第四章 母の名前、父の沈黙
春の終わり、薄紅色のツツジが咲き始める頃。
美由紀は一通の手紙を封筒に入れ、そっとポストに投函した。
宛先は、実家の住所。
封筒の中には、あらためて綴った彼女の決意と、「美由紀」という名前。
――母さんへ
わたしは、ようやく自分の名前で生きられることになりました。
この名で、これからを生きていきたい。
もし、時間がもらえるなら、もう一度だけ会って話がしたいです。
ポストに封が吸い込まれたあと、しばらくその場から動けなかった。
彼女の胸の内では、いくつもの不安と希望がせめぎあっていた。
•
数日後、返事が届いた。
文字はどこか震えていたが、母のもので間違いなかった。
――美由紀へ
あなたのこと、何度も考えていました。
どんな姿でも、わたしの子どもであることに変わりはないと思っています。
会いましょう。
家ではなく、外で。あの駅前の喫茶店で待っています。
胸の奥がじわりと熱くなった。
美由紀は、少しだけ涙ぐみながら、封筒を握りしめた。
•
約束の日。
日曜の午後、駅前の喫茶店。
窓際の席に、小さく丸まった背中の女性がいた。
その姿は、記憶よりも少し年老いて見えたけれど、たしかに“母”だった。
「……お母さん」
呼びかけた声は震えていたが、母はすぐに顔をあげた。
数秒、沈黙。
けれど、母の瞳に浮かんだのは――驚きではなく、涙だった。
「ほんとうに……美由紀なのね」
「あのとき、もっと早く言えればよかった。
でも、やっと言えるようになった。これが、わたしの名前」
母は、そっと手を伸ばしてきた。
その手は、美由紀の髪を優しく撫でる。
「小さい頃、よく鏡の前で髪を結んでいたよね。
あれが、最初だったのかな。気づいてあげられなくて、ごめんね」
「そんな……。わたしの方こそ、黙っていて、ごめんなさい」
ふたりは小さなテーブル越しに手を握り合った。
まるで、ずっと離れていた糸がようやく結び直されたようだった。
•
だが、父との再会は違っていた。
母から預かった電話番号にかけても、留守電。
メールを送っても返信はなかった。
「お父さん、まだ少し時間が必要みたい……」
母は少し困ったように言ったが、どこか覚悟もにじませていた。
「でも、美由紀。あの人も、時間が経てばきっと……。
あの人なりの、愛情だったから」
•
その夜、美由紀はレナの腕の中でぽつりと呟いた。
「きっと、すぐには全部受け入れてもらえない。
でも、わたしはもう、隠さないで生きていきたい」
レナは何も言わずに、美由紀の肩を抱き寄せた。
その沈黙が、言葉よりもやさしかった。
•
名前が変わっても、過去は消えない。
けれど、向き合える過去に変えていくことはできる。
そう信じて、美由紀はもう一歩、前へと進み始めていた。