優しい音
澄江さんと子どもたちが寝静まり、最後に風呂を終えた私はまだ茶の間の電気がついていることに気がついた。部屋を覗くと、座り込んだ旬くんの背中が目に入った。
旬くんは床で乾かしていた色とりどりの模造紙を眺めていた。居間に入って、彼の背中に声をかける。
「旬くん、どうかしましたか」
振り返った旬くんが絵を指さして笑った。
「凌が明日ちゃんと部屋から出てくるか心配だったんだけど。この絵を見てたら、大丈夫だなって安心した」
「私もそう思います。こんな明るくて綺麗な色を塗れるんだから、凌くんの明日はきっとぱっと晴れてます」
私が両手を広げて「ぱっ」と咲くイメージを表現すると、旬くんがくすくす笑った。私はふと思いついてスマホを手に取る。
「果林さんと連絡先を交換したので、この写真を撮って送っておきますね。きっと旬くんと同じように安心してくれるはずです」
私が写真を撮ると、旬くんが目を細めた。
「俺にはない発想だよ。俺、あんまり細かいところに気がつかないから、凌と陽和をしっかり見てくれてありがとう、花奈ちゃん」
「いや私、何もできてませんけど……」
私は旬くんの隣にぺたんと座り、果林さんに写真を送りながら肩を丸めた。旬くんはいつだって朗らかな声をくれる。
「花奈ちゃんが家にいてくれるようになって、本当に全然違うんだ。俺最近、仕事に集中できて、すごく気が軽い。頼りにしちゃってごめんね」
眉を下げて情けなさそうにへにゃりと笑う旬に、花奈はどんと胸を張った。
「いえ、元現場指揮マネージャーの私から見れば、旬くんはがんばりすぎです」
「え?」
「過労です。私にできることがあったらもっと教えてください」
「えー?こんなの当たり前だよ」
「あたり前に自分を削り過ぎですよ?これからまた作業に行くんですよね?」
旬くんは昼夜働き、子どもたちに気を配ってお茶を淹れ、絵まで描く。いくら体力があるとは言え、限度がある。旬くんは笑いながら立ち上がった。
「心配してもらえるとまたがんばれそう!」
「がんばっちゃダメって言ってるんですが!」
旬くんが玄関へ足を向けるので、私は玄関までお見送りについて行った。靴を履きながら旬くんが言う。
「花奈ちゃんはさ、みんなにダメって言えてすごいよ」
「あ、口出しし過ぎましたね……ごめんなさい。今日もそれで凌くんとケンカを……」
「凌とケンカ、俺はしたことない。みんなにダメって言えないんだよね。そういうの言える立場じゃないと思っちゃって」
旬くんは家の長男的な立場なのに、彼はそう思っているのか。なんて謙虚なんだ。私はすでにやらかしたというのに。
「花奈ちゃんがダメって言うのはさ。相手が痛い目に合わないようにとか、悲しい想いしないようにっていう気持ちだと思うんだ」
旬くんにそう言われてふと思い出す。あまりに癖になって忘れていたが、私がダメダメを言い始めたきっかけは、お母さんの身体が弱かったからだ。
シングルマザーのお母さんは仕事が立て込むとすぐに熱を出した。無理をしてはダメ、夜更かしはダメ、ご飯をもっと食べなくちゃダメと言って。
お母さんを守っているつもりだった。
私の「ダメダメ」の奥底に流れているものを、旬くんが汲んでくれた気がした。
「だから俺には花奈ちゃんがダメって言ってくれる声が全部……優しい音に聞こえるよ」
私は目をぱちくりしてしまった。
「だから俺もダメって言われると……花奈ちゃんが心配する人の中に入れてもらった感じがして、実はちょっと嬉しい」
旬くんが頭をかいて照れるので、なぜか私も釣られてじわじわと首元が熱くなってしまった。玄関に夜の風が吹きつけてガタガタと音を立てた。
「じゃあ夜は工場の茶蒸し作業、行ってくるね」
旬くんの夜作業を止めたかったのだが、呆けていて背中を見送ってしまった。受け答えはやわらかいが、旬くんは意外と頑固だ。
私のダメダメを嬉しそうに受け取っても、結局止まってはくれない。私は旬くんが去った玄関を見つめた。
「私のダメが……優しい音か」
相手の助けになりたいという気持ちがきちんと届くように、ダメを使えるようになりたいと思った。
次の日の朝、凌くんは普段通り制服を着て朝食に現れた。
澄江さんの作った茶粥と、出汁巻玉子を食べて滞りなく学校へ行った。凌くんの朝の様子も果林さんに伝えると、彼女は丁寧にお礼の電話をくれるくらい喜んでくれた。
週末のお昼頃、果林さんは花房さんちにやって来た。居間のちゃぶ台で陽和くんと絵を描いて遊んでいた凌くんに、果林さんは抱きついて涙ぐんだ。
「凌ごめんね。お母さん、もうケンカ見せないって約束するから!だからお願い!お母さんと一緒に住んで!」
凌くんは果林さんを引きはがすわけでもなく、淡々と色塗りをしていた。
「別にもう怒ってないけど、一緒に住むのは断る」
「や、やっぱり怒ってるんだ……」
「怒ってないって。お母さん仕事が忙しいから。お母さんと二人で住んだら、僕一人でご飯を食べることになる。それが嫌なんだよ」
凌くんはきっぱり言った。
「花房さんちはご飯をみんなで食べて、お茶の時間まであるんだよ?花房さんちの方が余裕で良い」
果林さんににっと笑った凌くんは、さらっと彼女から離れた。果林さんはそんなぁと言いながら肩を落とした。
「陽和、川で笹舟して遊ぼう」
「いいよー!」
陽和くんと連れ立って凌くんが玄関に行ってしまう。凌くんにフラれた果林さんはしばらく放心していたが、私がお茶を差し出すとふと我に返った。お茶を飲んだ果林さんは一息ついた。
「私と暮らしたら一人でご飯が増えるのは事実です。凌が自分の意思を言えるようになるのは嬉しいですね。私は寂しいですけど!」
果林さんは私の手を両手で取って、真剣な眼差しで言った。
「花奈さん!凌の様子、また教えてくださいね!」
「はい!」
依頼を承ると、果林さんは凌くんたちを追いかけて川へ行ってしまった。
翌日にやってきた田沼さんも、果林さんと全く同じ誘いをかけ、同じように凌くんにあしらわれていた。凌くんは両親に平等だ。




