朝比奈旬くん
私は乗り掛かった舟で、病院にて治療にも付き添った。派手に大騒ぎした事故であったにもかかわらず、怪我は転倒した際の擦り傷と、右足の打撲のみ。幸いにも骨折はなかった。
私たちは治療や検査の待ち時間に自己紹介を交わした。
八十二歳だという彼女の名前は、花房澄江さんだ。
治療を終えて、連絡がついた澄江さんの家族が迎えに来るまで、私は彼女の隣に居ることにした。窓から夕暮れの日が差す病院のロビーのソファで、澄江さんが私を見つめる。
「花奈ちゃんは命の恩人や。このまま帰すわけにはいけへんで。今夜はこの花房さんちに泊まってや」
「いえ、悪いですから」
「澄江さん!」
さすがにこれは断ろうと思っていると、病院のドアから勢いよく走ってきた青年が澄江さんを呼んだ。彼は一目散に澄江に駆け寄って、ソファに座ったままの澄江さんに抱きついて項垂れた。彼の震えるような声が聞こえた。
「澄江さん、心配したよほんとにもう……」
しっかりした体格の彼が、縋りつくように細身の澄江さんを抱きしめる姿に、どれほど大事な間柄かすぐわかる。
「心配かけて悪かったなぁ、旬。怪我は右足の打ち身だけや。事故の後処理は大変そうやけどな」
「そんなの俺がやるよ。大した事なくて良かった」
彼は澄江さんを抱きしめ続けた。
「旬、この子がうちを助けてくれた花奈ちゃんや。お礼言うてや」
「うん、もちろん」
澄江さんに背中をぽんと叩いて促され、彼はやっと澄江さんを解放して顔を上げた。彼は潤んだ瞳をぐいと太い腕で拭ってから、私を見た。
私は彼の顔に、見覚えがあった。
彼は川添茶の生産者、朝比奈旬くんだ。
彼は私に向けて深くお辞儀をした。
「澄江さんを助けてくれて、本当にありがとうございました」
顔を上げた彼は目尻に皺を寄せて微笑んだ。彼はとても朗らかで、角がどこにもない人だ。声が思ったよりも低い感じだが、写真で受けた柔和な印象通りだ。
「いえ、そんな……協力してくれた人たちみんなのおかげですから」
「でも、澄江さんにここまで付き添ってくれたのは、花奈ちゃんだけだよ」
「それはその、そうですが……」
私が両手を横に振って否定しても、彼の笑みは崩れなかった。怪我をした割に気丈な澄江さんが口を挟む。
「花奈ちゃんは観光客で、明日から予定決まってないんやって。今日うちに泊めたいんやけど、旬はどう思う?」
「それはいい考え」
旬くんは私に向き直り、丁寧に挨拶をしてくれた。
「俺は澄江さんの息子ではないんだけど、花房さんちにお世話になってる朝比奈旬です。旬って呼んで」
彼は一歩前に出て、もう一度私に向かって深く頭を下げる。
「花奈ちゃん、俺からも礼をさせて欲しいんだ。家で待ってる子どもたちも、花奈ちゃんに礼を言いたいと思うから!ぜひ家に来て!」
「は、花房さんちには、お子さんもいらっしゃるんですね。旬くんのお子さんですか?」
旬くんは顔をぱっと上げて、にっこり人好きのする顔で笑う。
「いや、俺もその子たちも、みんな居候」
一体どういう家なんだと目をぱちくりしている間に、旬くんが続ける。
「でも全員、澄江さんを家族みたいに慕ってる。だから澄江さんを助けてくれた花奈ちゃんはヒーローだよ」
そこまで言われて、もう一度ぜひ家にと招かれるともう断り切れなかった。
日も暮れてきている。澄江さんが事故に遭ったと聞いて、子どもたちは心細く待っているのだろう。私がここでぐずぐず言っていたら、澄江さんの帰りが遅くなる。
前なら絶対に断った。だが、私はしぶしぶ、はいと言った。
「やった!じゃあ行こう!ありがとう、花奈ちゃん!」
旬くんが明るい声を上げて、澄江さんは満足そうに微笑んだ。
家に招かれるなんて、こちらが迷惑をかける行為だ。けれど、二人の屈託ない歓迎の声を聞くと「はい」と言って良かったなと思わされた。
白浜の病院から車で三十分ほど山道を上り、深い山間にある花房さんちに到着したときには日が暮れてしまっていた。
車を下りて、歩ける程度の怪我だが一応松葉杖を使う澄江さんに手を貸しながら、私は周りをぐるんと見回す。周辺に家は一軒もなく、森ばかり。家の前にある道路の向こうには険しい森の傾斜と川だけだ。
山の中にぽつんとある大きな古民家が彼らの家だという。
私の驚きが顔に出ていたのだろう。杖をついた澄江さんが笑った。
「ど田舎で驚いたやろ?」
「……はい。失礼ながらこんなに山深いところに住んでいるなんて、ちょっと想像がつきません」
澄江さんはけらけらと愉快そうに笑った。田舎に驚く反応に慣れているのかもしれない。
「うちは茶農家で、山上ったところに茶畑があるんや。こんな山奥やから霧がよう出てな。その霧のおかげで、ええお茶ができるんやで」
「なるほど。だからここを選んで住んでいるんですね」
「俺、先にみんなに知らせてくるね!」
旬くんが小走りに入って行った平屋建ての木造古民家には、温かい明かりが灯っていた。辺鄙な場所なのに、なぜだろう寂しい印象を与えない家だ。
澄江さんのペースに合わせてゆっくりと進み、横引きの硝子戸をガラガラと開ける。すると、明るい光の中から、幼い子が澄江さんに向かって飛び込んできた。




