揺らぐ信頼
——翌日、午後、王宮の門前——
豪華な鉄の門の前に立ちながら、リアムは手に持った嘆願書を見つめていた。金の装飾が施され、王家の紋章が掲げられている門、その両脇にそびえ立つ石造りの塔を見上げる。
後ろには仲間たちが数名おり、みんな緊張した表情だった。
門番が二人、槍を持って立っている。鎧を着た屈強な兵士たちだった。
深呼吸をしてから一歩前に出て声をかけた。
「すみません」
門番の一人が冷たい目でこちらを見てきた。
「何だ」
低く威圧的な声だった。嘆願書を掲げる。
「王に、俺たち民の声を届けたい」
門番は嘆願書をチラリと見てから、鼻で笑った。
「陛下は、民の声など聞かぬと仰せだ」
リアムは顔が強張るのを感じた。
「聞いてくれ!」
前に出ようとしたが、門番が槍を横に向けて進路を塞いだ。
「これは、数百人の民の願いだ!みんな、苦しんでいるんだ!食べるものもない!どうか、陛下に届けさせてくれ!」
必死に訴えたが、門番は表情一つ変えなかった。
「今すぐ消えろ。それともお前ら全員、牢に入りたいか?」
冷たい声だった。歯を食いしばり、拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込んで痛みが走った。でも何もできない虚しさが襲ってくる。
若者たちが肩を掴んできた。
「リアム、もういい。行こう」
「でも…!」
「無駄だ。相手にされてない」
悔しさに震えたが、ここで暴れても意味がない。リアム達は嘆願書を胸に抱き、踵を返した。
背後から、門番が冷ややかに見送っているのが感じられた。
王宮から離れながら、リアムは拳を握りしめていた。
嘆願書の羊皮紙が手の中でくしゃりと音を立て、数百の拇印がそこに刻まれている重みを感じる。
(悔しい。渡すことさえ、叶わなかった)
エミールが横に並んで歩きながら低く言った。
「やっぱり、無理だったな」
トマスが憤りを隠せない声で続けた。
「門番の野郎、最初から聞く気なんてなかったんだ」
若者たちの落胆の色が濃い。それでも誰も文句を言わない。みんなリアムが一番悔しいことを知っているからだ。
嘆願書を見つめながら、リアムは数百の拇印を指でなぞった。一つ一つが助けを求める声だった。
(アレク……)
拳を握りしめる。
(渡せなかったけど、今日の事はアレクの耳にも入る。約束、忘れてないよな……?)
王都の街並みが夕日に赤く染まり始めていた。
スラムへの道は長く、寒風が吹き抜けていく。
リアムは嘆願書を胸に抱きながらただ黙々と歩き続けた。
誰も言葉を発さず、足音と風の音だけが響いている。
遠くに、王宮の白い塔が見えた。あそこに、アレクがいる。
(俺は……どうすればいい?)
