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第一話

「リリアンナ・フォン・ヴァインベルク公爵令嬢! 本日をもって、貴様との婚約を破棄する!」


シャンデリアの光が降り注ぐ王宮の大広間に、アラン・フォン・クラインフェルト王太子の甲高い声が響き渡った。

周囲のざわめきが、ぴたりと止まる。

音楽も、人々の囁きも、グラスの触れ合う音さえも。まるで世界から音が消えてしまったかのようだ。


すべての視線が、私――リリアンナ・フォン・ヴァインベルクに突き刺さる。

同情、好奇、そして侮蔑。

色とりどりの感情の矢が、ドレスを貫いて肌に突き刺さるような錯覚に陥る。


私の目の前には、勝ち誇った顔のアラン殿下。

その隣には、これ以上ないほど幸せそうな笑みを浮かべ、殿下の腕にしなだれかかる一人の少女。


「セラ……」


私の義理の妹、セラ・フォン・ヴァインベルク。

男爵家から引き取られ、我が家の養女となった可憐な少女。庇護欲をそそる大きな瞳と、か細い声。誰もが彼女を守ってあげたいと思う、そんな存在。


「お姉様、ごめんなさい……。でも、アラン様との愛は、本物なのです」


潤んだ瞳で私を見上げるセラ。

その姿に、アラン殿下は「セラは悪くない!」とさらに声を荒らげた。


「全ては貴様のせいだ、リリアンナ! 貴様はいつも完璧で、淑女の鑑だと言われているが、その心は氷のように冷たい! いつも義務と責任ばかりで、真実の愛を理解しようともしなかった! それに引き換え、セラはなんて純粋で優しい心の持ち主か!」


ああ、またその言葉。

『氷の令嬢』『完璧すぎる女』『感情のない人形』。

物心ついた頃から、私はずっとそう言われ続けてきた。


公爵令嬢として。

未来の王太子妃として。

常に完璧であれ、と。


感情を表に出すことはしたない。

常に微笑みを絶やさず、国の利益を第一に考えなさい。

王太子殿下を影から支え、決してでしゃばってはならない。


父にも母にも、そして教育係にも、そう叩き込まれてきた。

それが私の人生であり、私の義務だったから。


私は背筋を伸ばし、貴族令嬢として完璧なカーテシーをしてみせる。

スカートの裾が、しずかに床に広がった。


「――アラン殿下のお言葉、謹んでお受けいたします。これまで、ありがとうございました」


悲しみも、怒りも、驚きも、一切見せない。

ただ、完璧な微笑みを顔に貼り付けて。


(………………っっっしゃあああああああああああ!!!!)


心の中で、私は特大のガッツポーズを天に突き上げていた。

脳内ではファンファーレが鳴り響き、色とりどりの紙吹雪が舞っている。


やった! やった! やったーーー!


ついに、ついにこの日が来た!

婚約破棄! なんて甘美な響き!


もう早朝から深夜まで、ぎちぎちに詰め込まれた妃教育を受けなくてもいい。

興味もない政治や経済の論文を、毎晩泣きながら読む必要もない。

アラン殿下の好みに合わせて、好きでもない色のドレスを着る必要もない。

そして何より、あの自己中心的で、自分のことしか考えていないマザコン王子の顔を毎日見なくて済むのだ!


自由だ! フリーーダーーーム!


表面上は、悲しみに耐える健気な令嬢を完璧に演じながら、私の心はサンバカーニバル状態だった。

ああ、早く家に帰りたい。

自室のベッドにダイブして、「やったー!」と叫びながら手足をバタバタさせたい。


「……ふん。最後までつまらない女だ」


アラン殿下は、私の完璧な対応が気に食わなかったらしい。

忌々しげに吐き捨てると、セラの肩を抱いて高らかに宣言した。


「皆に紹介しよう! 私の真実の愛、未来の王太子妃、セラ・フォン・クラインフェルトだ!」


その言葉に、会場は再び大きくどよめいた。

ヴァインベルク公爵家の養女が、実の姉から婚約者を奪った。スキャンダル以外の何物でもない。

だが、王太子がそう宣言してしまえば、誰も文句は言えない。


貴族たちは、戸惑いながらも新しい王太子妃候補に拍手を送り始めた。

パラパラと頼りない拍手だったけれど。


もう、ここに私の居場所はない。

私は誰にも気づかれないよう、静かにその場を辞した。


壁際の通路を、ドレスの裾をさばきながら静かに歩く。

誰も私に声をかけない。

誰も私を見ようとしない。

まるで、私が汚物か何かであるかのように。


それでいい。

むしろ好都合だ。


このまま穏便に、誰の記憶にも残らず消えてしまいたい。

これからの人生設計を考えなければ。


まずは、ずっと行きたかった下町のパンケーキ屋さんに並んでみよう。

それから、流行りの恋愛小説を一日中読んで過ごすのもいい。

ああ、そうだ。領地の経営に少し興味があったから、勉強してみるのもいいかもしれない。

父には反対されるだろうか?

