川添茶
私は長年住んだワンルームマンションの解約手続きを済ませ、空になった部屋に何の未練もなく、ドアを出た。小さな旅行鞄ひとつで和歌山県へと旅に向かう。
この旅で移住先を探すつもりだ。
私はひとっ飛びの飛行機ではなく、新幹線に乗り込んだ。地を這っている新幹線が私にお似合いだ。車内で窓側の席に座り、流れる景色をぼんやり見つめていた。ボイコット事件が頭を掠める。
ダメと言い続けたせいで、ただただ痛い目にあった。
同じ痛い目を見るのならば、奔放に何も考えずにイエスと言えば楽ではないか。
新幹線のアナウンスが富士山が見える場所だと告げる。けれど、曇り空で富士山は顔を見せない。お母さんとの旅行でもそうだった。富士山の裾野を睨みつける。
昨年末に、お母さんが死んだ。
まだ五十代だったのに、ガンが見つかってからすぐだった。病院のベッドで息を引き取ろうとするお母さんに、私は縋りついて泣いた。
『お母さん、死んじゃダメ!』
大人げなく、何も受け入れられないままそう叫んでしまった。病室に響いた声の無情さすら覚えている。私は窓にごつんと頭をぶつけた。
全て捨てて和歌山へ逃げる私を、人は私を自暴自棄、なんて言うのかもしれない。
けれどそうやって「それはダメだよ」と言ってくれる人さえ、もう私にはいないのだ。
新幹線から特急へ乗り継ぎ、和歌山県最大の観光ビーチがある白浜に到着した。
和歌山のおすすめ観光地で検索して、一番上に出た「白浜」に何も考えずに来た。だが、青い海なんて眩し過ぎて行く気がしない。
私は駅前からタクシーに乗り込んで「どこかカフェへ」とお願いした。車内で、運転手さんが後ろを振り向いた。
「白浜全体で推してる店があるんですが、どうですか?」
額の髪の毛が後退した中年ドライバーの提案に、私は無気力のまま頷いた。
「どこでも結構です」
「お茶一杯、かなりお高いですよ?」
「かまいません」
高いと言われて値段も聞かずにイエスを返す。もうどうでもいいからだ。
運転手さんは車を走らせ始めた。車は白浜からどんどん遠ざかり山の中へ走っていく。白浜から車で三十分の山道を走り、山の頂きにある立派なお屋敷に到着した。運転手さんは帰りも呼んでくださいと名刺を渡して帰って行った。
直線美の日本家屋の周り、森が開けた視界には雄大な山々が見渡せる。屋敷の前にある厳かな漆塗りの看板には「茶房 ひきがわ」と書かれていた。
「茶房……か」
茶のお店なら悠然な日本家屋は数寄屋造りか。自然素材を生かした、余白で魅せる和風建築だ。
茶房ひきがわに一歩踏み入れると、ロビーには白い石の庭、枯山水が待っていた。どこからか水の流れる音が聞こえてきそうなのに、無音の装いだ。
枯山水の中にある婉曲した道を進むと、着物の女性が深々とした礼で迎えてくれた。
「ようこそ、茶房ひきがわへ。ご予約のお名前を伺います」
「あ、予約していなくて……すみません」
「そうでございましたか。当店は予約による茶体験を提供する店ですが、一時間だけでしたら、茶師の私の身体が空いておりますのでご案内できます。一時間のご案内になりますがよろしいでしょうか」
「……お手数おかけします」
茶師と名乗る彼女は妙齢の女性で、雪のように白い髪に銀色の着物が優雅だ。どこかからお茶の香ばしい香りがする廊下を進み、六畳の和室に案内された。
凛とした畳部屋の床の間には小花が活けられ、大きく解き放たれた縁側の外には庭園がある。
用意された座布団の上に座ると、茶師さんも前に正座した。綺麗にお辞儀をしてくれる。