答えは出なかった。
◇ ◇ ◇
——数日後、スラム街——
スラム街に騒ぎの起きた音が聞こえてきた時、リアムは急いで駆けつけた。
役人たちが数人の兵士を連れてハンスの家に押し入っているのが見えた。
ゲルハルト公爵の配下である外套を着た、冷たい目をした男たちだった。
「何だ! 何の用だ!」
ハンスが抵抗しようとしているが、兵士たちに押さえつけられているのが見えた。
「離せ!」
役人の一人が冷たく言った。
「ハンス。お前を、王への不敬罪で逮捕する」
周りに集まっていた若者たちが騒いだ。
「何だと! 不敬罪だと!?」
「陳情は合法のはずだ!」
役人は冷笑した。
「陛下への不当な嘆願書を作成し、王宮の門前で騒ぎを起こした。これは、不敬罪に該当する」
若者たちがこちらを見るのを感じて前に出た。
「待ってくれ! 俺が代表だった! 俺を捕まえろ!」
役人がこちらを見て冷笑を深めた。
「お前が『リアム』だな。陛下の温情だ。代表者リアムは、『旧友の無知ゆえの軽率な行動』として見逃された。『だが、次はない』。陛下からのお言葉、確かに伝えたぞ」
顔が青ざめるのを感じた。
「何だと……」
「だが」
役人は続けた。
「扇動された愚民どもへの、見せしめは必要だ」
ハンスが恐怖に震えながら叫んだ。
「リアム……助けてくれ……」
リアムは役人に詰め寄った。
「ふざけるな!陳情は合法だ!なぜ、ハンスが…!」
役人がこちらを見下ろしてきた。
「黙れ。我々ゲルハルト軍は力で統治するのだ」
全身が怒りに震えるのを感じた。
「俺を捕まえろ! ハンスを、解放しろ!」
だが役人は答えず、兵士たちがハンスを引きずっていく。
「離せ! 離せ! リアム!」
ハンスの叫び声がスラム街に響き、リアムは追いかけようとしたが仲間達が押さえてきた。
「リアム、やめろ! お前まで捕まる!」
「離せ! ハンスを、仲間を見捨てられるわけないだろう!!」
「気持ちは分かる! でも駄目だ、あいつらは本気だ!」
役人たちがハンスを連れ去っていくのを見ながら、その場に立ち尽くした。拳を握りしめ、爪が手のひらに深く食い込んで血が滲むのを感じた。
「くそっ…!」
悔しさと怒りと罪悪感——全てが胸を抉った。
粗末な木造の小屋で、壁には隙間があって風が吹き込んでくるのを感じながら、リアムはベッドに座って頭を抱えていた。蝋燭の灯りだけが部屋を照らし、炎が揺れて影が壁に踊っている。
「俺が……俺が代表として、行ったのに……」
声が震えた。
「なんで、ハンスが……」
拳を握りしめ、爪が手のひらの傷に食い込んで痛みが走るのを感じたが、心の痛みの方がもっと痛い。
(俺を生かして……罪悪感を与える……)
(これが……あのアレクのやり方なのか?)
脳裏に、幼い頃のアレクシオスの笑顔が浮かぶ。優しかった、あの笑顔。でも、今は違う。
(なんて……残酷な……)
顔を両手で覆ったが、涙は出なかった。出せなかった。ただ、アレクへの怒りと、自分ではなくハンスが連れて行かれた悔しさや罪悪感だけが、胸を満たしていた。
◇ ◇ ◇
——数日前、王宮秘密書庫——
蝋燭の光の中で、アレクシオスはイザベラと向かい合っていた。
「スラム街で、嘆願書に署名活動が起きています」
「……ならば、俺と面識のあるリアムが代表として来るはずだ」
「どうしますか」
「門番には、拒絶させろ。だが、リアムだけは逮捕させるな」
「……理由を」
アレクシオスは窓の外を見つめた。
「あいつには、革命を率いてもらわねばならん。計画の要だ。
あいつがいなければ、革命は烏合の衆で終わる。
中途半端な暴動では、さらなる内乱を生むだけだ。
計画を成功させるには、あいつのカリスマが必要だ」
イザベラはじっとこちらを見つめている。
「……承知しました」
イザベラは静かに頷いた。
「ゲルハルトが、見せしめに誰かを逮捕するかもしれん。それは……止められん」
アレクシオスは声がわずかに苦しげになってしまうのを感じた。
彼女が部屋を出て一人になった瞬間、肩がガクリと落ちて、冷たい表情が崩れるのを感じた。
