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最終話

私のささやかな冒険が始まってから、季節は一度巡った。

アシュトン殿下の奇妙な『プロデュース』のもと、私は生まれて初めて、自分の人生を生きているという実感を得ていた。


領地の経営学の本を読み漁り、父に内緒で改善案を匿名で進言してみたり。

お忍びで観劇に出かけ、物語の結末に一喜一憂したり。

時にはアシュトン殿下と、ただ何をするでもなく、王宮の庭園で他愛ない話をして一日を過ごしたりもした。


『氷の令嬢』と呼ばれた私は、もうどこにもいない。

私はただの、リリアンナ・フォン・ヴァインベルクだった。


そんな穏やかな日々が、ある日突然、終わりを告げる。

父の書斎に、有無を言わさず呼びつけられたのだ。


「リリアンナ! 一体どういうことだ!」


書斎に入るなり、父の怒声が飛んできた。

机の上には、一通の公式な書簡が叩きつけられている。

アルトリア帝国からのものだ。


「アルトリア帝国が、我が国との間で長年懸案となっていた関税交渉について、急遽、白紙に戻すと通告してきた! それだけではない! いくつかの友好国も、アルトリアに追随する動きを見せている!」


父の顔は、怒りと焦りで真っ赤になっている。


「交渉の窓口は、お前が妃教育の一環で担当していたはずだ! お前がいなくなってから、全てが滞っている! アラン殿下も、セラ嬢も、誰も後を継ぐことができんのだ!」


……ああ、やはり。

そう思った。


私が妃教育で担当していたのは、決して表舞台に出ることのない、地味で、根気のいる仕事ばかりだった。

各国の貴族の家系図や人間関係を記憶し、それぞれの国の文化や歴史を学び、誰と誰を繋げれば交渉が円滑に進むかを分析する。

それは、アラン殿下やセラが最も苦手とする、目に見える成果の出にくい、地道な作業。


私がその全てを、完璧にこなしていたことなど、誰も気づいていなかったのだ。

私がいて、当たり前だったのだから。


「……それで、私に何をお望みですの? お父様」


私は、静かに問い返した。

父は一瞬、言葉に詰まった後、苦々しげに口を開いた。


「……王家から、お前に復縁の話が出ている」

「復縁、ですか」

「そうだ! アラン殿下も、ご自身の過ちにようやくお気づきになられたのだ! お前がどれほど国にとって必要な人間だったか、今更ながらに!」


父の言葉は、まるで手柄話のように響いた。

私の価値を、今になってようやく認めたのだと。


「リリアンナ、お前にとっても悪い話ではないはずだ。再び王太子妃の座に戻れるのだぞ! 今度こそ、お前の手腕を国中に見せつけてやれ!」


その時、書斎の扉がノックもなしに開かれた。

立っていたのは、アラン殿下その人だった。

その後ろには、不安そうな顔をしたセラが隠れるように寄り添っている。


「リリアンナ! 話は聞いた! 私が、私が間違っていた!」


アラン殿下は、私の前に進み出ると、必死の形相で訴えかけた。

以前の自信に満ちた姿は、見る影もない。


「君がいないと、何もかもうまくいかないんだ! セラは……セラは、確かに可愛いし、純粋だが、王太子妃の重責は務まらない! 君こそが、私の隣に立つべき人間だったんだ!」


なんて、身勝手な言葉だろう。

以前の私なら、この言葉に安堵し、国の為、家の為に、この手を取ってしまったかもしれない。


でも、今の私は違う。


「お断りいたします」


凛、とした声が、静かな書斎に響いた。


「え……?」


アラン殿下も、父も、セラも。

全員が、信じられないという顔で私を見ている。


「殿下。あなたは、私という人間を見てはいなかった。あなたが見ていたのは、『王太子妃』という役割を完璧にこなす便利な人形でしかありませんでした。私はもう、誰かのための人形になるつもりはございません」


