過去にするつもりだった恋
高校三年の三月十三日。三年間、通い続けた高校を卒業する日。体育館の床はやけに冷たかった。まるで、自分の心を移しているかのようだった。
一人一人、名前を呼ばれて壇上に上がる。卒業証書を受け取り、笑顔で降りてくる。一人、また一人。自分は最初の数人目で呼ばれたから、お役御免だ。ただ耳に届く声を聞き流す。
素通りしていく仲間達の声だったが。ある一人の時だけは違った。
「はい」
名前を呼ばれ、返事をする。壇上に上がる背中をじっと見つめる。皆と同じように証書を受け取り、また前を向いた。
一瞬、その子と目が合った。気がする。そう、気がするだ。彼女が来た道を戻る姿を目に焼き付ける。
もう二度と会うことが出来ないだろう彼女。今日で全てが終わる。この想いを置き去り、過去の記憶と化すだろう。
彼女と隣の席だった三年間。下らない話で笑って、放課後に寄り道して、一緒に勉強した日々が一気に駆け抜けていく。
全ては過去の話。これから歩む未来に彼女はいない。三年間、想い続けた恋心は今日をもって、散る。
友人の一人でいいと思っていた。それでも、勇気を振り絞っていれば変わっただろうか。最後の一歩を踏み出していれば、彼女の隣に立てていただろうか。
告白しておけばよかった。後悔先に立たず、とはまさにこの時である。だが、悔やんでも時は戻らない。だって、今更想っても遅いのだ。今日をもって、彼女とはお別れなのだから。
式典が終われば、あとは帰るだけ。友人とダラダラ話すのもやぶさかではないが、気分が乗らなかった。明日以降、友人とは予定をすり合わせているのだ。今、顔を付き合わせて長居することもない。
今は一人になりたかった。泣いたり笑ったりする人並みを潜って、校門へと真っ直ぐ進む。歩く一方で、チラリと目線は横を向く。目線の先にいた彼女は、友人達に囲まれていた。流石にあの輪に入るのは難しい。
最後の挨拶は諦めるしかあるまい。目線を戻し、止まっていた時を進める。一人寂しく、帰ろうとしたが叶わなかった。
「あ、あの!」
「?」
聞き慣れた声、焦がれた声に足が止まる。止まるも、名前を呼ばれた訳じゃない。自分に向けてではないだろうと、察する。
静止した足を、また踏み出す。外への歩みを再開させれば、また声が聞こえた。
「待って!」
「っ!?」
場にそぐわない大きな声量、そして背後からの強襲。強襲は大袈裟だったか。服の裾を引っ張られ、後ろに少し転けそうになった。
何とか踏ん張って、体勢を保つ。保つと同時に、体勢を崩す切っ掛けとなった犯人へと目を落とした。
「……何?」
「あの、一緒に帰らない?ですか?」
「……ふっ。変な敬語」
「そんなに笑わなくても!」
「悪かったって。で、何?友達と話さなくていいのかよ?」
意図しない彼女の上目遣いに、心臓が跳ねたのは内緒だ。高鳴りを隠すように、ぶっきらぼうな口調。しくじりにしまったと思うも、彼女はいにもとめない。それどころか、お誘いの一言。
一緒に帰らない、か。嬉しい反面、お断りしたくもあった。彼女とは今日をもって、サヨナラのつもりだった。未練を残したまま、お別れのつもりだったのだ。
断ち切ろうとした縁を、結び直され戸惑う。素直に好意を受け取れず、友達を優先すればと諭してしまう。
折角の好機を、逃そうとする愚行。こちらに構わず、大事な友達と帰ればいい。暗にそう告げるも、彼女は引き下がらなかった。
「友達とじゃなくて……一緒に帰りたい。駄目?」
「……好きにすれば」
小首を傾げて、お願いされては駄目と言えなかった。直視から目を背けて、判断を彼女に委ねた。
肯定と受け取ったのだろう。彼女は、一瞬だけ離れていった。こちらから離れて、友達と一言二言。本当に一言だったのか。すぐに、彼女は戻って来た。
