四公爵の過去と野望①
——即位1年半、冬の夜——
ゲルハルト公爵の屋敷は、豪壮な石造りの建物だった。
広い庭には訓練場があり、屋敷の壁には数々の武勲を示す紋章が飾られており、代々軍人の名門として知られるゲルハルト家の歴史が、そこに刻まれていた。
その屋敷の一室で、オズヴァルト・フォン・ゲルハルトは一人、椅子に座っていた。
壁には剣や鎧が飾られており、歴代の当主が使用してきた武具は丁寧に手入れされながらも古びた印象を与えている。暖炉の火が、部屋を赤く照らしていた。
六十二歳になったゲルハルトの顔には深い皺が刻まれているが、その目は鋭く、軍人としての威厳を失っていない。かつて戦場を駆けた男の気迫が、老いてなお消えていなかった。
膝の上には、一振りの剣が置かれている。
刃には僅かに錆が浮かんでいるが、柄は丁寧に磨かれており、使い込まれた革の柄には長年の使用の痕が残っていた。
ゲルハルトは、じっとその剣を見つめていた。ゆっくりと剣を持ち上げ、重さを感じる。
かつては軽々と扱えた剣も、今では重く感じる。腕の筋肉が衰え、握力が弱くなっているのを感じた。
(老いた、ということか……)
小さく呟いた。
「エーリヒ……」
その名を口にした瞬間、顔が苦痛に歪んだ。彼の、一人息子の名前だった。
◇ ◇ ◇
——二十五年前——
ゲルハルトが、三十七歳の時だった。彼はまだ若く、力に溢れていた。
王国軍の将軍として数々の戦場で功績を上げ、北方の反乱を鎮圧し、西方帝国の侵攻を撃退した。オズヴァルト・フォン・ゲルハルトの名は、王国中に轟いていた。
そして、ゲルハルトには一人息子のエーリヒがいた。
十八歳のエーリヒは、父に似て勇敢で誇り高い青年だった。
父と同じく軍人を志し、剣の訓練に励んでいる。いつか父を超える将軍になると、誰もが信じていた。
ある日、王宮から命令が下った。当時の王——先々王、アレクシオスの祖父の命令だった。
「北方の反乱軍を鎮圧せよ。エーリヒ・フォン・ゲルハルトを、隊長として派遣せよ」
ゲルハルトは愕然とした。経験の浅い息子を戦場の最前線に送る、それも隊長として。
必死に訴えた。玉座の間で膝をつき、頭を下げた。
「陛下、息子を最前線に!?しかし、エーリヒはまだ若く、経験も……」
「ゲルハルト公」
先々王の声は、鋭かった。玉座から見下ろす老いた王の目には、何の慈悲もなかった。
「王命だ」
その言葉に、何も言えなくなった。王命。絶対の命令。逆らえば、一族の滅亡。
ゲルハルトは歯を食いしばり、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。だが、彼にはもう一言しか許されていなかった。
「……御意」
出陣の日、ゲルハルトは息子を見送った。エーリヒは若々しい笑顔で言った。
まだ戦場の恐ろしさを知らない、純粋な笑顔だった。
「父上、必ず勝って帰ります!」
ゲルハルトは、無言で息子の肩を叩いた。言いたいことは山ほどあったが、何も言えない。ただ一言だけ言葉を掛けた。
「……気をつけろ、エーリヒ」
「はい」
エーリヒは馬に乗り、出陣していった。ゲルハルトはその背中を見送った。息子が小さくなっていく姿を、ただ見つめている。
(嫌な予感がする……)
胸騒ぎが、心を締め付けていた。戦場での胸騒ぎは、外れたことがなかった。
そして数週間後、知らせが届いた。エーリヒの部隊が反乱軍の待ち伏せに遭い、無意味な突撃命令により全滅した。エーリヒは、戦死した、と。
やがて遺体が王都に運ばれてきた。ゲルハルトは冷たくなった息子の遺体を抱きしめた。もう動かない。若き日の笑顔は、もう戻らない。見送った時の温かかった体は、ただの冷たい肉塊になっている。
声を上げて泣いた。軍人として、将軍として常に冷静であり続けた男が、初めて人前で泣いた。
その後、ゲルハルトは先々王に謁見した。膝をつき、頭を下げた。息子の剣を抱えたまま、王へと問う。
「陛下、息子は……やはり、前線に送るにはまだ早過ぎたのです……」
その訴えを聞き流した先々王は、無関心に言った。
「うむ。名誉ある戦死だ。公の家名に、誇りを加えたであろう。その誉れを与えた余に、これからも尽くすように」
玉座から見下ろす老王の目には、何の感情もなかった。
その言葉が、その目が——ゲルハルトの心を、完全に壊した。
名誉。誇り。そんなもので、息子は帰ってこない。
温かい笑顔も、力強い声も、何もかもが失われた。それなのに、王は「名誉」だと言う。
ゲルハルトは静かに立ち上がり、一礼してそのまま退出した。
その日から、ゲルハルトは、変わった。
王への忠誠は消え去った。残ったのは怒りと、復讐心だけだった。
——現在——
