一位になったら王太子殿下に求婚されましたが、誤解です
お読みいただきありがとうございます。
作中に嫌な人物が出てきますが、明確なざまぁ等はありません。ご了承ください。
わたくしを語る時、いつも始まりは同じだと思う。
――小さい頃の、卑しい話です。
九歳の頃開かれた初夏のガーデンパーティー。木の葉から差した光に目を細めた。
なんてことはない。喋る人がおらず暇なだけだ。
周りの令嬢たちは既にコミュニティを築いているのか、わたくしと同じぼっちの子はいない。花に負けない色とりどりのドレスを纏う彼女たち。もしかしたら草色のわたくしは見えてないのかも。
髪だってくすんだ金髪みたいだものね。地味よね、分かる分かる。
でも心は凪いでいた。家に帰ればこんな草を慕ってくれる可愛い妹がいるし、今は美味しそうなお菓子が並べられている。
歯を立てればほろほろ崩れてしまいそうな厚切りのクッキー。レモンの香りを震わすマドレーヌ。わたくしの好みに誂えて貰ったみたいだと笑い、あ、このフィナンシェは妹の好みっぽいと目をつける。
最後の一個。ケーキスタンドに佇むフィナンシェを手に取り自身の皿の上に置く。五歳の妹の、行かないでとしがみつき懇願する姿は可哀想だけど、それでいて愛らしさもあった。
もう少し人の目が薄くなったらハンカチに包んで持ち帰ってあげよう。機嫌も直してくれるかも。
淡い期待を乗せたフィナンシェ。
そんな期待の星は、隣のご令嬢にかすめ取られた。
「え」
今、取られた? 令嬢は口をつけたモン勝ち、と言いたげに頬張っている。
そう言えば、さっきからフィナンシェばっかり食べていた気もする。お気に入りだったのかあ……。
言葉をのみ込んだ。くぅ。喉から変な音が出る。
わたくしのだったのに。正しくは妹に渡るものだけど、令嬢のものではないことは確か。
――この頃に、執着という単語は形を成したのだろう。
それを助長させたのは妹だ。妹――コリンヌはわたくしのものをよく奪っていった。
信じられないでしょう? 昔はお姉ちゃんお姉ちゃんと言ってついてきたあの子が。
最初は萌黄色のリボン。蝶々結びの髪飾りを、きらきらした目でコリンヌは見つめた。
「お姉ちゃん、その髪飾りとっても可愛いね」
そうでしょ。返事はそれだった気がする。もうよく覚えていない。お母様が妹に譲りなさいと怒鳴りつけてきたから、細かいことは忘れてしまった。
嫌だと拒否すれば、扇子で頬を打ち据えられる。震える手でコリンヌに渡せば、一転頬を緩めコリンヌの頭を撫でた。
それは、長い悪夢の始まりだった。
可愛いものを身に着ければ、すぐにコリンヌに譲るよう言われた。昔、気の弱いけど優しいお父様に強請ったブローチ。亡き大叔母様が刺してくれたハンカチ。全てがわたくしの手からコリンヌの手へ移っていく。
分からなかった。どうして取られていくのか。
なにもかも奪われた日に鏡が写した姿に、答えはあった。
わたくしの顔は圧倒的に足らなかった。顔は凹凸が少なく目は細い。肌も特別白いわけではなく薄っすらそばかすまで散り、加えてまとまりのない髪はくすんでいる。
窓に寄って、庭を歩くコリンヌを見下ろす。お互いがお互いに近寄らなくなって、自然と距離が離れた。コリンヌに最初避けられた時は胸が張り裂けてしまいそうだったけど、今なら分かる。
侍女と共に散策するコリンヌはとても美しかった。小ぶりの鼻と大きな瞳が目を引き、次いで純白の肌にため息が漏れる。髪は金色に艶々と輝きウェーブを描いていた。
そりゃこんな姉と話したくもなくなるよね。きっと今までの時間は、コリンヌが自分の容姿の端麗さに気づくまでの神様からの贈り物だった。
お母様は早々にコリンヌの美しさとわたくしの足らなさを見抜いたのだと思う。
「……あはは」
乾いた声が漏れた。
暗い部屋に、音は吸い込まれていった。
◇◇◇
「オデット様、やはり凄いですね」
「ええ。本当に憧れてしまいます」
わたくしは十七歳になった。学園に入学して二年とも経てば環境にも慣れてくる。寮に入っているためお母様やコリンヌを気にすることもなく、健やかな毎日だ。
「いえいえ、まだまだ精進の身ですわ」
ついと、中間試験の結果が張り出された壁を見上げる。
華々しい飾りが付けられた一位の座には、いつも王太子殿下の名前が鎮座し。『二位 オデット・リンサイグ』に飾りが影を落としている。
今回こそは、期待に胸を躍らせたが無理だった。四百九十八点とか、むしろなにを間違えたのだろう。許されるなら肩を掴んで問い詰めたい。
試験の結果を見に行く時だけ傍に来るご令嬢たちは、順位が上がったのか手を取り合っている。
まあ、順位が上がったの嬉しい半分、わたくしが二位なことが嬉しい半分だとは思うが。
幼い頃から勉学に秀で、武芸をも得意とした王太子殿下には、とある噂があった。
――王太子殿下を負かし、一位になった者は彼と結婚できる。
男だったらどうする。男同士で結婚するのか、子供はどうする。
頭をもたげた当然の疑問は、他の者たちにはないらしい。夢見る少年少女たちって凄い。
もうここにいても意味はない。
試験の結果を見る人たちから離れ、図書室に足を向けた。
先客は王太子殿下だった。二位のわたくしがあくせくと結果を見に行っている間にも、彼は勉強をしているらしい。これが勝てない所以だろうか。
「やあリンサイグ嬢」
「こんにちは、殿下」
深い赤色の髪を持つ王太子殿下の笑顔は眩しい。天は三物まで彼に与えたというのか。
……わたくしのような死屍累々上に、彼の完璧さは積み上がっているのかもしれない。諦念に近い自虐を俯きで隠し、席に座った。
教科書を開きながらも、つい王太子殿下を盗み見てしまう。
彼の教科書はくたびれ、なにやらメモまで書かれている。王太子としての公務も行いながら一位を取り続ける努力はいかようか。
王太子殿下に与えられたのは確かに一つだけかも、わたくしは考えを改めた。