「お待たせ。帰ろ!」
「ん」
彼女に促され、帰路につく。さっきと違うのは、一人ではなく二人でだ。寂しさを纏っていた空気が和らいだ気がした。
まだ明るい道なりを、二人並んで歩いていた。いつもなら、たわいない会話で弾む道。しかし、今は互いに無言。
一言も喋らずでは、一緒に帰る意味がない。一人分の空白を空けて、一定のテンポで歩み続ける。
彼女とは駅でお別れだ。こっちは内回り、彼女は外回り。つまり、あと数分でこの曖昧な関係も終わってしまう。
チラリと、片目だけ視線を下げた。彼女を見やるも、顔色は窺えない。彼女は俯き、見ようともしない。ただただ、地面と睨めっこ。
一緒に帰ろうというなら、会話の一つでもあればいいもの。まあ、己も話す素振りがないから仕方ないのかもしれない。
実際、話しかけづらいのも事実。終始、顰め面の自信がある。話し掛けるなオーラが、知らずの内に出てしまっているのだろうか。
だとしても、それが正解ではある。潔く引き下がるつもりだったのに、希望という糸を垂らされた。彼女の真意が読めずでは話も振りづらい。
どうしたものか。内心、溜め息を吐く。すると、彼女が重い口を開いた。
「明日から、会えないね」
「まあ。もう卒業したしな」
「大学も違うしね」
「ん」
彼女と一問一答を続ける。会えない、の重みがのし掛かる。彼女は県外の大学に進学だと聞いた。
古都である京都で、歴史を学ぶのだと。都会と地方、新幹線で二時間半の距離。近いようで遠い。気軽に会おうと言えやしない。まして、単なる友人とならば尚更だ。
恋人ならまだしも、いや考えるのはやめよう。幾ら考えても、告白なんてできやしないのだから。
ぽつりぽつりと投げては返すボールが、不意に途切れた。途切れたのは会話だけではない。彼女の歩みも止まった。
数歩進んだ先、立ち止まる。隣を歩いていたはずの彼女が後退していると気づき、振り返った。その時だ、彼女の真っ赤に熟れた顔に射抜かれた。
「ずっと好きでした」
「……え」
囁きに似た声音だった。小さくてか細い声。だが、耳にはっきりと届いた。脳が噛み砕く前に、彼女が背を向けた。そのまま走って行く。振り返らず、逃げるかのようだ。
走り去る彼女を追い掛けず、棒立ちで佇む。そのまま鼓膜を揺する言葉を反復。『ずっと好きだった』。
彼女も好いてくれていたのか。ずっとということは両思いだったのか。喜びで満ちるが、過去形だったのが気がかり。
『好きです』、ではなく『好きだった』。彼女にとって、この恋心は過去の思い出の一つに成り下がったのだろうか。
嫌だ、苦しい。まだ、気持ちを伝えていない。この気持ちを彼女に伝えず、終わりにするのは嫌だった。
小さくなる背中に、やっと追い掛け始める。見失えば、二度と彼女と言葉を交わせやしないだろう。
地面に張り付いていた足に力を込める。踏み込んで、もつれる足を動かして、彼女の背中を追う。
小さかった背中が徐々に大きくなる。走って走って、彼女を視界いっぱいに映した。追い越す寸前で、彼女の腕を掴む。
「待て!」
「っ!」
声なき悲鳴を上げる彼女だが、手首を拘束されて走るのを止めた。互いに呼吸が荒い。息を整えるため、吸って吐く動作。ただ空気を吸って吐き出したのは、言葉だった。
「あんたは過去かもだけど、俺は今も好きだ!」
「……」
「だから、過去にしないでくれ。これからも、ずっと傍にいてくれ」
掴んだ腕を彼女の肩に伸ばす。肩から前へ伸ばし、後ろから抱き締めた。告白はしないと、二の足を踏んでいた数時間前が嘘のようだ。
震える体で彼女に抱き付けば、回した腕に温もりで包まれる。逃げない、ということは肯定だろうか。
彼女を抱き締める腕に力を込めた。過去にするつもりだった恋は、まだ終わっていなかった。




