13
「式も滞りなく終わり、国内も安定してきましたな。後は――」
「分かっている」
ガルトの言葉を、ヴェリオルは書類に視線を向けたまま遮った。執務室にカリカリと、ペンを走らせる音が響く。
「テレント国から使者が来るそうですぞ」
「テレント? 何をしにだ?」
「使者は、第一王女様十七歳、らしいです」
『使者』の目的が何か、ヴェリオルは瞬時に気が付き顔を上げる。
「追い返せ」
「はるばる来る使者を、理由もなく追い返すことはできませんな」
ヴェリオルは顔を顰めて舌打ちをした。
「王妃を娶ってから、まだそれほど経ってはいないというのに」
「だからなんですかな? そんなものは他国にも自国の貴族にも通じません」
「……あくまで使者として扱い、丁重に追い返せ」
再び書類に視線を戻したヴェリオルに、ガルトが小さく溜息を吐く。
「今までも散々待っていたのです、もうそんなに長くは待てません」
「分かっている」
そんなことは言われなくとも分かっている。王として、未だ世継ぎがないのは問題がある。王妃が決まった今、出来るだけ早く世継ぎが必要だった。
「それならば、良いのです」
ガルトの気配が目の前から消える。
「…………」
不機嫌なまま夜まで黙々と仕事をし、ヴェリオルは王の部屋と続きになっている王妃の部屋へと足を踏み入れた。
「また来たのですか?」
豪奢なドレスと結い上げた髪でヴェリオルを迎えたイリスが顔を顰める。
「そんな言い方はないだろう、我が妃よ。イリス、会いたかった」
ヴェリオルに抱きつかれ、イリスはよろめいた。
「重いです」
「ああ」
「離れてください」
「ああ」
ヴェリオルが椅子に座り、大きく息を吐く。
「疲れているのなら、ご自分のお部屋に戻ってゆっくり休めばよいではありませんか」
「お前と居ると疲れが吹き飛ぶ」
「気のせいです。お食事は?」
「要らない」
イリスが眉を寄せる。
「食べていないのですね。ケティ、軽食の準備を」
壁際に控えていたケティに命じ、イリスはヴェリオルの前に座った。ヴェリオルが口角を上げる。
「優しいのだな」
「金蔓に倒れられては困るだけです」
きっぱりと言って、イリスは自らお茶を淹れ、ヴェリオルの前に置いた。
「ああ、イリスが淹れた茶は美味い」
「茶葉が高価なだけです」
そんな会話をしていると、ケティが軽食を運んでくる。
「さあ陛下、食べてください。残してはいけませんよ」
「ああ」
「私は湯浴みをしてきます」
立ち上がったイリスの腕をヴェリオルが掴んで引き留めた。
「イリス、傍にいてくれ」
「嫌です」
「イリス」
「…………」
イリスが座りなおす。
「何なのですか、子供でもあるまいし。陛下、お野菜も残してはいけません」
「ああ」
そうして残すことなく食事を終えたヴェリオルは、イリスに手を伸ばす。するとイリスにピシャリと容赦なく叩かれた。
「イリス……」
「イリスイリスと、それしか言えないのですか? もうお休みください」
「ああ、寝るぞ。一緒に」
「私は湯浴みを……、もういいです」
イリスは湯あみを諦めて、ケティに髪飾りを取ってもらう。少しずつほどけていくイリスの髪を、ヴェリオルはじっと見つめた。
「以前は下ろしていたのに、何故最近は毎日結い上げている?」
イリスが微かに不満げな顔をする。
「一応王妃ですから、この方が良いそうです」
「俺は髪を下ろしているイリスが好きだ」
「ああ、そうですか」
「そこまで派手な化粧も、しなくて良い」
今度はあからさまに、イリスは不満を顔にあらわした。
「必要だからしているのです」
「必要などない」
「必要なのです。――ケティ、女官長、下がっていいわ」
ベッドに向かうイリスの後を、ヴェリオルは付いていく。
「陛下」
「なんだ?」
「今日は一段とおかしいですね。何があったかはわざわざ訊きませんが、早くお休みにでもなってください、迷惑です」
「ああ、一緒に寝よう」
ベッドに座ったイリスのドレスにヴェリオルは手を掛け、逃げるように捩れる身体を押さえつけて、その胸に顔を埋めた。
◇◇◇◇
執務室で、ガルトがヴェリオルに報告する。
「テレントの使者が泣いておりました。明日帰国するそうです」
「知るか」
「陛下、その言葉遣いを正してください。まったくいつまで経っても遊んでいた頃の癖が抜けないとは、困りものですな。なあ、ネイラス」