硝子ペンを手に取ってみたが、気分が落ち着かない。あれだけ頑張ったのにまた二位だったからだろう。今度こそは、と踏んでいたのに。
気分転換にと本棚に近づく。
本の背を指で辿り、一冊の本に心を奪われる。
「む……」
手を伸ばす。本自体には触れてるものの、引き抜くことが出来ない。
精一杯背伸びし、痛みを訴える首を無視しながら手を伸ばし続けると、影が覆い被さった。
わたくしが苦労した本が軽やかに引き抜かれる。
「はい、どうぞ?」
「……ありがとうございます」
胸に本を抱えながらお礼を言えば、朝焼けの瞳が緩んだ。
本棚に手をつき、わたくしを閉じ込めた彼はいつもと変わらず眩しい笑顔。
にこにこ。わたくしも応戦する。
にこにこ。にこにこ。
先に白旗を上げたのはわたくしだった。
「なにかご用でしょうか? 男女としてこの距離は些か不適切ですわ」
苦言を呈すれば、おどけたように体を離される。
視線だけはまだ注がれている。
「リンサイグ嬢は、よく頑張っているな」
「……ありがとうございます?」
意味を掴みきれず首を傾げる。
「だがどうして、一位を目指しているんだ?」
「…………」
女は学をつけるな。そう教えられ、学園の女生徒たちも遊び呆ける中。勉学に打ち込むわたくしはさぞ奇っ怪に映るのだろう。
「勉強をし、嫌がる婚約者がわたくしにおりません」
お母様はコリンヌの婚約者探しに躍起になっている。あの分では、リンサイグ侯爵家を継ぐのはコリンヌで、わたくしはどこか適当なところへ嫁がされるかもしれない。
「それにですね」
声をひそめてしまった。
王太子殿下が、ん? と耳を寄せる。
「試験の順位には、誰の思惑も働きません。わたくしが頑張れば、その地位は誰にも奪われないですから」
学園で裏金が横行した時代。国王陛下が取り決めたと聞いた。
何人たりとも、学問の前では誰もが平等に学びの徒である。
素敵な響き。毎朝復唱するくらい素敵な言葉。
「……そうか」
何事もなかったように自席に戻る王太子殿下に闘志を燃やし、次こそは! と拳を握った。
――そして。
夏の盛りに行われた期末試験。わたくしは一位だった。
「凄い凄い凄いですわ!」
「遂に努力が実を結ばれましたのね!」
「オデット様、おめでとうございます!」
大コーフンを体現した彼女たちとは対照的に、わたくしは冷静だった。
それもそうだ。だって王太子殿下は、試験を全て受けていない。途中で熱を出し倒れられたと聞く。
十三位の所に書かれた王太子殿下の名前。
実力で勝てなかったという事実に深いため息が漏れる。
「オデット様。気持ちは分かりますが、まずは一位を純粋に喜びましょう? 運も実力ですわ」
とはアリス様の言葉だ。
「そうですよ。王太子殿下を負かしたことに相違ありません。オデット様の体力の勝利です」
少々アグレッシブなカトリーヌ様に曖昧に微笑む。
リディ様は優しい眼差しだ。
慰められ余計に居心地が悪くなっていると、人波が轟いた。
わたくしも轟く。王太子殿下が歩いてきているからだ。
まっすぐこちらに向かって来ていて、自意識過剰でなければすっごく見られている気がする。
「リンサイグ嬢」
王太子殿下がわたくしの目の前で足を止めた。自意識過剰ではなかったようだ。
何用で? お前実力で勝ってないクセに調子のるな、とか言われる? 武力に身を委ねられる?
ぎゅっと体を縮めたが、振ってきたのは拳ではなく称賛の言葉だった。
「リンサイグ嬢、一位おめでとう」
「……は、はい」
彼はそのまま、跪いた。
まるで王子様のようだと、回らない頭でぼんやり思う。
美しい微笑みに、今日は違う色が乗っている気がした。
「俺と、結婚してくれ」
「え、誤解です」
わたくしの言葉は、周りのどよめきで掻き消された。
◇◇◇
噂が本当だったなんて。呻くオデットを置き、話は着々と進んでいく。
とりあえず婚約者で、そう言われたが婚約者になるだなんて結婚一直線だろう。もう一度呻いてしまった。
王太子殿下にわたくしが一位を取りたかった理由をこんこんと説明し直したが、首を傾けるしかない。
「この結婚は俺が望んだ。俺との結婚は嫌か? 無理強いはしないよ」
神から与えられた顔が憎い。
じゃあ、とアリス様カトリーヌ様リディ様を筆頭に数多のご令嬢たちに、ぶっちゃけこんな奴が王太子殿下と結婚とか嫌でしょ? 遠回しに聞いてみたが良い笑顔で首を横に振られた。
そのままオデット様がいかに国母に相応しいかの演説を一時間みっちり聞かされた。
何故。絶対反対だと思っていたのに。酷い。
まだ朝早い時間。自室で椅子の背に体重をかける。
はあ。リンサイグ侯爵家から来た手紙を読むだけで疲れてしまった。
お母様直筆のお手紙は、王太子殿下に釣り合うのはコリンヌなのに……何故貴女が……等々怨嗟が丹念に綴られている。この反応を望んでいた筈だが、いざ向けられるとやはり疲れる。
気分転換とカーテンを開ける。朝日が照りつけ、部屋に光を吹き込んだ。
「……あと数日」
期末試験が終わればすぐに夏季休暇に入る。寮に留まる訳にもいかないので帰るが、憂鬱で仕方ない。
去年はコリンヌへのお土産がないことを責められ、髪を引っ張られぶたれた。
コリンヌには帰って来なければ良いのにと真顔で言われた。わたくしの髪に刺していた、飾り気のない簡素なかんざしを引き抜いてからは、もう興味を失くしたのか話すこともなくなった。
お父様はわたくしを案じてはいるけど、それだけ。お母様に怯えて助けてはくれない。
身を震わせた。
小鳥の囀りが耳をつく。顔を上げ、手紙を片した。学校に行く時間だ。
「リンサイグ……いやオデットと呼んでもいいかな?」
教室までやって来た王太子殿下は、きらきらとした目で問いかけた。
「お好きになさってください」
わざわざ許可を取るほどのものでもないのに、律儀な人だ。
耳と尻尾の幻覚を見せる王太子殿下は、何度もわたくしの名を呼んだ。
「そう何度も呼ばれては、恥ずかしいですわ殿下」
「……オデット。俺のことも名前で呼んでくれ」
不意を突かれて。
