第三章 名前と顔と戸籍と
美由紀は、その朝、机の上に封筒を一枚置いた。
中には、申立書、診断書、住民票。
名前と性別の法的な変更のための、いくつもの“紙”が並んでいる。
それをそっと撫でながら、美由紀は小さく息をついた。
「こんなに、紙の世界でわたしの“存在”が測られるなんて……」
声は誰にも届かないが、その小さなつぶやきには、
過去の“てつ”としての名が、まだ重く尾を引いていた。
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レナは横で、静かに美由紀の手を握った。
言葉は少なかったが、その温度が、何よりの支えだった。
「美由紀。
何を変えても、何が変わっても、
わたしにとっては、最初からあなたは“美由紀”だよ」
それは、美由紀がいちばん欲しかった言葉だった。
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申立に必要な精神科の診断書を得るには、通院と面談が必要だった。
診察室で、白衣を着た医師は静かにうなずいた。
「あなたの性自認は、ずっと“女性”で間違いありませんね?」
「はい。生まれてからずっと、そう思えなかった時期があるのは事実です。
でも今は、はっきりしています。“わたし”は、美由紀です」
医師は、彼女の目を見て、頷いた。
「きちんと記録を残しておきましょう。焦らず、でも、丁寧に自分のことを伝えてください」
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手続きは、想像していた以上に時間がかかった。
裁判所の手続き、診断書の準備、親の同意、過去の証明。
「名前を変える」というたったひとつの希望のために、
幾重にも重なる壁が立ちはだかる。
夜。ベッドの中で、美由紀はふと不安をこぼした。
「わたし、ちゃんと“変われる”かな……」
すると、レナはすっと布団の中から手を伸ばして、彼女の額をそっと撫でた。
「変わるんじゃなくて、
“戻ってくる”んじゃない? 本当の自分に」
その言葉が、美由紀の胸をやわらかく貫いた。
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数週間後、裁判所から通知が届いた。
申立は正式に受理され、いくつかの確認書類の提出が求められていた。
美由紀は震える指で封筒を開けた。
「……一歩、進んだ」
その言葉に、レナはキッチンから顔をのぞかせて、
満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、今日はお祝いだね。
ケーキ、買いに行こう!」
ふたりは笑い合いながら、玄関のドアを開けた。
春の空気はどこか澄んでいて、
これまでの重たい季節が少しだけ遠ざかっていくようだった。
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“名前”というものが、こんなにも人生に根を張っているとは、
美由紀自身も思っていなかった。
けれどその名を、愛する人に呼ばれ、
鏡の前で繰り返しつぶやき、
紙の上で少しずつ現実にしていくたびに、
“美由紀”という人間が、ゆっくりと、確かにこの世界に根を下ろしていく。
それが、どれほど尊く、かけがえのないことかを、
彼女はこの日、あらためて知ったのだった。