すみません。規則の事、すっかり忘れていました」
「部屋にお戻り下さい。後程何らかの処罰が科せられるでしょう」
「ええ!? 見逃して下さい!」
「イリス様!」
女官長は女を『様』付けで呼んでいる。が、女は女官長に謝罪している。
ますます女が何者か分からなくなる会話を聞きながら、ヴェリオルは女の足元にある箱に気付き、首を傾げた。
「なんだ? その箱は?」
「ティーセットや花瓶です!」
不快な程の大声で答える女。
「……女官長、この者は誰だ?」
すると女はスカートを少しだけ持ち上げて、上目遣いをした。
「ご、ご機嫌麗しゅうございます……?」
何故疑問系なのか。
この女はおかしい。エルラグド国王ヴェリオルは、直感的にそう思った。
◇◇◇◇
騎士を従えて広い城内を早足で進む。執務室の前まで来ると、ドアの前に立っていた騎士二人が敬礼した。
それに軽く頷く事さえせずに、ヴェリオルは開いたドアから室内に入る。
執務室には既に、書類片手に眉間に皺を寄せる白髪の混ざった銀髪の男が一人と、ヴェリオルと同じ年頃で長めの黒髪に眼鏡をかけた男が一人――、宰相ガルトと宰相補佐ネイラスがいた。
振り向いた二人に、ヴェリオルは開口一番こう言った。
「もの凄くブサイクで、おかしな側室がいた」
ネイラスがポカンと口を開け、ガルトが益々眉間の皺を深くしてこめかみに指を当てる。
「何をおっしゃられておりますか?」
ヴェリオルは二人の前を通って執務机まで行き、椅子に腰掛けて目の前の書類の山を横に退け、ガルトに向かってもう一度言った。
「ブサイクな側室が――」
「いつも言っておりますが、まずその言葉遣いをおやめ下さい」
ヴェリオルが鼻を鳴らす。
「お前達しかいないのに堅い事を言うな」
「何処で誰が聞いているか分かりません」
睨み合う国王と宰相。その間にネイラスが割り込んだ。
「で? ブサイクとは?」
「こら、ネイラス!」
ネイラスはヴェリオルが少年時代から遊び相手として、そして今は次期宰相としてヴェリオルと共に歩んでいる男である。長年の付き合いであるネイラスは、ヴェリオルにとって唯一の友人でもあった。
「後宮の出口で会ったのだが、離れ気味の大きな丸い目と潰れた鼻、小動物ならペロリと飲み込みそうな 口をしていて、更に知性の感じられない言動していた。とはいえ侍女とは思えないドレスを着ていたから女官長に訊くと、その女は側室だと言うのだ。しかも二年もの間後宮に居たと言うから更に驚いた」
ネイラスが目を見開く。
「二年? そんな馬鹿な。後宮に入った夜には相手をさせる決まりですよね。それに一応、側室はまんべんなく回るようにしていたんじゃなかったですか?」
「そうなのだが……」
後宮には、現在およそ二十人の側室がいる。有力貴族の娘や他国の姫など何れも美女だが、実はヴェリオルはどの女にも興味はない。後宮に通うのは王としての義務を果たしている事をアピールする為と性欲処理以外の何物でもないのだ。
側室達は、少しでも『王』に気に入られて子を授かろうとしているが、実はこれもあり得ない。何故ならヴェリオルは密かに避妊の為の薬を飲んでいるからだ。
エルラグドでは王位継承権は、正妃の産んだ男児から与えられ、それから身分に左右される場合もあるが、側室が産んだ男児に順番に与えられる。
実際ヴェリオルにも腹違いの兄弟がいるが、正妃の一人息子であるヴェリオルが王となったのだ。
ヴェリオルは微かに眉を寄せて続ける。
「どうしてそんな側室がいると言わなかったのかと女官長に尋ねたら、曖昧で胡散臭い理由を述べていた」
するとガルトがネイラスを押し退けてヴェリオルの前に立った。
「後宮の体制も整えたほうが良いと何度も申し上げていた筈ですが。いつまでも先々代の寵妃など置いていてはいけないと――」
「まあそれは良いとして、その女は出口に荷物を運んでいたのだ」
「――陛下!」
ネイラスが渋い顔をするガルトの横に立ち、首を傾げる。
「荷物?」
「ああ。俺の相手をせずに二年経ったから、実家に帰されるところだったらしい」
「それは……おかしいですね。帰る側室がいるとは聞いていませんが。ガルト様はご存知ですか?」
「……いや」
「おかしいですね」
ネイラスが顎に手をあて考える。ガルトは険しい顔つきで、机の上の書類に手を伸ばした。
「……そうですな」
呟きながら、ガルトが書類をパラパラと捲る。
「この未処理の書類の中に、その側室に関する書類も紛れ込んでいるか、もしくは女官長が職務怠慢をしたか。ですから後宮の体制も――」
ヴェリオルが手を振る。