ああ、婚約を結ぶとはこういうことかとようやく実感が湧いた。
「かしこまりました、フェリクス様」
「うん、そう呼ばれる方が好きだ。――それで、今日は暇か?」
はい。脳内のスケジュール帳をめくり答えれば、では俺に付き合ってくれ。快活に笑うフェリクス様は、とても楽しそうだった。
放課後。授業は午前で終わり、フェリクス様に手を引かれる。
王太子殿下専用の馬車は、我が家のなど目も当てられない程柔らかかった。バランスを崩しフェリクス様に抱きとめられる。
「……大丈夫デスカ」
「――なぜ、敬語?」
「気にしないでください」
気になる。
顔が赤いフェリクス様が不思議でジロジロ眺めていたが、わたくしは外の景色に目を奪われた。
「まあ、王城」
ついた途端、軽々と抱きかかえられる。
「目つむってて」
「降ろしてください」
「いいからいいから」
よくない。非常によくない。
暴れてみるがさすがは文武両道。文に全振りのわたくしじゃ敵わない。
諦めてまぶたを閉じる。
ゆらゆら。ゆーらゆら。
心地よい揺れに、とろとろ眠気が誘われる。王城の中は外より涼しいのも理由の一つかもしれない。涼しさとフェリクス様の体温、素晴らしい。
「――オデット、ついたよ」
まだ寝たい。もぞりと身を寄せる。
「オデット、オデット?」
「……はっ。失礼しました」
ソファに下ろされ、居住まいを正す。とりなすように咳払いすれば、眉尻を下げたフェリクス様が隣に腰を下ろした。
「オデット、もしかして試験期間中ちゃんと寝れてなかった?」
「……規則正しい生活が脳の働きにも有効なことは理解しています」
だけど布団に潜れば、公式や単語が頭をかき混ぜてくる。どうしようもなくなり這い出て硝子ペンを手に取り、気づけば朝なこともあった。
「あともう一歩頑張れば、一位になれたかもしれない。怖いのです、できたはずの努力を、怠ったのではないかと」
「すごく、頑張り屋さんなんだな」
頑張り屋さん。可愛らしい単語にきょとりとしてしまった。フェリクス様がわたくしの頬を撫でる。
「だが、未来はどうなるかなんて分からないんだ。自分を信じて寝てあげることも、俺は大事だと思うよ」
「自分を信じる……」
難しい話だ。
「うーん、自分を信じる、自分を信じる……」
ふはっ。吹き出す彼が恨めしい。
「オデット。俺は一位だけが全てだと思わないよ」
完全に首を傾げてしまった。一位だけが全てではない?
呻くわたくしをまた笑い、さてと呟いた。
「悩むことも大事だけど、今も楽しもう、オデット」
導かれ辺りを見渡せば、本の壁がそびえ立っていた。
「ここは、まさか王書庫……っ」
一握りの人間しか入れないとされる、この国で発行された全ての本が収納された書庫。何度も夢想した光景に、頬が熱くなる。
どうしてさっきまで気づかなかったのだろう。んもう! 自分に怒りが湧いてくる。
「これは、絶版された……っ。ああ、こっちは王書庫にしかないとされる!」
興奮しっぱなしで本を読み始める。
フェリクス様は優しい眼差しでわたくしを見てから、自身も本を開いた。
――最後の一行。夕日の粒が乗った本を、ぱたんと閉じる。
ほぉ……。緩んだ口から息が漏れた。
素晴らしい本だった。最後まで決して色褪せることなく魅了された。誰だ絶版を許可した人。今度会ったらとくと魅力を語ってやる。
空想の世界から舞い戻ってきて、隣に座る彼が恋愛本を読んでいることに気がついた。
「お好きなんですか? 恋愛本」
「ん? そうだね、嗜むくらいだけど」
冒険譚などが好きであまり恋愛本は読まないため、上手い返しなどできる筈もなく。
「そうなんですね」
「だからか、少し感化されたなと思うことがあるよ」
茜の光が一際強くなり夜の訪れを告げられる。
薄暗くなった書庫。朝焼けの瞳だけがくっきりと様相を呈している。
瞳に手を伸ばそうとして。本当に触れたいのはそれではない気がして手を引っ込めた。
感化された。考えあぐねているわたくしに手を伸ばし、帰ろうかと一言。
「送っていくよ」
この婚約は、きっとすぐ解消されるだろうと踏んでいた。わたくしには魅力などない。
変な噂が成してしまっただけの、変なお伽噺だと。
差し出された手を取る。
ずっと、こうしたかった気がした。
――一体誰と?
◇◇◇
この時期は憂鬱だ。
ジリジリと遠慮なく照りつける太陽にため息をつく。
終業式を終え、生徒は皆馬車に乗って領地へと帰っていく。わたくしもその一人だ。
「オデット様。また始業式でお会いしましょうね」
「ええ、ごきげんよう」
アリス様に手を振り、彼女を乗せた馬車を見送る。
「オデット様!」
リディ様に手を取られ目をしばたたかせた。
「なんでしょう」
「我が領地は美味しいものがいっぱいありますの。学園が始まったら、クッキーを渡しますわね」
「ありがとうございます」
お礼を言えば、カトリーヌ様が焦ったように手を挙げた。
「わ、我が領地では熊が狩れますの! 毛皮をプレゼントしますわ!」
謹んで辞退願いたい。
熊は丁重にお断りし、二人を見送る。
ようやく我が家の馬車も来た。席に座って、帽子を取る。世間体を気にする両親はきちんと『侯爵令嬢が乗っていておかしくない馬車』を寄越してくれた。来なかったらどうしようと震えていたから嬉しい。
一人きりの馬車は、少しの乗り心地悪さを感じる。座る場所が固いせいかもしれない。
帰ってきたわたくしを出迎えたのは、数人の侍女とコリンヌだった。
いるとは思わんかったわ。でも手間は省けたから丁度いい。
「これ、王都で人気の宝飾店で買った髪飾りよ」
ガラス細工でできた桃色の小花は、さぞコリンヌに映えるだろう。
真っ白な手でそれを受け取った彼女は唇を尖らせ不満げだ。むっつりと黙っているコリンヌの考えていることは、よく分からない。
「大丈夫よ、コリンヌ。王太子殿下も、貴女を好きになるから。だから、大丈夫よ」
声とは、喉が震え出ているらしい。わたくしは上手く震わせているだろうか?
