第八章 わたしの歩幅で、ふたりの道を
春が終わり、街には初夏の光が溢れていた。
通りすがる制服姿の学生たちの笑い声に混ざって、
どこからか風鈴の音がかすかに響いてくる。
美由紀は日傘を片手に、駅前の通りを歩いていた。
向かっているのは、性同一性に関するカウンセリングクリニック。
この日を決めるまでに、何度も自分と対話してきた。
「わたしは、ほんとうに女性として生きたいのか」
「それは誰かに愛されるため? それとも――わたし自身のため?」
そう問い続けて、ようやく自分の中にある答えにたどり着いた。
それは――
「わたしは、“女性である自分”を選びたい。怖くても、未完成でも」
•
カウンセリング室の椅子に座った美由紀は、手帳を握りしめていた。
静かに話を聞いてくれるカウンセラーの前で、ひとつずつ言葉を紡いでいく。
「わたし、これまでの人生で“誰かにならなきゃ”って思ってばかりで。
本当のわたしは、ずっと部屋の隅にしゃがんでいたような気がして。
でも、今は少しずつ……その子の手を取ってあげられる気がするんです」
カウンセラーはゆっくりとうなずきながら、穏やかに微笑んだ。
「それはきっと、美由紀さんがご自身を信じる準備が整ってきたからですね」
「……はい。まだまだ怖いけど、ちゃんと前に進みたいんです。
レナの存在も……大きいです。
彼女はいつも、わたしの“今”を受けとめてくれるから」
その言葉を口にした瞬間、美由紀の中にあった揺らぎが、少しだけ解けた。
•
その夜。
帰宅すると、レナは美由紀のために小さな祝いの花を用意してくれていた。
真っ白なカスミソウと、淡いピンクのガーベラ。
「あなたが“わたしであること”を選んだ記念日だね」と、レナは笑った。
「ねえ、美由紀」
「うん?」
「いつか……一緒に手を繋いで、“この人が恋人です”って言える日が来たらいいなって思ってるの。
別に誰かに見せたいとかじゃなくて、自分たちのために」
美由紀は、花の香りに包まれながら頷いた。
「うん、きっと来るよ。その日を、わたしも迎えに行く」
レナは何も言わず、そっと美由紀の手を取った。
そのぬくもりが、言葉よりも深く、美由紀の胸にしみこんでいった。
•
歩幅はきっと違う。
でも、それを確かめながら並んで歩いていけるなら――
ふたりの道は、きっと間違っていない。
やわらかな初夏の夜、ふたりの影が並んで静かに伸びていく。