「それはもう聞いた。それより今は女のことを話している」
ネイラスは「ふーむ」と唸って、こめかみに指を当てた。
「何故側室のことが伝わっていなかったかは後で調べるとして、つまりその女は偶然を装いつつ、処罰覚悟で直訴したということですか」
「そのようだな。あの容姿で一度も相手をさせてもらえなかったとなると……さすがに俺も同情した。確か『イリア』という名前だったな」
ヴェリオルはガルトを見上げた。
「『アードン』という家の娘らしいが知っているか?」
ガルトが溜息を吐いて頷く。
「アードンとは『馬車蛙』のことです」
「何? 馬車蛙だと?」
ヴェリオルは驚いた。
馬車蛙とは、『馬車に曳かれて潰れた蛙のような顔』の略で、二位貴族であり大臣補佐という名の使い走りをしている、モルト・アードンという男のあだ名である。
「何だ、馬車蛙の事か。アードンなどと言うから分からなかったではないか。言われてみれば、あの顔は 馬車蛙に似ているか。なるほど、だから何処かで見たことがある気がしたのだな」
ヴェリオルは納得し、しかしすぐに首を傾げた。
「あの娘が馬車蛙の娘だというのは分かったが、それで何故あんなブサイクが知らぬ間に側室になっていたのだ?」
「それは陛下が見てみたいとおっしゃったからではありませんか」
ガルトの言葉に、ヴェリオルは「ん?」と眉を寄せる。
「二年程前になりますか、大臣達の間で馬車蛙にはそっくりのブサイクな娘がいるという噂が広まっていて、その事を耳にした陛下が見てみたいと我が儘をおっしゃられ……覚えていらっしゃらないのですか?」
「…………」
そこでポンとネイラスが手を叩いた。
「そうですよ陛下! 思い出しました。あの時陛下はかなりの量のお酒を召し上がっていましたね。だから記憶がないのでしょう」
「……そんなことがあった、ような気もするが」
顎に手を当てるヴェリオルに、ネイラスは身を乗り出して言った。
「すぐに連れて来いと命じられ、ガルト様が『ブサイクが見たいと言う理由だけで連れてくるのは無理』だとおっしゃられたら、『では側室にすればいい』と紙を取り出してご丁寧にもサインまでして下さったのですよ」
「…………」
ヴェリオルが黙り込み、ガルトが指先でトントンと机を叩く。
「酒も程々にしなくてはいけませんな。そもそもアードンは私生活に色々と問題があるので、その娘を側室にするなど私は反対だったのです」
ああ、とネイラスが頷いた。
「言われた事はそこそここなし、意外にも仕事はできるのだが、お人好しで騙されやすいですよね。確か多額の借金があることが以前問題になっていましたっけ」
「そうであるのに陛下は側室にしろとおっしゃり、ネイラスは勝手にその書類を通してしまった。馬車蛙は馬車蛙で、娘のおかげで首が繋がったというのにあの後泣きながら娘を側室にする話は白紙にして欲しいと訴えてきて、みっともなく私の足に縋りつき――」
長い愚痴が始まりそうな様子に、ヴェリオルが咳払いをする。
「側室になった経緯はもうよい。それよりどうして後宮に入った時に報告が無かった」
ガルトが顎に手を当てる。
「報告はしたはずですが……。そういえばあの頃、ランズ国とマテル国の間が緊張状態にあると報告があり、対応に追われていましたなあ」
「ああ、あの時か」
直接は関係なくとも、同じ中央大陸の国同士が戦争になればエルラグドにも影響がある。自国を守る為の対策を立てなければならないのに、新しい側室どころではなかったのだろう。
「結局戦争は回避されたが、そのまま忘れていたのだな」
そう結論付け、ヴェリオルは、今朝会った女のブサイクな顔と必死な様子を思い出す。
「……今夜行ってやろう。ブサイクでも女は女だ。抱けぬ事もないだろう」
そう呟きながら頬杖をつくヴェリオルに、ガルトが「そういえば……」と目を眇めた。
「側室と言えば、いい加減、世継を作ってもらわなくては困るのですが」
途端にヴェリオルが渋い顔をして、舌打ちまでした。
「まだ要らぬ」
「要ります。王になってから何年経っているとお思いですか? 側室に産ませる気がないなら王妃をさっさと決めてください」
「…………」
「それと、約束通り一年以内に王妃に妊娠の兆候が見られなければ、側室との間に子を作っていただきます」
ヴェリオルは髪をかきあげ、息を吐いた。
「継承争いは避けたい」
「そればかり言っていられないでしょう。あなたはエルラグドの王なのですから」
「……王、か」
視線を逸らしてヒラヒラと手を振り、ヴェリオルは命じる。
「適当に王妃を見繕っておけ」
そして逃げるように目の前の書類を一枚手に取った。