さっとコリンヌの顔が赤くなる。あ。言葉選びを間違えたんだな。
目を伏せる。
「お姉様って、本当に、」
侍女を一人引き連れ去っていく。侍女の顔を見て、昔よくお世話をしてくれた彼女だとふと考えた。
気遣わしげな視線が、妙に痛かった。
晩餐時。お母様たちのと比べ明らかにグレードが低いご飯を口に運ぶ。うん、美味しい。
血が滴るステーキを切り分けたお母様は、真っ赤な唇を開けた。
「ねえ。王太子殿下にコリンヌを婚約者に推薦する手紙を書きなさい」
「……はい?」
魔女は眉を顰めた。
「聞こえなかった? 王太子殿下の婚約者には、コリンヌが相応しいと言っているのよ」
どうして喉が渇くのだろう。この命令に対する模範解答は一つなのに。
「――そのようなことが、まかり通るとは思えません。お父様だって、そうですよね?」
話をずらす。
肉をもそもそ食べていたお父様とは、今日初めて顔を合わせた。罪悪感に塗れた顔に唇がひくつく。
どうしてお父様が、そんな顔をするのか。
「あ、あー、そうだな」
「あなた。まさか反対だなんて言いませんわよね? 私がずっとコリンヌの結婚相手を探していたことを知っているでしょう。運命なのです。コリンヌが王太子殿下と出会うための、オデットなのです。ねえ、分かりますでしょう?」
「う、ん。そうだな……」
僅かに上がっていた語尾が、終わりには下がっていた。白旗ふりふりするお父様に心が冷えていく。
「コリンヌも、王太子殿下が良いわよね」
「私には恐れ多い方です」
「まあ! そんなに謙遜しなくても」
猫撫で声でコリンヌに話しかけるお母様。
コリンヌはペーパーナプキンで口を拭いている。
「ごちそうさまでした」
戦線離脱。コリンヌは帰っていく。
わたくしにお母様は不機嫌そうな顔を向けた。
「そういうことよ、分かったわね? ……それとも、また叩かれたいの?」
「……いいえ」
「オデット! この手紙はどういうことだ!」
あの会話から三日目の朝。玄関の方が騒がしいと思い行ってみれば、髪がボサボサのフェリクス様が手紙を掲げている。
騎士並びに使用人は対応に困っていて、わたくしが現れるとあからさまにホッとした顔をした。
「なにって、そこに書かれている通りです」
「そういうことが聞きたいんじゃない」
水掛け論を続ける。
お父様やお母様も騒ぎに気づき、やって来た。
「殿下、朝早くからどうなさったのでしょう」
「コリンヌに会いに来たに決まってますでしょう! さ、殿下。コリンヌを今呼びますわ」
いやらしい笑みのお母様に案内されたフェリクス様は、がんとして動こうとしない。
「……あの、殿下?」
「リンサイグ夫人は酷い勘違いをしているようだが、俺が会いに来たのはオデットだ」
表情が抜け落ちる。
「本気で、オデットを?」
「そうだと言っている。逆に夫人はどうして、そこまでオデットをこき下ろす。大切な娘の一人だろう」
寄る辺のない体を抱きしめた。
瞳にお母様が炎を宿す。
「こんな醜い子を娘ですって? 確かに昔は平等に愛そうとも思いました。ですが、年々浮き彫りになっていくのですよ、醜い容姿が! 可愛いコリンヌの方を大切にしてなにが悪いと言うのですか!」
フェリクス様が刹那、気遣わしげな顔をした。逃れ、顔を背ける。
顔を見られたら泣いてしまいそうだった。
「それにオデットは意地も悪いんですよ! コリンヌが欲しがったものをあげず、見せつけて! 底意地の悪い子を愛せるわけありませんわ!」
ヒートアップするお母様。対してフェリクス様は静かだ。
「俺はそうは思わない」
わたくしの腰を抱いて、フェリクス様が宣言した。
「ひたむきに努力を続け誰にでも優しいオデットが、俺の婚約者だ。他には要らない」
そのまま連れて行かれる。どこに行くんですか。こんな所に君を置いていけない、王城で身柄は預からせて貰う。なんだか罪人の気分です。しやすくなった息を軽やかに扱いながら軽口をたたく。
視線を感じた。コリンヌが階段の上からわたくしを見ている。唇を噛む姿は、泣きそうにも見えた。
「手紙が来た時から決めていた」
「なにを?」
「君を攫うことを」
早馬で駆けてきたらしいフェリクス様は、後から追いついた馬車にわたくしを乗せる。自らも乗り扉を閉めた。
「攫うだなんて、まるでお姫様みたいですわね」
「さながら俺は魔王か? それとも駆け落ちする騎士?」
「うふふ」
いつもみたいに笑って。
笑えなくなった。
「――わたくしに、そこまでの価値があるでしょうか?」
鏡を見た日。納得してしまった。こんな醜い女が愛されるわけないと。
お母様が厳しいのも、コリンヌがものを奪うのも、お父様が庇ってくれないのも当然だと思った。
「わたくしには、美貌もユーモアもありません。勉強だって、得意なのは女性としては必要ない知識ばかり。フェリクス様だって、いつか必ずわたくしの足らなさに気づきますわ」
神様からの贈り物が、貴方を惑わせているだけ。いつか解けるだろう。例えば、お姫様からのきすとかで。
「……オデットは、いつも自信がないね」
よっこいせ、向かい側に座っていたフェリクス様がわたくしの横に来る。
「自信がないのではなく、事実ですわ」
「いいや。勉強に呑まれて眠ることさえままならない君が、自信のなさを証明している」
そうなのかも。ぐうの音も出ない。
「多分、自分の居場所なんてどこにもないとか、あってもすぐになくなってしまうと思ってるだろう」
コリンヌと仲違いしたように。
「それは違う。たとえオデットがどこに行っても、俺の心には君が座る椅子がちゃんと用意されてる」
「椅子……」
意味は完全には測れなかった。だけど、わたくしの居場所があるのなら……