私は、ゆっくりと首を横に振った。


「私が望むのは、王太子妃の座でも、誰かからの賞賛でもありません。私が、私自身の足で立ち、私自身の意思で人生を歩んでいくことです」


「何を……何を言っているんだ、リリア-ンナ! それは反逆だぞ!」

「いいえ、これは私の『独立宣言』ですわ」


その時だった。

私の背後で、重厚な扉がゆっくりと開く音がした。


「――実に、素晴らしい独立宣言だった」


そこに立っていたのは、黒の軍服に身を包んだ、アシュトン殿下だった。

彼の後ろには、アルトリア帝国の屈強な近衛騎士たちが控えている。

その場にいた誰もが、息を呑んだ。


「アシュトン皇太子殿下……!? な、ぜここに……」


狼狽える父を尻目に、アシュトン殿下はまっすぐに私の方へ歩いてくる。

そして、私の隣に立つと、軽蔑のこもった視線でアラン殿下を見下ろした。


「クラインフェルト王太子。君は、自分の手の中にあった宝石の価値に最後まで気づかず、路傍の石ころと取り違えた愚か者だ。今更になってその価値に気づき、返せと泣きつく姿は、滑稽でしかない」

「なっ……!」

「リリアンナの才能は、君のような狭い器に収まるものではない。彼女の地道な努力と、深い知性がなければ、この国はとうに外交で孤立していただろう。その事実にすら、君たちは気づいていなかった」


アシュトン殿下は、私の肩を優しく抱いた。

彼の体温が、私に勇気をくれる。


「リリアンナは、もう君たちのものではない」


そして、彼は私の前に跪くと、アメジストの瞳で私をまっすぐに見つめた。


「リリアンナ・フォン・ヴァインベルク。俺のプロデュースは、どうやら君を自由に羽ばたかせることに成功したようだ。だが、契約はまだ終わっていない」

「……殿下?」

「君の自由な人生という舞台。その隣で、君を生涯支えるパートナーという役を、この俺に貰えないだろうか」


彼は懐から、小さなベルベットの箱を取り出した。

蓋を開けると、そこには夜空の星を閉じ込めたような、美しい紫色の宝石が輝く指輪が収められていた。

それは、彼-の瞳と同じ色。


「俺の妃になってほしい。君を、誰よりも愛している」


プロポーズ。

それは、私が読む恋愛小説の中だけの、夢のような出来事だと思っていた。

涙が、頬を伝う。

でも、それは悲しみの涙ではなかった。


「……はい」


私は、震える声で、でもはっきりと答えた。


「喜んで、お受けいたします。私のプロデューサー様」


微笑むと、アシュトン殿下は嬉しそうに私の指に指輪をはめてくれた。

そして、立ち上がると、呆然とするアラン殿下たちに向かって、高らかに宣言した。


「リリアンナは、アルトリア帝国皇太子である俺の、正式な婚約者となった。これ以上の無礼は、我が帝国への侮辱と見なす」


その言葉が、この場の全てを決定づけた。


◇◇◇


【エピローグ】


その後、私の元婚約者であるアラン殿下は、外交の失敗と国内貴族からの信用の失墜により、王太子の座を剥奪された。

そして、私の義妹だったセラは、そんな彼にあっさりと見切りをつけ、どこかの富豪の愛人になったと風の噂で聞いた。

ヴァインベルク公爵家も、アルトリア帝国との関係悪化の責任を問われ、その権威は大きく揺らいだという。


そして、私は。


「リリアンナ、何をそんなに真剣に読んでいるんだ?」

「あら、アシュトン。次の貿易計画の最終チェックですわ。あなたのサインがなければ、船が出せませんよ?」


アルトリア帝国の皇妃となった私は、執務室で書類の山に囲まれていた。

かつて夢見た領地経営どころか、今では一国の経済の一部を任されるまでになっている。


「全く、君は本当に仕事が好きだな。俺という、こんなに魅力的な夫が隣にいるというのに」


アシュトンは、私の後ろからそっと肩を抱き、書類を持つ私の手に自分の手を重ねた。

彼の体温が、心地いい。


「だって、楽しいのですもの。自分の知識と力で、国が豊かになっていくのが目に見えるのは」

「……そうか」


彼は愛おしそうに、私の髪にキスを落とした。


「君が楽しそうで、何よりだ。それが、俺の最高の幸せだからな」


婚約破棄から始まった、私のセカンドライフ。

それは、私が想像していたよりも、ずっと刺激的で、ずっと幸福なものだった。


『プロデューサー』だった彼は、今では私の最高の理解者であり、最愛のパートナーだ。

彼が見つけてくれた、本当の私。

彼が与えてくれた、本当の自由。


私はもう、誰かのための人形じゃない。

私は、私の人生の、最高のヒロインだ。


窓の外には、どこまでも広がる青い空が見える。

この空の下、私の物語は、これからも続いていく。


――最高のハッピーエンドの、その先へと。

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