第三話
王都で一番大きいと評判の書店は、私の想像をはるかに超える場所だった。
公爵家の書庫は、整然としていて、革と古い紙の匂いが満ちる静謐な空間だ。
けれど、ここは違う。
インクと新しい紙の匂い。
ページの擦れる音。
目的の本を探して歩き回る人々の、ひそやかな熱気。
天井まで届くほどの本棚が迷路のように立ち並び、その全てが未知の物語で埋め尽くされている。
「……すごい」
ここにある本は、誰でも自由に手に取っていいのだ。
私のように、決められた教養書を、決められた時間に読むのではなく。
自分の好きなものを、好きなだけ。
その事実に、私は再び胸が高鳴るのを感じた。
「さて、お目当ての『恋愛小説』の棚はあちらのようだ」
アシュトン殿下は、慣れた様子でずんずんと店の奥へと進んでいく。
私は慌ててその後を追った。
案内された一角は、ひときゆわ華やかな雰囲気に包まれていた。
色とりどりの美しい表紙がずらりと並び、甘やかな恋の物語の始まりを告げている。
『伯爵様と秘密のワルツ』『魔法使いは初恋に溺れる』『王太子殿下(偽)の求婚』……。
どれもこれも、刺激的なタイトルばかりだ。
「さあ、好きなものを選ぶといい」
プロデューサー殿に促され、私は意気揚々と本棚に向き合った。
……の、だが。
「…………」
選べない。
あまりにも数が多すぎて、どれから手に取ればいいのか、全く分からないのだ。
これまでは、読む本は全て教育係が選んでいた。
政治学、経済学、歴史学、帝王学。
私の知識は、全て誰かが与えてくれたもの。
自分の意思で、何かを選び取った経験が、私にはほとんどなかった。
「……困ったな」
途方に暮れて立ち尽くす私を見て、アシュトン殿下が面白そうに口の端を上げた。
「どうした、リリアンナ嬢。パンケーキの時の勢いはどこへ行った?」
「う……うるさい。選んでいるだけだ」
「ほう。ずいぶんと時間をかけてな」
からかうような口調に、私の頬が熱くなる。
その時だった。
すぐ近くの本棚の陰から、聞き覚えのある声が聞こえてきたのは。
「ねえ、聞きました? ヴァインベルク公爵令嬢のこと」
「ええ、もちろん。夜会であんな醜態を晒すなんて、公爵家も終わりですわね」
「『氷の令嬢』なんて呼ばれていましたけれど、結局は殿下の愛を繋ぎ止められなかった、ただの可哀想な女でしたのよ」
侯爵令嬢と、伯爵令嬢の声。
どちらも、私がお茶会で何度か顔を合わせたことのある令嬢たちだった。
彼女たちの声は、蜜のように甘く、そして針のように鋭い。
ぴたり、と私の足が止まる。
心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。
分かっていたことだ。
私が今、王都中の貴族たちの笑い者になっていることくらい。
でも、こうして直接悪意に満ちた言葉を耳にすると、さすがに胸が痛む。
完璧な淑女を演じていた頃の私なら、きっと聞こえないふりをして、優雅に微笑んでみせたことだろう。
「リリアンナ」
アシュトン殿下が、私の名前を小さく呼んだ。
その声には、先程までのからかうような響きは消えていた。
きっと、ここから立ち去ろうと、そう言いたいのだろう。
でも。
(……嫌だ)
ここで逃げたら、また昔の私に戻ってしまう。
やっと手に入れた、このささやかな自由を、他人の悪意なんかに邪魔されてたまるものか。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、令嬢たちの声がする方へ、わざと聞こえるように、はっきりとした足取りで近づいていく。
彼女たちの目の前にある本棚へ。
「あら……ヴァインベルク公爵令嬢?」
私の姿に気づいた令嬢たちが、気まずそうに口ごもる。
私は彼女たちに一瞥もくれず、目の前の本棚をじっと見つめた。
そして、一冊の本を、すっ、と抜き取る。
その本のタイトルは――
『追放令嬢は、真実の愛を見つけて幸せになる』
「……っ!」
令嬢たちが息を呑むのが分かった。
私はその本を胸に抱くと、くるりと踵を返し、アシュトン殿下の元へと戻る。
「殿下、決まりました。これにします」
私が顔を上げると、アシュトン殿下は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、すぐに破顔した。
「……ははっ、最高だ、君は! ああ、実にいい選択だ。今日のところはそれ一冊で満足か?」
「い、いや……その、もし許されるなら、あちらの『没落貴族の逆転劇』と、そこの『捨てられた聖女のスローライフ』も……」
指差しながらおずおずと付け加えると、殿下は「全部買ってやろう」と豪快に笑った。
◇◇◇
結局、私は三冊の恋愛小説(?)を手に入れ、ほくほくした気持ちで書店を後にした。
アシュトン殿下は、本当に三冊分の代金を支払ってくれた。
プロデューサーとしての、必要経費らしい。
夕暮れの光が、王都の石畳をオレンジ色に染めている。
少し肌寒くなってきた風が、心地いい。
「……ありがとう、ございました。殿下」
隣を歩く彼に、私は小さな声でお礼を言った。
パンケーキのことも、本のことも。
そして、多分、さっき書店で私を助けてくれたことも。
「礼には及ばない。言っただろう、最高の娯楽だった、と」
アシュトン殿下は素っ気なくそう言ったが、その横顔は少しだけ優しく見えた。
「君は、自分が思っているよりずっと強い。今日の君は、氷の令嬢なんかじゃなかった。ただの、リリアンナという一人の女性だった」
「……!」
その言葉が、すとん、と私の胸の奥に落ちてきた。
ずっと私を縛り付けてきた『氷の令嬢』という鎧。
それを、この人はいとも簡単に剥がしてしまう。
公爵邸の裏口まで戻ってきた時、アシュトン殿下はふと足を止めた。
そして、道の脇で花を売っていた老婆から、一輪の小さな花を買った。
それは、貴族が飾るような豪華な薔薇や百合ではない。
夜の闇に咲くという、白くて可憐な月見草だった。
「やる」
ぶっきらぼうに、私にその花を差し出す。
「……私に?」
「他に誰がいる」
「で、でも、なぜ……」
「プロデューサーとして、今日の君の演技に、ささやかなボーナスだ」
彼はそう言うと、私の返事も待たずに、ひらりと身を翻した。
「次は、もっと面白い舞台を用意しておこう。楽しみにしておけ、リリアンナ」
闇に消えていく彼の背中を見送りながら、私は手の中の小さな花を見つめた。
アラン殿下からは、宝石やドレスは何度も贈られた。
でも、道端で売っているような、たった一輪の花を贈られたのは初めてだった。
花の甘い香りを吸い込むと、不思議と、また涙がこぼれそうになった。
今度の涙は、パンケーキの時よりも、もっと温かくて、少しだけ切ない味がするような気がした。
こうして、私の自由な一日は、幕を閉じた。
胸に抱いた三冊の本と、たった一輪の花。
それは、私が自分の足で手に入れた、何よりも大切な宝物だった。