僅かに顎を引く。
「……そうであるなら、とても嬉しいです」
◇◇◇
程なくして、王宮についた。
「夏の間は、王宮で過ごせば良い。必要なものは後で取りに行かせよう」
「ありがとうございます」
執務室のソファー。いつも公務に励んでいるフェリクス様を思い浮かべながら人心地ついていると、なにやら侍従に耳打ちされたようであった。
苦い顔で頷いている。
「オデット。父上と母上が君に会いたいと言ってるんだ。その、嫌じゃなければだが……」
「はい。ぜひ、ご挨拶させてください」
令嬢としての側面がひょっこり顔をだす。礼を尽くさねば、闘志に燃えた。
王宮侍女たちに身なりを整えてもらい、深呼吸をする。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ」
笑う彼が少々恨めしい。
手を取られ、エスコートされる。
「さ、行こうか」
「はい」
国王陛下と王妃様は民に心を砕いてくださる良き為政者だ。開口一番ネチネチされることはないだろう。
「はじめまして、ずっとお話してみたかったのよ。本当に可愛い。うちには男の子しかいないから娘が欲しかったの。オデットと呼んでもいい?」
「こらこら、そう畳み掛けては戸惑ってしまうだろう」
…………。すごくフレンドリー。すごく友好的。
「はい、お好きにお呼びください」
「嬉しいわ。私のことはお義母様とでも呼んでねオデット」
「僕のことも気軽にお義父さんって呼んでいいからね」
「ありがとうございます」
戸惑っていると手を引かれる。
「さ、挨拶はここまでにして行こうか」
急いでいるのか腕を強く引かれる。
あらあら。楽しそうにお義母様が口元に手を当てた。
「どうしたのですか、フェリクス様」
「私たちに種明かしされるのが嫌なのよ」
うぐと言葉に詰まっている。種明かし? 顔をのぞくが逸らされた。
「だがフェリクス。今後の関係の構築のためにはしっかり話したほうがいいぞ」
「一体、なんの話をしていらっしゃるのですか?」
それは。えっと。ゴニョゴニョしたフェリクス様だったが、意を決し顔を上げた。僅かに赤らんでいる。
「――噂に踊らされているのは俺だった、ということだよ」
はにかむ彼に事の顛末を聞いたのは、それからすぐのこと。
わたくしの部屋として調えられた部屋の窓枠に手をついて、懐かしみながら話しだした。
君は勉強に集中していたけど、俺は何度も君を見ていたんだよ。
じっと耳を傾ける。考えれば、図書室には定位置があった。眼鏡をかけ髪をぴっちりまとめた男子生徒は窓際に。本が好きなのか本棚に一番近い席には栗色の髪を持つ女子生徒。
定位置は初め、本棚から一番遠い席だった。理由は単純で、表紙が目に入るだけで物語を想像して手につかなくなってしまうから。栗色の女子生徒とは真反対の理由だろう。
秋が深まった、葉が落ちる季節だったと思う。その日は他の自習室の監督の先生がおらず使えなかったとかなんとか。図書室には人が溢れかえっていた。
定位置が見事埋まっていて、辺りを見渡す。声をかけられた。
「リンサイグ嬢。ここなら空いているよ」
普段お話することもない天上の人が、友好的に手を振った。四人を想定した机は、フェリクス様以外空いている。王太子パワーで誰も近づなかったのだろう。ありがたく斜め前に座り、教科書を開く。
不思議だった。周りには大勢の人がいるのに、世界に二人だけと錯覚したから。
それから定位置は変わった。
思えばあの時から、きっとフェリクス様はわたくしを見ていたのだろう。
「元々一位をとったら俺と結婚できる、というのは父上と母上が流した噂だ」
「そうなのですか?」
「この国は勉学に励む女性が蔑視される。意識改善の一環だったんだ」
納得した。王太子殿下と結婚できるかもしれない、光明なる理由があればむしろ励むことは推奨される。
思えば、成績上位者五十人が張り出される成績表に、チラチラと女子生徒の名が上がり始めていた。効果は正しく作用したのだろう。
「……それで、俺は、君が努力を続けるのは、俺のことが好きなのではと勘違い、したんだ……」
消え入りそうな声。かなり恥ずかしいらしい。
「なるほど。まったくもって誤解ですね」
「だよな……」
徹頭徹尾否定する。知ってる、最初に君が頑張る理由を知った時は頭が真っ白になった。
本当に消えてしまいそうだ。
「手を抜くことはオデットに対する侮辱だからしないが、早く一位になってくれとよく祈ったよ」
「無茶言いますね」
四百九十八点の超え方は五百点しかないではないか。
「……好きだと思ったのは、つい最近だと思う。普段は結果なんて見に行かないけど、偶然見に行った十六歳の冬の日。凛とした振る舞いで自分の順位を謙遜するオデットがいた。その後泣き言も漏らさず図書室で勉強しただろう? ――支え合うなら、こんな子がいいと思ったんだ」
月のように周りを俯瞰し、時に太陽のように先導する。支えるのではなく、支えられるのではなく。隣にいたり前にいたり後ろにいてくれる人。
「あまりにも王太子として毒された考えだが、やっぱり君に恋に落ちたんだと思う」
一滴。波紋が広がる。水の輪を追いかけ、視界が開けていく。
世界とは、こんなにも広かったのか。
◇◇◇
夏季休暇を終え最初の試験。リディ様がまあまあと眉根を下げる。
わたくしは当然というべきか、二位に戻っていた。分からない所の解説などで理解は深まったと思っていたが、まだ及ばないらしい。
「大丈夫ですわ、オデット様。一度勝てましたもの。二度目だってすぐですわ」
「はい! 次は王太子殿下といえどけちょんけちょんですわよ」
それはちょっと不敬。
