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第二話

「私の……『自由』を、プロデュース?」


オウム返しに呟いた私の声は、自分でも驚くほど間抜けに響いた。

目の前の美しい皇太子殿下は、さも当然といった顔で、優雅に頷く。


「そうだ。君はこれから、長年縛られてきた『完璧な公爵令嬢』という役から解放される。いわば、舞台から降りたばかりの女優だ。次のステージに進むためには、優秀なプロデューサーが必要だろう?」

「は、はあ……」

「そして、俺は面白いことが好きだ。退屈な公務と、腹の探り合いばかりの社交界にはうんざりしている。だから、君のセカンドライフがどれほど面白いものになるか、特等席で見届けたい」


なんという、自分勝手な言い分だろう。

しかし、彼の紫色の瞳は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。


私は警戒心を解かずに、一歩後ずさった。

あまりにも話がうますぎる。

こんな胡散臭い提案、裏がないわけがない。


「……殿下。私をからかっていらっしゃるのなら、おやめください。それに、私のような『傷物』に関わっても、殿下には何の得もございませんわ」

「得ならある」

「と、申しますと?」

「最高の娯楽だ、と言っている」


アシュトン殿下は、くつくつと喉の奥で笑った。

その楽しそうな様子に、私は少しだけ毒気を抜かれる。


「それに、君にもメリットはあるはずだ。婚約破棄されたとはいえ、君はヴァインベルク公爵家の令嬢。父親である公爵が、君をこのまま自由にしておくと思うか?」


彼の言葉は、私の心を正確に射抜いていた。

そうだ。父が、あのプライドの塊のような人が、王家から婚約を破棄された娘を、いつまでも野放しにしておくはずがない。

きっとすぐに、次の駒として、どこかの貴族のもとへ嫁がせようとするだろう。

今度こそ、私の意思など一切関係なく。


「だが、俺――アルトリア帝国の皇太子が後見人となれば話は別だ。公爵とて、簡単には手出しできなくなる。違うか?」


悪魔の囁きとは、きっとこういう声をしているに違いない。

それは、あまりにも魅力的で、抗いがたい提案だった。


この人の手を取れば、私が夢見た『自由』が手に入るかもしれない。

下町のパンケーキ屋さん。

流行りの恋愛小説。

領地の経営学。


私のささやかな『やりたいことリスト』が、脳裏をよぎる。


……怪しい。怪しすぎる。

でも、このチャンスを逃したら、二度と本当の自由は手に入らないかもしれない。


私は意を決して、目の前の皇太子を見据えた。


「……条件がございます」

「ほう、言ってみろ」

「あくまで、殿下は『プロデューサー』。私は殿下の『娯楽』。それ以上の関係は一切求めません。恋愛感情も、ましてや殿下の妃になるなどという話も、一切なしでお願いいたします」


