第九章 名前を超えて、わたしたちへ
「ねえ、美由紀」
レナが唐突に口を開いたのは、休日の午後だった。
窓の外には淡い光が差し込み、ふたりでいれた紅茶の湯気がほのかに揺れていた。
「美由紀って名前、ほんとうに好き。響きも、雰囲気も、何より……それを選んだあなたが好き」
美由紀は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……ありがとう。でも、ちょっと照れるな」
レナは、そっと笑った。
「わたし、ふと思うの。名前って、自分を縛るものにもなるけど、
自分を解放する鍵にもなるって」
美由紀は黙ってうなずいた。
「てつ」だった頃の記憶が、ふと脳裏をよぎる。
名乗るたびに感じていた違和感。
周囲に求められた“男らしさ”に押しつぶされそうになったあの頃。
でも、今は――
「美由紀、って呼ばれると、ちゃんと“わたし”でいられる気がするの。
その名前に出会えたことで、初めて自分を好きになれた」
「……うん。そういうふうに思える名前を、あなたが選んでくれて本当に良かった」
レナの声は、静かに胸の奥に響いた。
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その週末、ふたりはとある小さな街へ小旅行に出かけた。
歴史ある温泉宿で、静かな時間を過ごすことが目的だったが、
レナにはもう一つの思いがあった。
夕食後、浴衣姿で中庭を歩くふたり。
小さな石畳の上を、そっと肩を並べて歩いていく。
「美由紀」
「なに?」
「ねえ、もしも……これから先、何があっても、わたしがあなたの“傍”でいられるなら。
それだけでいいって、本気で思ってるの。恋人って名前にこだわらなくても、
“わたしたち”っていう形があれば、って」
美由紀は、少し立ち止まってレナの目を見た。
「レナ、それって――告白、なの?」
「うん。もう一回、ちゃんと言いたかったの」
そしてレナは、照れたように笑って付け加えた。
「前に言ったとき、あれ、ちょっとずるかったからね」
美由紀は吹き出して、レナの手をそっと取った。
「じゃあ、わたしも答えなきゃいけないね。……“はい”、だよ。
わたしも、“わたしたち”って言える日を、ずっと願ってた」
ふたりの間に、言葉にならない空気が満ちていく。
温泉宿の灯りが、そっとふたりの影を照らしていた。
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その夜、美由紀はまた日記を開いた。
名前を超えて、たどりついたのは“関係”だった。
名前がわたしを形づくり、選んだ道がわたしを試して、
でも最終的に大切なのは、きっとその名前の「向こう」にいる自分自身。
その“わたし”を、レナはずっと見てくれていた。
恋人でも、家族でも、言葉が変わっても、
ふたりの心が並んで歩けるのなら――わたしたちは、きっと大丈夫。
そして、彼女は日記の最後に、こう綴った。
わたしであること。
わたしたちであること。
それが、今の願いです。