表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

第四章 母の名前、父の沈黙

春の終わり、薄紅色のツツジが咲き始める頃。

美由紀は一通の手紙を封筒に入れ、そっとポストに投函した。


宛先は、実家の住所。

封筒の中には、あらためて綴った彼女の決意と、「美由紀」という名前。


――母さんへ

わたしは、ようやく自分の名前で生きられることになりました。

この名で、これからを生きていきたい。

もし、時間がもらえるなら、もう一度だけ会って話がしたいです。


ポストに封が吸い込まれたあと、しばらくその場から動けなかった。

彼女の胸の内では、いくつもの不安と希望がせめぎあっていた。


数日後、返事が届いた。

文字はどこか震えていたが、母のもので間違いなかった。


――美由紀へ

あなたのこと、何度も考えていました。

どんな姿でも、わたしの子どもであることに変わりはないと思っています。

会いましょう。

家ではなく、外で。あの駅前の喫茶店で待っています。


胸の奥がじわりと熱くなった。

美由紀は、少しだけ涙ぐみながら、封筒を握りしめた。


約束の日。

日曜の午後、駅前の喫茶店。

窓際の席に、小さく丸まった背中の女性がいた。

その姿は、記憶よりも少し年老いて見えたけれど、たしかに“母”だった。


「……お母さん」


呼びかけた声は震えていたが、母はすぐに顔をあげた。


数秒、沈黙。


けれど、母の瞳に浮かんだのは――驚きではなく、涙だった。


「ほんとうに……美由紀なのね」


「あのとき、もっと早く言えればよかった。

 でも、やっと言えるようになった。これが、わたしの名前」


母は、そっと手を伸ばしてきた。

その手は、美由紀の髪を優しく撫でる。


「小さい頃、よく鏡の前で髪を結んでいたよね。

 あれが、最初だったのかな。気づいてあげられなくて、ごめんね」


「そんな……。わたしの方こそ、黙っていて、ごめんなさい」


ふたりは小さなテーブル越しに手を握り合った。

まるで、ずっと離れていた糸がようやく結び直されたようだった。


だが、父との再会は違っていた。


母から預かった電話番号にかけても、留守電。

メールを送っても返信はなかった。


「お父さん、まだ少し時間が必要みたい……」


母は少し困ったように言ったが、どこか覚悟もにじませていた。


「でも、美由紀。あの人も、時間が経てばきっと……。

 あの人なりの、愛情だったから」


その夜、美由紀はレナの腕の中でぽつりと呟いた。


「きっと、すぐには全部受け入れてもらえない。

 でも、わたしはもう、隠さないで生きていきたい」


レナは何も言わずに、美由紀の肩を抱き寄せた。


その沈黙が、言葉よりもやさしかった。


名前が変わっても、過去は消えない。

けれど、向き合える過去に変えていくことはできる。


そう信じて、美由紀はもう一歩、前へと進み始めていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