第五章 ふたり暮らしのリズム
窓を開けると、初夏の風がカーテンを優しく揺らした。
新しいアパートでの生活が始まって、もう二ヶ月が経とうとしていた。
レナと美由紀、ふたりの暮らしはまだ不器用で、それでも確かに、心地よい。
「今日は、早く帰れるって言ってたよね」
美由紀は、エプロンをしめながらそう呟いた。
鍋の中では、さつまいもと鶏肉の煮物がぐつぐつと音を立てている。
レナの好物だ。
リビングのテーブルには、少し早いけれど初夏の花を一輪。
ふたりの生活にはまだ特別な“記念日”はなかったけれど、
こうしてささやかに祝う“今日”が、なにより大切だった。
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「ただいまー!」
レナの明るい声が、玄関のドア越しに響いた。
玄関に飛び出すと、レナは紙袋を抱えていた。
「お土産! 駅前のパン屋で見つけたの。美由紀、好きそうなやつ」
美由紀は思わず笑みをこぼした。
「パンはデザートになるの? それとも明日の朝ごはん?」
「両方!」
ふたりは笑いながらリビングへと入っていく。
ソファに並んで座り、他愛もない話をしながら夕飯を囲む。
「レナ、わたしね、最近ふと思うの。
“ふたりの生活”って、案外地味だけど、すごくあったかい」
レナは箸を置いて、静かにうなずいた。
「うん。
たとえば、名前が変わっても、見た目が変わっても、
こうやって隣に座ってることが、何より大事なことだと思うんだ」
美由紀の胸が、ゆっくりと満たされていく。
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夜。
風呂上がりの濡れた髪を乾かしながら、美由紀は鏡の中の自分を見つめた。
輪郭が少しずつ柔らかくなってきた。
ホルモン治療の影響が、すこしずつだが身体に表れ始めている。
「……わたし、変われてるのかな」
レナが背後から覗き込む。
「変わってるよ。でもね、いちばん大事なのは、変わらずにいてくれる部分」
「変わらずに?」
「そう。優しいところ、まっすぐなところ、
それに――わたしが、好きなところ」
美由紀は驚いて振り返る。
レナは少し照れたように、でもはっきりと微笑んだ。
「えっ……いま、なにか……」
「言ったよ。わたし、美由紀のこと、好きだって」
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それは、どこまでも静かな告白だった。
熱を込めたものではなく、
日々の暮らしの中に、じんわりと滲むような“愛しさ”。
美由紀は、しばらくの間、何も言えなかった。
でも次の瞬間、
ただ「ありがとう」と、そっと目を伏せながら言った。
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ふたり暮らしの部屋に、静かな夜が降りていく。
時計の音と、外の車の遠い音。
そのすべてが、いまの彼女たちの“日常”だった。
それは、誰にも代えがたい時間。
わたしであること――それを、大切な誰かと共に生きるということ。
その意味を、美由紀は今、毎日少しずつ学んでいた。