いや、婚約破棄された傷物の娘だ。もう私に何も期待しないだろう。


そう思うと、笑みがこぼれそうになるのを必死で堪えた。

いけない、いけない。今は悲劇のヒロインを演じなければ。


夜風にあたろうと、人のいないバルコニーへと続く扉を開ける。

ひんやりとした空気が、火照った頬に心地よかった。


ふぅ、と一つ息をつく。

バルコニーには誰もいない。

月の光だけが、静かに大理石の床を照らしている。


よし。


私は周囲を素早く確認し、誰もいないことを確かめると、


(今度こそ……!)


ぎゅっ、と両手の拳を握りしめ、天に向かって力強く突き上げた。

声は出さない。

だけど、全身全霊で喜びを表現する。


心からの、渾身のガッツポーズ。


「――ぷっ、あはははは!」


その時だった。

背後から、押し殺したような笑い声が聞こえたのは。


「っ!?」


心臓が喉から飛び出るかと思った。

慌てて振り返ると、バルコニーの柱の影に、一人の男性が立っていた。

月の光を背にしていて顔はよく見えないが、上質な夜会服と、すらりとした長身は、彼がただ者ではないことを示している。


「失礼。あまりにも見事なガッツポーズだったものでね。つい」


男はくつくつと笑いながら、闇の中から一歩、踏み出した。

月明かりに照らされたその顔を見て、私は息を呑んだ。


艶のある黒髪。

星の光を閉じ込めたような、アメジストの瞳。

整いすぎた顔立ちは、まるで高名な彫刻家が作り上げた芸術品のようだ。


隣国であるアルトリア帝国の皇太子、アシュトン・リオン・アルトリア。

冷徹で、何を考えているかわからないと噂の、ポーカーフェイスの皇太子。


なぜ、この人がこんなところに?


「これは、アシュトン皇太子殿下……。ご挨拶が遅れ、申し訳ございません」


私は慌てて、完璧なカーテシーをとる。

内心は冷や汗だらだらだ。

よりにもよって、他国の皇太子に今の無様な姿を見られるなんて。

国際問題に発展したらどうしよう。


「ああ、いい。そんなに畏まらないでくれ、ヴァインベルク公爵令嬢」


アシュトン殿下は、面白そうに目を細めて私を見ている。

その紫の瞳は、全てを見透かしているかのようだ。


「……今の、ご覧になっていましたか」

「ああ。『本日をもって、貴様との婚約を破棄する!』という、前時代的な演劇のセリフから、君が静かに退場するところまで、全部」

「……お恥ずかしいところを」

「恥ずかしい? 何がだ?」


彼は心底不思議そうに首を傾げた。


「あの状況で、涙一つ見せず、完璧な淑女を演じきった対応は見事だった。そして、誰もいないところでは、婚約破棄を心の底から喜ぶ……。実に、痛快じゃないか」


「……っ」


「普通は泣くだろう? あるいは、相手の女の髪でも掴んで罵るとか。だが君は違った。悲劇のヒロインを演じながら、内心では自由を喜んでいる。こんなに面白い令嬢は、初めて見た」


アシュトン殿下は、楽しそうに笑い続けている。

冷徹だなんて噂は、どこの誰が流したのだろう。


私の頭は混乱していた。

馬鹿にされているのか?

それとも、ただ面白がっているだけ?


「さて、ヴァインベルク公爵令嬢。これから君はどうするんだ?」

「……どう、とは?」

「婚約もなくなった。これからは自由の身、だろう?」


その言葉に、私は思わず顔を上げた。

『自由』。

私が喉から手が出るほど欲しかった、その言葉。


「これからやりたいことは、山ほどあるんじゃないか? さっきのガッツポーズは、そういう顔をしていたぞ」


アメジストの瞳が、私をまっすぐに射抜く。

その瞳に見つめられていると、まるで心の奥底まで見透かされているような気分になる。


「……もし、そうなら、殿下には関係のないことですわ」


私は警戒心を露わに、そう言い放った。

これ以上、この人と関わるのは危険だ。

私の平穏なセカンドライフが、始まる前に壊されてしまう。


しかし、アシュトン殿下は私の返答に気を悪くした様子もなく、さらに面白い提案を口にした。


「関係なくはないさ。俺は、面白いことが好きなんでね」


彼は優雅に一礼すると、悪戯っぽく笑って言った。


「どうだろう? その君の『自由』、俺がプロデュースしてやる、というのは」

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