「ありがとうございます」
薄く笑っていつものように去ろうとした。視線が一点に留まる。
「……アリス様のお名前が」
四十七位に記されていた。
「私も遂に努力が実を結びましたの! オデット様のお陰ですわ」
「わ、私だって六十二位ですわ。大躍進ですのよ」
張り合うカトリーヌ様を、リディ様が宥める。
「……皆さん」
「――私たち、オデット様に憧れましたの。覚えていらっしゃいますか? 私が男子生徒に絡まれた時、オデット様が冷静に諭してくれたことを」
覚えがあった。あれはアリス様だったのかとぼんやり考える。
「学を身に着ける理由を知りました。だから私も、そしてカトリーヌとリディも勉強に励むようになりましたの」
カトリーヌ様が口元をニヤつかせる。
「私の婚約者に、つい最近経営についての相談をされたんです。拙いことしか言えませんでしたが、婚約者の顔が明るくなって……それがすごく嬉しかったですわ! 今までは、力になれないことが多くて歯がゆかったですから」
私も私も。指さしながらリディ様が笑う。
「お茶会で、夫人たちに可愛がって貰えることが多くなりました。嬉しいですわ」
「他にも感化された令嬢は多いですわ。オデット様はこの学園中の令嬢の希望の星です。一位を今回は取れるかと固唾を呑んで見守った日々が懐かしいです」
和気あいあいと話す彼女たちに、一抹の疑問がわき上がった。
「王太子殿下には、興味ありませんの?」
三人仲良く口を揃える。
「「「オデット様以上の人はいません」」」
勘違いをしていたようで、恥ずかしくなる。もっと早く、ちゃんと話せば良かった。
「あら、ではどうして試験の結果を見に行く時だけ傍に来るのですか?」
それ以外は夏季休暇が始まる時くらい。てっきり普段はあまり話したくはないのかと思っていた。わたくし面白くないし。
「ためらってしまったのです。本当は、お喋りしたかったですけど」
「……わたくしも、本当はもっと、仲良くしたかったです」
瞳を輝かせた三人。アリス様が頬を赤らめる。
「……その、オデット様。この後ご予定はありますか?」
「いいえ、特にありません」
「でしたら、分からない問題があったので是非教えていただきたいです」
頷く。四人で図書室へ向かう。いつもより多い足音が心地よい。
カトリーヌ様がしみじみと、
「三人で試験後は間違い直しをするのですが、いつもオデット様を誘うか悩んだのです」
「失礼かな、と思うと中々言い出せなかったんですよね」
図書室で額を突き合わせるように座る。
真剣な面持ちの三人と話しながら、これが座る場所はあるということかなと笑みが溢れた。
離れた席でフェリクス様が温かく見守っている。
夏の盛りを過ぎた、頬を撫でる風が気持ちいい午後のことだ。
それから一年がたった。
十八歳になり、結婚式に向けた準備も着々と進んでいる。
「どの色のリボンにしましょう……」
結婚式。王太子殿下となれば招待される貴族の数も多くなる。混乱を防ぐ為に、結婚式のチャペルチェアの背に招待状と同じリボンをつけておくのが習わしだ。
「フェルス男爵家は沿岸部にそった領地だから、ライトブルーとかが良いでしょうか?」
「そうだな。それで、リンサイグ侯爵家のはどうする?」
答えに詰まった。事前に送った手紙には行かないと返ってきている。
「――世間体を気にするので最終的には来そうですが、リボンは必要ないでしょう」
「そうか」
アトレスト子爵家は果物で栄えている。桃色か? 話題を流す問い。頷こうとしたが、波打つ金髪に思考が止まる。
呼び声に立ち止まり、小さな体を抱きしめた。淡い桃色のリボンを揺らす幼い少女は、ニパと笑う。お揃いが良いとごねた彼女は、わたくしと同じリボンを直しながら、手を繋いだ。
小さくて柔らかい手。日向水と同じ温かさ。甘えたな子だからわたくしの体に身を寄せて、庭を歩く。
もう、歩きづらいわ。えー、いいでしょ、くっついた方があったかいもん。
お姉ちゃん!
「――オデット!」
意識が引きずり戻される。
眼前には顔が険しいフェリクス様がいた。
「すみません。ぼんやりしていました」
「いやそれはいいが。顔色が悪い、大丈夫か」
「はい」
「……それで、桃色のリボンだが」
「違う色に、したいです」
握りしめた手が白くなる。
「お願いします」
「ああ、勿論」
目を閉じた。
飾り気のないチャペルチェアの横に、桃色のリボンを飾ることにした。
◇◇◇
今年の冬は、一際冷え込んだ。
そろそろ学園も卒業する。わたくしは王家に嫁ぐから、どんどんリンサイグ侯爵家と希薄になっていくのだろう。
さよならの近い自室でペンダントを指の腹で転がす。朝焼けの宝石が嵌ったそれは、フェリクス様から貰ったものだ。
「オデット、今日誕生日だろう」
自身の誕生日など久しく思い出さなかった。首に付けられたペンダントを指でつまむ。
「誕生日プレゼントなんて、久しぶりに貰いました……」
「そうか。あと百年は渡すから、来年も楽しみにしてくれ」
百年後まで生きていたら、即ち化け物の域だろう。
てことは、死ぬまで貰えるということで。
ペンダントを箱の中に戻し、窓に目をやる。一晩中降り続いた雪はやみ、朝日に照らされ銀に輝いていた。ふるりとショールを抱き寄せる。一日がまた始まった。
呼び出されたのは、雪が解け始めた午後だった。
「先生」
「リンサイグ嬢」
普段朗らかに笑う先生の顔が萎んでいる。言いづらそうに、唇を湿せた。
「あのね――」
コリンヌが階段から落ちた。お母様に突き落とされて。未だ目を覚まさないらしい。
お母様は離縁され、実家に帰されたと聞く。
わたくしは、様子を見るために家に帰ることにした。
