第六章 名前を呼び合う夜
ふたり暮らしにも少しずつ慣れてきたある夜のこと。
窓の外では、夏の気配が濃くなっていた。
ベランダには、小さなランタンとふたつのクッション。
夕食後、美由紀とレナはそこで風にあたりながら、お茶を飲んでいた。
「この時間、好きだな」
レナがマグカップを両手で包み込むようにして言った。
「うん、わたしも。日が沈んで、でも夜になる手前……どこか安心できる」
美由紀は空を見上げる。群青のグラデーションが、夜の色へと変わっていく。
レナがふと、そばに身体を寄せてきた。
いつもよりほんの少し距離が近いのに、美由紀は自然に受け入れていた。
「ねえ、美由紀」
「うん?」
「最近さ――名前を呼ぶの、好きだなって思うようになったの」
美由紀は目を丸くした。
「どうして?」
「うまく言えないけど、ただ“てつ”って呼んでた頃とは、全然違う。
美由紀って呼ぶと、ちゃんと今の“あなた”に届く感じがする。
まるで、わたしが知ってるこの人は、最初から“美由紀”だったんだって」
その言葉に、美由紀の胸が熱くなる。
「……わたしね、小さいころから、
本当の名前はどこかにあるんじゃないかって、ずっと探してた」
「見つけたんだね、ちゃんと」
美由紀はそっと、頷いた。
「見つけたよ。そして……レナに呼んでもらえるとき、
やっと“生きてていいんだ”って思える」
言葉の重さに、ふたりはしばらく沈黙した。
やがて、レナが小さな声で言った。
「ねえ、美由紀――もう一度、こっち見て」
促されるままに顔を向けると、レナの視線がまっすぐに重なってくる。
それは、友人としてのものではなかった。
もっと深く、もっと確かに“想い”を込めたものだった。
「好きだよ、美由紀。恋人として」
一瞬、時間が止まったように思えた。
美由紀の視界がゆっくりと揺れて、
言葉のかわりに、ぽろりと涙がこぼれた。
「レナ……ありがとう。わたし――わたしも、ずっと」
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夜はゆっくりと更けていく。
ベランダの風は、ふたりの涙を優しくなでるように吹き抜けていった。
それは、ふたりが“名前を呼び合う関係”になった夜だった。