ガルトの横に立っているネイラスが苦笑して頭を下げた。
「はい、申し訳ございません」
ヴェリオルとネイラスは、まだ少年だったころに何度か変装して城を抜け出したことがあった。ネイラスがしみじみ言う。
「今考えると命知らずな行為でしたね」
「しかし楽しかった」
危険ではあったが、ヴェリオルはその時初めて、心からの『楽しい』を知ったのだった。
「汚い言葉遣いも覚えましたしな」
ヴェリオルが笑う。
「そのまま城下で暮らしたいと本気で思った」
「今はどうですかな?」
ガルトの質問に、ヴェリオルの顔からスッと笑みが消えた。
「今は――イリスがいる。それでいい」
ガルトが細く息を吐き、ネイラスが『お手上げ』というように両手を上げて肩をすくめる。
「陛下、本当に笑えるくらい惚れておられますね」
「ですが他国の使者をあまり無下には出来ませんぞ」
ヴェリオルが頷いた。
「分かっている。テレントには何か喜びそうなものを持たせてやれ。それよりザルビナ国の状況について、何か報告があったな」
はい、とネイラスが書類をヴェリオルに渡す。
「なんとか落ち着いているようですね。派手に壊した城の修復が大変らしいですが」
「戦とはそういうものだろう。むしろ城を破壊したくらいで済んだことを感謝して欲しいくらいだ」
「そうですね。民家にはほとんど被害がなかったらしいですし、ロントもそこそこ上手くやっているようです」
ヴェリオルは、ロント――メアリアの父を、戦後処理の為にザルビナに派遣した。
「ロントは一国貰った気分で楽しんでいるのではないか?」
「どうでしょうかな? 勝手なことをしないように十分釘は刺しておきましたが。それより陛下、こちらに署名を」
「ああ」
続く、忙しい毎日。特に何も変化のないまま、数ヶ月が瞬く間に過ぎた。
◇◇◇◇
「陛下、そろそろ――」
「分かっている」
何を言いたいかは。
ガルトから逃げるように、ヴェリオルは王妃の部屋へ向かった。
「また来たのですか?」
「本当に代わり映えのしない挨拶だな」
顔を顰めるイリスに口付ける。
「陛下」
「なんだ?」
「少し痩せましたか?」
ヴェリオルは首を傾げて自分の腹を見た。
「そうか?」
確かに、腰回りが少し緩い気もするが、それはこの頃あまり身体を鍛える時間が無いせいだとヴェリオルは思っていた。それよりもヴェリオルが気になるのは――ますます派手になっていくイリスの化粧とドレスだった。
「イリスは少し、いやだいぶ化粧が濃すぎないか?」
「王妃としてこれくらいは普通です」
『王妃として』。
最近イリスが、よく口にする言葉。その中に含まれる棘と違和感。
「だが……」
「そんなことより、またお食事をなさっていないのでしょう? ケティ……ではなくて女官長、陛下に軽食を用意してちょうだい」
イリスの言葉に、ヴェリオルは眉を寄せる。いつも、こういう時はケティを呼ぶのに、どうして今日はフェルディーナなのか。
「何故ケティではないのだ?」
ヴェリオルの疑問に、イリスはお茶を用意しながら答えた。
「ケティは大事な身体だからですわ」
ああ、とヴェリオルが頷く。
「もうすぐ結婚式だったな」
三位貴族の養女となったケティは、もうすぐ『赤騎士』ことランガ・ドンナと結婚をする予定だった。
しかし、結婚式が控えているからといって、これは甘やかしすぎではないか。
そう思うヴェリオルに、イリスは首を横に振る。
「陛下、そうではありません」
「そうではない?」
「ええ。ケティは赤ちゃんが出来たのですわ」
「……何?」
ヴェリオルは目を見開き、壁際に控えていたケティに視線を向けた。ケティが恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「具合が悪そうだったので医者に診てもらったのですが、まさか身ごもっていたなんて。陛下、お祝いをたくさん用意してください。宝石と領地と――陛下、聞いているのですか?」
少し強い口調で言われ、ヴェリオルはハッとイリスに視線を戻した。
「あ、ああ」
「私もお祝いを用意しているのですよ。ほら、これを見てください」
イリスはそう言って棚まで行き、そこにあった白い布をヴェリオルに見せる。ヴェリオルが首を傾げた。