「フェリクス様」
「事情は聞いている。あまり無理はしないように」
「……わたくしと一緒に、行ってはくださいませんか」
目は凪いでいる。静かに問いかけられる。
「無論嬉しい誘いだが、理由は?」
「コリンヌは、フェリクス様が行く方がきっと喜びます」
「違う」
端的に否定された。
「オデットを攫った時、彼女は俺のことなんて見ていなかった。ずっと、君だけを見ていた。目覚めて一番に見たい人は、オデットだと俺は思うよ」
「…………」
「賭けをしよう、オデット」
「え……?」
両手、一本ずつ指を立てる。
「オデットに嬉しそうにしたら、俺の勝ち。俺の頬にきすをしてもらう。……がっかりしてたら、オデットの勝ち。なんでも言う事を聞く」
馬車がカロカロやって来た。御者が扉を開ける。
フェリクス様は手を振った。
「賭けに勝ったら、抱きしめて、欲しいです」
ふは、吹き出す。
「なんだ。結局は俺が得するだけか」
「――いってらっしゃい」
「いってきます」
馬車に揺られる。寒さが体に染みて、赤くなった指先を擦った。
足の先まで冷たくなったところで、屋敷が見えた。
馬車から降り、扉を開ける。数人の使用人に出迎えられる。屋敷の中は薄暗く、灯が消えたようであった。
コリンヌ付きであろう侍女が、今日はここにいる。おかえりなさいませ。恭しい礼にわたくしも礼を返した。
「コリンヌお嬢様の所へ?」
「ええ。――案内をお願い」
コリンヌの部屋が分からない。侍女は頷く。
案内される最中、侍女に顛末を聞かされた。
「階段の上で、なにか言い争っているようでした。そして私が駆け寄る前に、奥様がコリンヌお嬢様を突き飛ばしたのです」
「二人はなにを話していたのかしら」
「奥様は半狂乱で叫ぶばかりでしたので、私にはさっぱり。――王太子殿下、という単語までしか聞き取れませんでした」
すぐに目的の場所にはついた。南向きの部屋。コリンヌに相応しい部屋だ。
「では、ごゆっくり」
「ありがとう」
ぱたん。侍女は去っていく。重いカーテンで日が隠され、誰もいないみたいだった。
ベッドに近づく。
十四歳の彼女は、金髪をシーツに散らし寝ている。呼吸は安定していて、程なく目を覚ますだろう。いつ出会っても寸分狂わぬ美しい顔。今はあどけなさが乗っている。眠り姫だと思った。
布団からひょっこり出てる右手。真っ白で、あの頃より骨張った手。握ろうとしたが引く。背に回して指を弄んだ。
椅子を引いて座る。こんなに顔を見るのはいつぶりか。
椅子を戻して、外に出る。侍女が佇んでいた。
「もう、よろしいのですか?」
「そうね」
手を握らなかった理由。両手を閉じたり開いたりする。
小さな手、握ったら起こしてしまいそうだった。コリンヌに拒絶されるのが怖かった。
フェリクス様には、賭けに負けたのはわたくしとだけ言おう。
「お父様はどこにいるの」
「執務室です」
長い廊下を歩く。
執務室につき叩けば、短い返事があった。
開けて、最初に見たお父様の顔は、以前よりずっと老け込んでいた。
「お父様」
「……戻っていたのか、オデット」
お父様の体は、こんなに小さかっただろうか。
「コリンヌとはもう会ったか?」
「はい。まだ寝ておりましたが」
口の中で、そうかと呟いたお父様は項垂れる。
「わたくしも、もう帰りますわ」
「ああ」
ずっとお母様が恐ろしくて、お父様が頼りなく寂しくて。
幼いわたくしが手を伸ばせば、二人は笑って繋いでくれた。小さな歩幅に合わせて小刻みに歩く二人。
「さようなら、お父様」
「……ああ」
雪はもうあらかた溶けてしまっただろう。水になって、流れていく。どこにも残りはしない。
もうここには、二度と来ない気がした。
「馬車を用意してくれる?」
「――オデットお嬢様」
廊下を歩く。被せるように名前を呼ばれた。
「私は、コリンヌお嬢様に口止めをされておりました。ですから一生、この胸だけに留めておこうと思っていたのです」
「……なにを」
案内される。コリンヌの部屋の隣。以前わたくしが暮らしていた部屋。
無遠慮にクローゼットを開ける侍女をベッドに座り眺める。
彼女の名前はセシルだと思い出した。セシルはクローゼットの奥に手を伸ばす。
ドサリ。
「……え?」
セシルは丁寧に置いたので音はしなかったが、そんな音が鳴った気がした。
大きい箱。
ドサリ。
次いで一回り小さい箱。
「え、え?」
小さい箱は細々と。
「開けてみてください」
「わたくしが開けて、良いの?」
「この箱を開けて良いのは、オデットお嬢様とコリンヌお嬢様だけです」
一番小さい箱に手をかける。
大きな衝撃で、胸を叩かれた。
萌黄色のリボンだった。丁寧にしまわれた、全てを奪われる発端になったリボン。
繕われた跡もあった。とても綺麗に、解れたであろうところが直されていた。
ままならない呼吸で、次の箱を手に取る。
大叔母様が刺してくれたハンカチ。
大きな箱には、七歳の頃贈られたドレス一式。ティアラの宝飾一つに至るまで、磨き上げられている。
「コリンヌお嬢様は、定期的に手入れをなさっていました」
全てが失くなった日、呼び止められた。聞こえなかったフリをして背を向けた。
コリンヌはあの日、なにを言いたかったのだろう。
「……コリンヌっ」
気づけば駆け出していた。
◇◇◇
「お姉ちゃん、その髪飾りとっても可愛いね」
思えば、言葉はそれだけだった。
いつから、略奪者の台詞だと勘違いしていた。
部屋に入れば、まだ寝ていた。そっと手を握る。小さくて、細い指。日向水のように温かい。
「コリンヌ、コリンヌ……」
わたくしにとってこの十年余りは地獄だった。貴女にとってもそうだった?