窓辺に歩み寄ると、遠くにスラム街の灯りが見える。
小さな、小さな灯り。あそこに、リアムがいる。
今頃、民衆のために何かをしているだろう。あの優しい笑顔で。
「……すまない」
小さく呟いた。誰にも聞こえない独白。
「すまない、リアム」
目を閉じると、胸が締め付けられる。
(でも——これでいい)
(これしか、方法はないのだ)
◇ ◇ ◇
——即位6ヶ月後、冬、夕方、王都近郊の墓地——
質素な墓標が並ぶ墓地で、リアムは父の墓の前に立っていた。
木の十字架に「ジョン・エバンス」と名前だけが刻まれている。
墓前に膝をついて手を合わせると、冷たい冬の風が吹いて木々がざわめく音が聞こえた。
「父さん……」
墓標は何も答えない。
「やっぱり、貴族は腐ってる。法など関係なく、好きなように捻じ曲げる。民を、虫けらのように扱う」
拳を握った。
「でも……アレクは……」
声が震えた。
「アレクは、そんな奴じゃなかったはずなんだ」
幼い頃の記憶——森で遊んだ日々、二人で誓った約束。
「あいつは、本当に変わってしまったのか……?」
「何が、あいつを変えたんだ……」
顔を上げて空を見上げると、灰色の雲が低く垂れ込めていて、雪が降りそうだった。
「父さん、教えてくれよ。俺は……どうすればいい?」
冷たい、冬の風の音だけが答えた。
リアムはしばらく墓前に座っていたが、やがて立ち上がって墓標に手を添えた。
踵を返して墓地を後にする背中には、まだ迷いがあった。
しかし同時に、何かを決めようとしている決意の色も浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
——同夜、スラム街、貴族の屋敷付近——
若者たちが数人集まっているところに、リアムも加わっていた。
若者の一人が貴族の屋敷を指差した。
「あそこだ。あの貴族、うちの村から土地を奪った奴だ。襲撃しよう。少しでも、奪い返す」
怒りに満ちた声だった。他の若者たちも頷いている。
「やろうぜ」
「あいつらに、思い知らせてやる」
若者達が屋敷に近づこうとした時、使用人が屋敷から出てくるのが見えた。
中年の女性で、痩せていて疲れた顔をしている。
若者の一人が彼女に掴みかかろうとした瞬間——
「やめろ!」
リアムは若者の腕を掴んだ。
若者は驚いた顔でこちらを見た。
「リアム、何で……」
「やめろ、と言っている」
若者は反論した。
「でも、リアム、こいつらは貴族の手先で…」
「違う。使用人達は、ただ生きるために働いているだけだ」
使用人の女性を見ると、恐怖に震えているのが見えた。
「大丈夫です。帰ってください」
女性は何も言わず、慌てて屋敷に戻っていった。
若者は納得のいかない表情で見ている。
リアムは若者たちを見回した。
「俺たちは、無辜の民を傷つけない。これが、俺たちの正義だ」
若者たちは黙って聞いている。
「手段を選ばなければ、俺たちも暴君と同じになる。俺たちは、正しい方法で戦わなければならない」
若者の一人が首を傾げた。
「正しい方法……?合法的な手段は、通じなかっただろ」
「わかってる」
門番の顔を思い出し、拳を握った。
「でも、だからといって、無辜の民を傷つけていいわけじゃない。
俺たちが暴力に頼れば……それは、ただの暴徒だ。
俺たちは、暴徒じゃない。俺たちは、正義のために戦う」
若者たちはしばらく沈黙していたが、やがて一人が頷き、皆が渋々と頷いた。
「……わかった」
「すまない、リアム。俺が、間違ってた」
リアムは彼の肩を叩いた。
「いいんだ。お前の怒りは、わかる。でも、俺たちは……正しくあろう」
その言葉に心が動かされ、若者たちは納得した表情になった。
<リアムは、俺たちや今の王とは違う。ただ怒りに任せて暴れるのではなく、正義を信じて正しくあろうとする>
夜空を見上げると、星が瞬いている。
(まだ、道は見えない)
(でも——正しくあろう)
(それだけは、譲れない)
それが、リアムの揺るぎない信念だった。