ゲルハルトは息子の剣を見つめていた。暖炉の火が揺れている。赤い光が剣の刃を照らしていた。
「名誉など、所詮は王の都合だ」
剣を握りしめた。老いた手に力が込もる。指が剣の柄に食い込み、震えていた。
「ならば、俺は力で国を支配する」
その目が鋭く光った。
「エーリヒ……お前の無念は、俺が晴らす」
剣が暖炉の光を反射して、赤く輝いた。
◇ ◇ ◇
——同じ頃——
ヴァレンシュタイン公爵の執務室は豪華絢爛で、金の装飾が壁を覆い尽くしている。
天井には美しいフレスコ画が描かれ、床は大理石が敷き詰められていた。
宝石を散りばめた燭台、高価な絨毯、精巧な彫刻。
部屋の至るところに富の象徴があり、机の上には金貨が積まれていた。
レオポルド・フォン・ヴァレンシュタインは椅子に座り、一枚、また一枚と金貨を数えていた。
チャリン、チャリンと音を立てて金貨が積み上がっていく。その音が、彼にとっては最も心地よい音楽だった。
四十三歳の彼の顔には計算高い目と自信に満ちた笑みがある。
低身長で中肉中背の体格は貴族にしては質素に見えるかもしれないが、身につけているものは全て最高級だった。指には宝石の指輪、服は最高級の絹で仕立てられており、全てが金の力で手に入れたものだった。
金貨を数えながら、ヴァレンシュタインはふと視線を上げた。
壁に一枚の古い羊皮紙が額に入れて飾られている。
商人免状。
三十年近く前、彼が初めて手に入れた商人としての証明書だった。
褪せた文字で彼の名前が書かれ、古ぼけた印章が押されている。
その隣には——ボロボロの古い帳簿。彼が貧しい行商人だった頃の帳簿だった。
ページは破れ、表紙はほつれているが、大切に保管されていた。
ヴァレンシュタインは金貨を置いて立ち上がり、その古い帳簿に近づいた。
手を伸ばして触れると、薄く埃を取り払う。
彼はそれを何よりも大切にしていた。
(これが、自分の原点……)
——二十九年前——
ヴァレンシュタイン、十四歳。貧しい行商人の息子として生まれた彼は、父が小さな荷車を引いて村から村へと商品を売り歩くのを幼い頃から手伝っていた。母は病弱で働けず、家族三人が食べていくのがやっとの生活だった。
重い荷物を運び、商品を並べ、客に声をかける。小さな体で必死に働く少年を、人々は憐れんだが、貴族たちは商人を見下していた。
ある日、王都の市場で貴族の子供たちに出会った。豪華な服を着た傲慢な少年たちだった。
彼らはボロボロの服を着たヴァレンシュタインを見て、鼻で笑った。
「ふん、商人の子か」
一人が言った。その声には侮蔑が込められている。
「汚らわしい」
もう一人が、ヴァレンシュタインの荷車を蹴った。商品が地面に散らばる。
野菜が転がり、布が泥まみれになった。父が一日かけて集めた商品が、一瞬で台無しになる。
ヴァレンシュタインは必死で拾い集めた。涙を堪えながら、汚れた商品を拾う。
「やめてください!」
だが、貴族の子供たちは笑っていた。面白そうに、少年の苦しみを眺めている。
『金のない貧民は、生きている価値なんてないんだよ』
その言葉が——少年ヴァレンシュタインの心に、深く刻まれた。
立ち尽くし、拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲む。だが痛みよりも、屈辱の方が強かった。
(いつか……いつか必ず見返してやる……)
その日から、ヴァレンシュタインは金を稼ぐことに全てを賭けた。
父の元を離れ、雑用として雇ってもらった商会で知識を付けた。
計算が速く、交渉が巧みで、人の欲望を見抜きそれを利用する術を独学で身につけていった。
十代の終わりに独立し、二十代で商会を設立し、三十代で王国最大の商人となった。
そして公爵家の一人娘と結婚し、事実上金で公爵位を手に入れた。
貴族たちは眉をひそめたが、文句は言えない。なぜなら彼らには、必要だったからだ。ヴァレンシュタインの金と商品がなければ、生きていけない生活になっていたのだ。
——そして現在——
ヴァレンシュタインは金貨を握りしめた。冷たく、重い感触。この感触が、彼にとっての全てだった。
「私は金で全てを手に入れてきた。公爵位も、屋敷も、権力も」
部屋を見回した。豪華な執務室、金の装飾、宝石、権力——全てが己の手の中にある。
ヴァレンシュタインは冷笑した。唇の端が歪み、目が細くなる。まるで、かつて自分を馬鹿にした貴族たちを見下すように。
「血筋など、金の前では無力だ」
窓辺に歩み寄った。王都の夜景が広がっている。無数の灯りが、闇の中で輝いていた。
その全てが——いずれ、自分のものになる。
「そして、金で王国を買うのだ。もうすぐだ」
彼の顔には、暗い野望に満ちた笑みが、広がっていた。