「当店で扱うお茶は『川添茶』(かわぞえちゃ)のみでございます。一服、淹れさせていただきますね」
彼女がお茶の道具を運び込み、急須に湯を注ぎ、湯呑をあたためる。その所作の一つ一つが洗練されていて、見惚れてしまう。
彼女は白磁器の湯呑に入れたお茶を差し出して微笑んだ。
「和歌山の日置川地区名産、川添茶でございます」
金緑色に輝く一杯のお茶からは、私を招くように湯気が立ち上っていた。
「ではごゆるりとお楽しみください」
彼女は静かに席を辞した。一人きりになった私は、庭を正面に見据えながら湯気を上げる湯呑を手に取る。
ずずずと口に含むと茶の香ばしい匂いとまろやかさに、体のどこかがほっと緩む。
添えられた小さな茶菓子を摘まみ、またお茶をすする。
誰かが私のために、丁寧に淹れてくれたお茶があったかい。
きりきりと痛み続けていた胃がじんわり温まり、自然にふうと息をついた。
息をしたのは、いつぶりだろう。
川添茶を飲み、息をする私は顔を上げた。新緑の庭園の向こうに、春の青空がぱっと広がって見えた。この庭、こんなに美しかったのかと、今さら気づいた。
息をして、身体の芯が緩み、やわらかく頬も緩む。
縁側から入る風を感じながら川添茶を一口一口、大事に飲んだ。
「川添茶……美味しいな」
存分にお茶とお部屋とお庭を堪能した私は、するりと立ち上がった。
茶師さんが淹れてくれたお茶は一杯、五千円。
美しい和室を独占し、私だけのために茶師さんが丁寧にお茶を淹れてくれた。贅沢な一杯を十二分に味わわせてもらった。
会計を済ませた出口の近くにはお土産用の茶缶が並んでいた。和柄の円柱缶は愛らしく、布の手触りが気持ち良い。
茶缶の隣に置かれた川添茶の紹介パンフレットが目に入り、手に取って読み始めた。
パンフには男性の柔和な笑顔の写真が掲載されている。
作業服と白いTシャツを着て、茶畑の中で笑う短髪の彼は爽やかな印象だ。
私が飲んだ川添茶の生産者は『朝比奈旬』くん。二十八歳、私と同い年。
パンフレットには彼のコメントが載っていた。
『川添茶を飲むほんの一時だけでも、自分の頑張りを認めて、許してあげられるような時間になって欲しい。そんなお茶になるよう祈りながら作っています』
私がもらった感覚がそのまま言葉になっているようだった。川添茶を飲んで息を取り戻したあの瞬間。ほんの一時、私は私を、許してあげていたのか。
彼が茶に込めた懇切丁寧な想いは、私にきちんと、届いていた。
パンフレットにはさらに川添茶の生産地、日置川地区は限界集落であり、茶農家が衰退している現状。そして茶房ひきがわへの来店や茶缶の購入が、茶農家への応援になると記されていた。
「応援……したいな」
この店で一杯のお茶が、大切に振舞われる理由が伝わってきた。朝比奈旬くんが茶に込めた祈り、その想いを地域で守ろうとするお茶に染み込んだ繋がり。その見えない糸が、私の空っぽを少し埋めてくれたのだ。
私を和ませてくれた川添茶への応援と感謝の気持ちで、茶缶の購入を決めた。
それに、白Tシャツがすごく眩しい朝比奈旬くんがちょっとだけ──好みだった。
私は川添茶を買って、店を後にした。今度は茶体験に来ようと決めた。もうすっかり川添茶のファンだ。
行きと同じ帰りのタクシーの車内で、私は運転手さんに宿を紹介してもらった。最初はこの土地に泊まる気がなかった。けれど、川添茶が生きる土地だと知ったので、一泊したくなったのだ。
今夜は宿で朝比奈旬くんの川添茶を淹れよう。そうすればまた少し、元気になれそうな気がする。