これは、私自身の心を守るための防衛線だ。

こんな得体のしれない、美しいだけの皇太子に、これ以上心をかき乱されてたまるものか。


私の必死の申し出に、アシュトン殿下はきょとんとした顔をした後、腹を抱えて笑い出した。


「あははは! 面白い! 実に面白いな、君は! わかった、その条件を飲もう。契約成立だ、リリアンナ嬢」


彼は笑いながら、私の手を取り、その甲に形式的なキスを落とした。

こうして、私と胡散臭い皇太子との、奇妙な契約関係が始まったのだった。


◇◇◇


翌日。

私は自室で、目の前に並べられた服を前に、呆然としていた。


「あの、アシュトン殿下……これは?」

「見ての通り、服だ。君の『やりたいことリスト』を実行するための、最初の装備だな」


そう言ってにこやかに微笑むアシュトン殿下は、なぜか私の部屋のソファで寛いでいる。

昨夜、あれから殿下は「明日、迎えに行く」と言い残して去っていった。そして今日、本当に護衛を数名連れて、公爵邸にやってきたのだ。


「アルトリア帝国皇太子、アシュトン殿下が、リリアンナ嬢をお見舞いに?」


応対した父が、ひっくり返るほど驚いていたのは言うまでもない。

父は、私が婚約破棄のショックで部屋に引きこもっているとでも思っていたのだろう。

アシュトン殿下は、そんな父に「傷心のリリアンナ嬢を元気づけたい」などと、もっともらしい嘘をついて、まんまと私との面会を取り付けたのだった。


目の前にあるのは、私が普段着るようなシルクやレースをふんだんに使ったドレスではない。

丈夫な木綿でできた、質素だが動きやすそうなワンピース。

髪をまとめるための、シンプルなリボン。

そして、ヒールのない、頑丈な革の短靴。

いわゆる、庶民が着るような服だった。


「リストの第一番、『下町のパンケーキ屋に行く』。それを叶えるための変装セットだ」

「へ、変装……」

「君のような有名人が、公爵令嬢の格好で下町の行列に並んでいたら、大騒ぎになるだろう?」


確かに、その通りだ。

私はおずおずと、生成り色のワンピースを手に取った。

こんなに素朴な服に袖を通すのは、生まれて初めてだった。


侍女に手伝ってもらい、着慣れない服に身を包む。

髪も、いつものような凝った結い上げではなく、後ろで一つに束ねただけ。

鏡に映った自分の姿は、まるで別人のようだった。


「……どう、だろうか」


不安になって尋ねると、アシュトン殿下は面白そうに私のことを上から下まで眺めた後、満足げに頷いた。


「ああ。悪くない。いつもの『氷の令嬢』より、よほど人間味があっていい」

「そ、それは褒めているのか……?」

「最高の賛辞のつもりだ。さあ、行こうか。パンケーキが君を待っている」


殿下に手を引かれ、私は使用人用の裏口から、こっそりと公爵邸を抜け出した。

馬車ではなく、徒歩で。

護衛の騎士たちは、少し離れたところから、気配を消して私たちを見守っている。


初めて歩く、王都の下町。

そこは、私の知っている世界とは全く違っていた。


石畳の道を行き交う、たくさんの人々。

威勢のいい商人の呼び声。

焼きたてのパンの香ばしい匂い。

子供たちのはしゃぐ笑い声。


全てが活気に満ちていて、生き生きとしている。

私のいた、静かで、息の詰まるような貴族の世界とは大違いだ。


「すごい……」


思わずこぼれた呟きに、隣を歩くアシュトン殿下は「そうだろう?」と笑った。


目的のパンケーキ屋さんは、すぐに見つかった。

甘くて香ばしい匂いが漂ってくる、小さくて可愛らしい店。

店の前には、すでに行列ができていた。


「わあ……」


行列に並ぶ、という行為すら、私にとっては初めての体験だ。

前の人の真似をして、おとなしく列の最後尾につく。

なんだか、それだけで胸がドキドキした。


「本当に嬉しそうだな、君は」

「……当たり前だ。ずっと、夢だったのだから」


アラン殿下との妃教育で、唯一の楽しみだったのが、侍女がこっそり差し入れてくれるゴシップ雑誌を読むことだった。

その雑誌に、この店のパンケーキが『天にも昇るような美味しさ』と紹介されていたのだ。

いつか、必ず食べに行こう。

そう、心に誓っていた。


やがて順番が来て、私たちは店内の小さなテーブル席に案内された。

私が注文したのはもちろん、雑誌に載っていた『ベリーと天使のクリームのふわふわパンケーキ』。


運ばれてきたそれを見た瞬間、私は息を呑んだ。


雪のように白いパンケーキが三段に重なり、その上には雲のような生クリームと、宝石のようにきらめくベリーがたっぷりとのっている。


「……いただきます」


震える手でフォークを手に取り、そっとパンケーキを一口大に切る。

口に入れた瞬間、私の世界は変わった。


ふわっ……と、とろけるような食感。

甘すぎない上品な生地と、ミルクの風味が豊かなクリーム。

ベリーの甘酸っぱさが、絶妙なアクセントになっている。


「…………おいしい」


自然と、涙がこぼれた。

公爵令嬢として、これまで世界中の高級な菓子を食べてきた。

でも、こんなに、心の底から「美味しい」と思ったのは初めてだった。


それは、ただのパンケーキの味ではなかった。

私がずっと焦がれてきた、『自由』の味がした。


「……っ、ふふっ」


ふと、向かい側から笑い声が聞こえて、我に返る。

見ると、アシュトン殿下が頬杖をつきながら、私のことを楽しそうに見ていた。


「な、なんだ……?」

「いや。まさかパンケーキを食べて泣く令嬢がいるとはな。君は本当に、俺の予想をことごとく超えてくる」

「う、うるさい! これは、その、目にゴミが……」


慌てて涙を拭い、誤魔化す。

顔が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。


「いいや、とてもいい顔だった」


アシュトン殿下は、アメジストの瞳を細めて、優しく微笑んだ。


「完璧な淑女の仮面を剥がした君が、どんな顔をするのか。それが見たかったんだ。……予想以上に、可愛らしい顔だったがな」


その言葉に、私の心臓が、とくん、と大きく跳ねた。

それは、婚約破棄を告げられた時とは全く違う種類の、甘くて、少しだけ苦しい痛みだった。


「さて、リリアンナ嬢」


パンケーキをすっかり平らげ、幸福なため息をつく私に、アシュトン殿下は尋ねた。


「リストの一番目は達成だ。次は、何がしたい?」


私は少しだけ照れながら、ずっと心に秘めていた二番目の願いを口にした。


「……恋愛小説が、読みたいです。誰にも邪魔されず、心ゆくまで」


私の答えに、アシュトン殿下は満足げに笑った。


「なるほど。それはいい。では次は、王都で一番大きな本屋に行くとしよう」


こうして、私のささやかな、けれどきらきらと輝く『自由』を探す冒険が、本格的に幕を開けたのだった。

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