望まぬものを与えられ、姉に拒絶されて、どんな気持ちだっただろう。そうだ、貴女は優しい。その優しさにとって、潰れてしまいそうだった筈だ。
「馬鹿。わたくしは……馬鹿です」
結果ばかりを追い求め、そこにある過程を見なかった。
雪解け水が春に芽吹く花を育むことを。今心が離れていても、椅子があることを。
「ごめんなさいコリンヌ」
過程に目を向ければ、もっと早く終わったことだった。
無表情なコリンヌ。泣き虫で甘えたな貴女はずっと泣くのを我慢していた?
かんざしを取り上げたコリンヌ。恐ろしかった? かんざしで突かれるかもしれないわたくしが。
――ねえ、突き落とされたのはなんで? コリンヌの必死の抵抗だったの? 王太子殿下と結婚しろと迫るお母様に、自分の気持ちを伝えようとした。だけど届かず、突き落とされた?
大切に仕舞われたリボンやブローチ。コリンヌが身につけているのを見たことはなかった。代わりに、家庭教師に熱心に刺繍を学ぶ姿はあった。
刺繍、苦手だったよね。すごく、頑張ったんだね。
「ごめんなさい……コリンヌ」
ポタ、落ちた雫がシーツをまだらに染める。
お姉ちゃん!
わたくしを追いかけ、手を伸ばす。抱きしめて膝の上に乗せればはにかんだ。落ちた金木犀の花が、貴女の髪に零れる。
撫で落とせば、楽しそうな声を上げた。
――誰かがすすり泣いている。
小さなコリンヌ。可愛い顔を真っ赤でくしゃくしゃにして、うずくまっている。
小さな部屋に移動させられたわたくしには届かなかった声。だけど目の周りが赤い貴女を見てさえいれば。
……泣いたの? コリンヌ。
勇気を出して声をかけて。それでおしまいだったかもしれない。
そうはならなかった。わたくしのせいだ。
「目を覚まして……お話したいの、謝りたいの。コリンヌ、わたくしね、わたくし……友達ができたの。アリス様にカトリーヌ様にリディ様。すごく素敵な人たちで、一緒にいるととても楽しいの。アリス様はどんどん順位が上がっているしね、カトリーヌ様は大きな犬だって手懐けられちゃうし、リディ様はお菓子作りもできるの。食べすぎて、少し太っちゃった」
ポタポタ。コリンヌの頬を濡らす。
「最初は、フェリクス様に特別な好意は寄せていなかったわ。コリンヌのことを好きになるだろうなって、諦めてたし。……けどね、最近思うの。燃え上がるとは違うけど、恋に落ちたんだなって。好きだなぁってふとした時に思うわ。いつも優しくしてくれて、話を真剣に聞いてくれて……とても、嬉しいの」
握りしめた手に、額を寄せる。
「――……そうよね。話を真剣に聞いてもらえたら、嬉しいわよね。お姉ちゃん、コリンヌの話を何年聞いてないんだろう。本当に、ごめんなさい」
沢山の人と出会った。沢山の椅子が、わたくしの心にある。
それでもわたくしの妹は、一人だけ。
まつ毛が震える。
「ごめんね……」
貴女の心には、わたくしの椅子がちゃんとあった。
薄く目が開く。
「おはよう、コリンヌ」
震えを叱咤して微笑む。ぱっちり目が真ん丸くなる。
「え、お姉ちゃ……お姉様? なんで、私幻まで見るようになっちゃった?」
「幻じゃないわ。ちゃんと、ここにいる」
ぎゅっと手を握る。温もりが溶け合って、寒さだってへっちゃらだった。
「お姉様……泣いていらしたのですか?」
いつもの表情を取り戻したのか無表情のコリンヌに、はははと笑う。
「ええ、ちょっとね」
「……なんで、今日はこんなにも……」
苦しそうに歪められる。迷子の子供みたいな顔。
「見たから」
「見た?」
「コリンヌが、大事にとってくれてるもの」
「……っ、あれを見たのですか!?」
一転。顔を真っ赤にしてワタワタしている。あれらはコリンヌにとって秘密であり、恥ずかしさの象徴だったのだろう。
……罪悪感の象徴でもあったのかもしれない。
「――お姉様は、相変わらずとても優しいですわね」
手を引き剥がされる。
「心を動かされちゃいました? 残念、私のものだから丁寧に扱っているだけです。その他の意味なんてありません。……きゃあっ」
細い腕を掴み、抱き寄せた。頭を撫でる。
「優しいわね、コリンヌ。わたくしの傷を浅くするために、嫌われる子として振る舞っているんでしょう? もういいの、もういいのよ」
体が震えた。
「……お姉様」
「なーに」
「本当、は、私ずっと……お姉様に謝りたくてっ」
知ってる。気づいたのは、ついさっきだけど。
皮切りに、コリンヌが声を上げ泣き始めた。
「う、うわあああんっ! お姉ちゃん、ごめんなさい! 大切なものとってごめんなさい! ずっと謝れなくてごめんなさい!」
背中を優しく叩く。
「怒ってなんか、ないわ。むしろ謝らなくてはいけないのはわたくしの方。ごめんなさいコリンヌ。辛い時、一人にして……っ」
暗い室内に嗚咽が響く。
泣いて泣いて。部屋が真っ暗になってもわたくしたちは、お互いを抱きしめわんわん泣き続けた。
終わりは、コリンヌのお腹の虫が鳴いた音。
恥ずかしそうな彼女に笑みが溢れる。
「そうよね、お腹、すいたわよね。行こっか」
コックには申し訳ないけど、わたくしの分も急遽作ってもらおう。
「……食べたら、帰ってしまわれますか?」
眉根を下げ問われた。
可愛い妹を抱きしめる。
「明日の朝、寮に帰る予定で届け出を出したから今晩はいるわ」
もっと早く帰ろうとも思っていたが、過去の自分に拍手を送りたい。
「そうですか!」
パッと笑うコリンヌに裏はない。
わたくしが足らなくても、コリンヌはわたくしを愛し続けてくれたのだろう。
「……コリンヌ、わたくし結婚するの」
「知っています。おめでとうございます、お姉様」
耳元で囁く。
「コリンヌ、きっとよ。きっと結婚式に来てね」
――貴女の椅子も、ちゃんとあるから。
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