「何だ?」
「産着です。ケティはあまり裁縫が得意ではないので、私が縫っているのです」
イリスが嬉しそうに微笑み、布を丁寧に棚に置いて戻ってくる。
「…………」
「ああ、陛下、お食事がきました。ほら食べてくださいませ、陛下、陛下?」
己の顔を覗き込んでくるイリス。ヴェリオルはそのイリスの肩を掴んだ。
「陛下、痛いです」
戸惑った声を出すイリスを抱きしめて、呟く。
「何故、侍女に……」
思わず、漏れてしまった言葉。その言葉に、イリスの身体がピクリと反応した。
「私のせいだとでも言うのですか?」
「なに……?」
イリスが強引に、ヴェリオルの腕から抜け出す。
「テレントの使者は、とても美しいお方でしたわね。何故追い返されたのですか?」
驚くヴェリオルを、イリスは鼻で笑った。
「それくらいの情報は入ってきます。私は『王妃』ですから」
「…………」
誰だ、イリスに余計な情報を与えたのは。ヴェリオルが心の中で舌打ちする。
「『使者』なのだから、自国に帰るのは当然だ」
「姫君はお好みではなかったのですか? では貴族の娘ならどうでしょう? それとも、陛下好みのブサイクでも国中から集めますか?」
「イリス」
「なりたくもない王妃になって差し上げたのに、これ以上何をお望みなのですか」
「イリス!」
ヴェリオルの怒声に、イリスがビクッと震えた。
「…………」
「…………」
ヴェリオルは気持ちを落ち着かせる為に数回深く呼吸し、イリスの結い上げられた髪を撫でる。
「すまない」
「……いいえ」
イリスが視線を逸らした。
どうしてだ。
王妃にすることで、イリスのすべてを手に入れた。イリスを愛し、そして愛されている。それなのに何故今――こうして触れてもいるというのに、イリスを遠く感じてしまうのか。
感じたことのない不安に襲われながら、ヴェリオルは絞り出すような声で言った。
「傍にいてくれ」
イリスが微かに口角を上げる。
「ええ、逃げませんわ。逃げる先もありませんから」
「…………」
そうではない、欲しい言葉は。
イリスの髪に触れていた手を、ゆっくりと下ろす。まだ王妃になる前、長い髪がさらさらと指の間をくすぐっていたあの感触が、妙に懐かしく思い出された。
◇◇◇◇◇
「重圧、ではないですかな?」
「あのイリスがか……?」
ヴェリオルは髪をかき上げ、背もたれに身体を預けた。ガルトが小さく息を吐き、ヴェリオルを見つめる。
「陛下、あらぬ噂も立っておりますぞ」
「そんなものは以前からだろう」
何人もの側室が居るというのに世継ぎが生まれない。ヴェリオルはわざとそうしていたのだが、そんな事情を知らぬ者達は、陰でいろいろと噂をしていた。
鼻を鳴らすヴェリオルに、ガルトは「そうではありません」と首を横に振る。
「陛下ではなく、イリス様にです」
「なに?」
ヴェリオルが眉を寄せ、身を乗り出した。ガルトの横から、ネイラスが話に割り込んでくる。
「おそらくイリス様本人の耳にも届いているでしょう。先日後宮の状況について訊かれました」
「イリスが? 何を言っていた」
「新しい側室を入れないのかとか、後宮にはちゃんと通っているのか、など。それと、ご自身の身体についても、医者はどう言っているのかと訊かれました」
何故それをすぐに報告しないのか。イラつきながら早口で、ヴェリオルはネイラスに訊いた。
「それにお前は何と答えた」
「後宮には通われておらず、医者は特に何も言ってはいないと」
机を指先で叩き、ヴェリオルがネイラスを睨む。
「それで、本当はどうなのだ? 医者は何と言っている」
「検査上は、本当に何も見つかりません。いたって健康体です。ただ、状況から考えると――以前の怪我の影響があるのかもしれないと。しかしはっきりとは分かりません」
何も見つからない、なのにどうしてなのか。ヴェリオルは唸り、ハッと思い付いた。
「ジンだ。ジンに何か良い方法がないか訊け」
「ジン殿には既に伝え、頂いた怪しいお薬は、イリス様の元に届けました」
「……そうか」
「今朝、陛下にも薬が届きましたがどうされますか?」
「俺に……?」
「イリス様の薬を作るついでに、陛下の疲労回復薬も作られたそうです」
無言で渡された、どろりとした灰色の液体に、ヴェリオルは眉を顰める。
