肥料
「妹とは十年会ってなかったんだ……もう会いに来るなって言われて」
どうしてそんなことに、と私の顔に書いてあったのだろう。旬くんは消えそうな声で言った。震えていた。
「俺……前科があるんだ」
「ぜ……前科、ですか」
旬くんとは結び付かない強烈な単語に、耳を疑ってしまった。何かの間違いかと思ったが、旬くんは言い直さない。
「本当は前科って呼ばないんだけど、一般的に見れば前科だよ。だから、妹が俺を拒否してる。それは……当然そうだよね」
私はつい前のめって問いつめてしまいそうな口をお茶で押しとどめる。そのおかげで旬くんの話を遮らずに済んだ。
「俺が中学卒業したときにね、父さんがいなくなったんだ。うちは元から片親で父さんしかいなかったんだけど。仕事が続かない人で、たぶん心をね……病んでたと思う」
旬くんは夜の黒い海が見える窓の外に目をやった。遠く、お父さんを想うのだろうか。
「稼ぎはないけど優しい人だったんだよ」
旬くんの声を頼りに、私も旬くんのお父さんに想いを馳せる。
「手を上げたり怒鳴ったりしないし、家にいるときは大体ぼんやりしてて。俺と妹と並んでよく昼寝してくれた。遊んだ記憶もないけど、昼寝しながら撫でてくれた手はガサガサして大きくて……ぬくかったなって感じ」
旬くんが語るお父さんは穏やかで、春の日の中に溶けてしまいそうな儚い印象を受ける人だ。嫌いじゃなかったと、旬くんは繰り返した。
「父さんは人に迷惑をかけたくない人で。俺が中学卒業したらもう限界だったみたいでね。消えちゃった。たぶんどこか人に迷惑をかけないところで……いなくなったんだろうなって思ってる」
旬くんは丁寧に言葉を濁したが、お父さんは自ら儚くなったのだと予想しているようだった。
それを旬くんは受け入れているのだ。旬くんの視線がテーブルの上の柚子餡最中に戻ってくる。
「妹と俺だけの生活になって、しばらくは父さんが残したお金でなんとかしてたんだけど……俺は十五歳でバイトができる年齢でもなくて。困ったら役所へ相談に行くことも知らなかった」
旬くんの話の先に、もうすでに「前科」への道筋は見えているような気がした。
「妹は二つ年下の中学生で、親がいなくなったなんてむしろ隠したいことだったから。学校に相談する発想もなかった」
誰にも助けを求められなかった。求め方がわからなかった兄妹の暮らしが破綻するのは、当然だ。
「でも妹が塾に行きたいって言い始めて。妹は父さんがいないからダメだねって諦めてたけど……妹が俺より賢いの知ってたから、俺……」
幼い旬くんを誰か止めてくれないだろうかと叶わない願いをかけながら、私はまだ温かい湯呑を握り締める。
耳を塞いでしまいたいような、旬くんの痛みをきちんと知りたいような。胸に澱みが渦巻いた。
「俺、お金が欲しくて。昔は受け子って言ったんだけど、今で言う闇バイトをやったんだ。オレオレ詐欺みたいなやつの現金受け取りをする役だよ」
私よりずっと辛いだろう旬くんは、柚子餡最中をついに口に運んだ。甘みが旬くんを慰めるように祈る。お茶を飲んだ旬くんが改めて口を開いた。
「俺が傷つけた相手に、今でも本当に……申し訳ないと思ってる」
旬くんの静かな声に胸がどうしようもなく痛かった。
それが旬くんの罪。
旬くんは初犯ですぐに警察に捕まり、二年間、自立支援施設で過ごしたそうだ。少年犯罪は更生を目的とするから、旬くんのように施設を卒業したのなら前科とは呼ばないはずだ。
けれど世間では「前科」と呼んでしまう。
私が唇を食いしばるのを見て、旬くんの眉は切なく形を崩す。
「施設を出たあと、児童養護施設で過ごしていた妹に会いに行ったんだけど……犯罪者の兄がいることを人に知られたくないって拒否されて」
あの寝言のように「柚子、ごめん」と謝って、柚子さんの元から離れていく旬くんの背中が目の前に浮かぶようだった。
そうして別れて十年。
今日偶然出会うまで、旬くんは離れることで妹を守ってきたのか。
「もう生きてていいのかわかんなくてフラフラしてたところを、澄江さんに拾われて居候になったんだ」
旬くんはそこまで重いものを背負いながらも、茶畑で笑っていた。
青空と光の下、新緑の茶畑の里で笑う旬くんを思い出すと、私の目から一筋涙がこぼれてしまった。
私が花房さんちに転がり込んでから、どんな時も優しく声をかけてくれた旬くんを全部想い返す。
彼は簡単に、犯罪者と呼んでいい人物だろうか。
旬くんが私にティッシュを手渡してくれる。
「泣かないで花奈ちゃん。花奈ちゃんが泣くことじゃないよ」
「すみません……本当に私が泣くところではないです、泣くのは旬くんです」
「俺はもう泣かないよ。泣き飽きた」
「それでも泣きたいときは泣かないとダメです。我慢させると良いお茶はできないって旬くんが言ってました」
初めて肥料散布機を使った日、土にたくさん肥料を与えて甘やかすのだと旬くんは語った。旬くんはそういえば言ったかもと薄く微笑む。
私は止まらない涙をぽろぽろ落としながら、旬くんに湯呑を突き出した。
「旬くんが我慢し過ぎてからからに乾いてしまわないように、お茶を飲んでください。足りないぶんは私の涙で補います。私が拙いながら肥料になりますので……」
「ふふっ……何言ってんの花奈ちゃん」
私は彼を励ましたい想いだが、どうにも言葉が空回る。
私が幼い旬くんを想って存分に泣いている間、お茶を飲んだ旬くんはテーブルに頬杖をついてずっと私を眺めていた。優しい視線だった。
やっと落ち着いた私はティッシュで鼻を噛んでから、充血した目と鼻声で旬くんに言った。
「……でした」
「え?」
「話を聞いても、旬くんのこと全く嫌いになれません。私の勝ちですね」
「……俺の完敗だよ」
何の勝負かわからないが、あっさり負けを認める旬くんがおかしくて私たちは夜のホテルの部屋で小さく笑い合った。
お茶の片づけをしてからベッドに潜り込むと、旬くんが水で絞った冷たいタオルを渡してくれた。
「はい花奈ちゃん、これで目冷やしてね」
「あ、ありがとうございます」
私がタオルを受け取ると旬くんが微笑む。
「俺やっぱり、あっちの部屋で寝る。床でもどこでもいいから」
「え、そんなことしなくてもここにベッドがいっぱいありますけど……」
子どもたちが眠る部屋にはもうベッドがない。けれどここには私が使ってもまだ二つもベッドがある。
「ダメだよ」
今日二度目の旬くんのダメ。旬くんのやわらかいけれど芯に熱のある声が耳に残る。私が首を傾げると、旬くんは背を向けてドアへ向かった。
「花奈ちゃんと二人の部屋で俺、眠れるわけないから」
背中越しでそう言われ、旬くんは引き止める間もなく部屋を出てしまった。きっちり引かれた誠実な線に胃がきゅうと縮んだ。拒否されたとは受け取れず、守られたのだとわかる。
私は旬くんがくれたタオルで目を冷やしながら、ベッドに潜り込む。旬くんのために何かできないかとそればかりが、甘く縮む胸の内を巡った。