「……飲んでみるか」
一気に飲み干し、額に手を当て細く長く、ヴェリオルは息を吐く。予想以上に不味い。
項垂れるヴェリオルに、ガルトが呟くように言った。
「負担を軽くしてさし上げる、という考え方もあるかもしれませんな」
「…………」
いったい、どうしろと言うのか。どうやって負担を軽くするのか。
ヴェリオルは薬瓶を投げ、天井を仰いだ。
◇◇◇◇
ヴェリオルが王妃の部屋に行くと、イリスは既にベッドに入っていた。
「イリス」
「なんですか? もう寝るところなのですが」
「いや……、寝るのか?」
「ですから、そう言っているではありませんか」
大きく溜息を吐くイリスの横に、ヴェリオルは座った。
「イリス」
髪に手を伸ばすと、イリスが眉を寄せる。
「明日は朝から視察の予定が入っているので、もう眠らないといけません。それから会食、お茶会、勉強、やらなければいけないことがたくさんあるのです。王妃として」
またその言葉か、とヴェリオルの心がざわめいた。
「負担になっているのなら、仕事を減らすようにしよう」
イリスが軽く驚く。
「私の仕事を減らすのですか?」
「ああ」
「…………」
イリスは目を眇め、ヴェリオルを見つめた。
「それで?」
「それで?」
それで、なんだというのか。意味が分からず戸惑うヴェリオルを、イリスは薄く笑う。
「ええ。それで何もできない王妃、と言われればよろしいのですか?」
イリスの言葉にヴェリオルは驚いた。
「誰がそんなことを言っているというのだ。イリスはただ、俺の側にいてくれれば――」
「ただ側に居るだけでは駄目なのが、王妃なのではないですか?」
「イリス」
「心配なさらなくとも、贅沢させていただいている分くらいは働きますわ。ついでに宝物庫の鍵を頂けるとありがたいのですが」
「イリス、仕事を減らすよう――」
「陛下」
覆いかぶさろうとするヴェリオルの胸に、イリスが手を置く。
「今宵は疲れているので、お相手できません。どうぞ後宮へ」
「イリス!」
ヴェリオルは、右手でイリスの左手首を掴んだ。
「俺はイリスだけを愛している」
「だからなんなのですか。私は陛下など愛しておりません」
「…………!」
イリスが横を向く。ヴェリオルは浅い呼吸を繰り返し、低い声で訊いた。
「イリス、本気で言っているのか?」
「ええ」
「嘘を吐くな」
「嘘など吐きません」
「愛している」
イリスがヒュッと息を吸う。
「それが……重いのです!」
ヴェリオルに視線を戻し、イリスは唇を噛んだ。
「イリス……」
「王妃の仕事は滞りなくこなします。それで良いではありませんか」
「良くはない」
首を横に振るヴェリオル。イリスの身体がブルブルと震えた。
「ではどうしろと?」
「一緒に頑張って行こう」
「なんですかそれは? 夢物語の読みすぎですか?」
「イリス……!」
イリスの手首を握る右手に力を込めると、イリスが顔を顰めた。
「俺だって頑張っている」
「ああ、そうですか。王なのですから仕方ありませんわ」
「仕事は減らす。それから必要以上に派手な化粧やドレスも禁じる」
「陛下!」
「命令だ」
目を見開くイリスに、ヴェリオルは冷たく告げる。
「そうやって、また私を縛るのですね」
「そんなつもりはない。俺はお前の為を思って――」
イリスは声を出して笑った。
「私の為を? 化粧やドレスにまで口出しして? 私の意思など無視してですか?」
耳障りな甲高い笑い声に、ヴェリオルが眉を寄せる。
「俺がいつ、お前の意思を無視した」
「初めからではないですか!」
手を振り払おうとして暴れるイリスを、ヴェリオルは押さえつけた。二人の髪が乱れる。
「お前こそ、俺の気持ちを無視してるではないか!」
「私が悪いというのですか!?」
「そうではないが――、もっと俺の気持ちを理解してくれ!」
「どうやってですか? 無理ですわ!」
「イリス!」
イリスの身体から力が抜ける。同時に、ヴェリオルの身体からも力が抜けた。
「陛下……どうか今宵は、お許しを」
「…………」
ヴェリオルはゆっくりとイリスから身体を離し、王妃の部屋から出て行った。
◇◇◇◇
どうしてこうなったのだろう。何が正解なのだろう。
深夜まで仕事をしていたヴェリオルは、執務室から出ると、護衛の騎士に告げた。
「後宮に行く」