第二章 見知らぬ視線
その視線に、最初に気づいたのは、美由紀だった。
レナと並んで歩くとき、すれ違った人がほんの一瞬、彼女たちを振り返る。
無言の観察。興味本位。あるいは、探るような視線。
それは言葉よりも饒舌に、社会という空気の存在を突きつけてくる。
「ねぇ、レナ……今日、なんか見られてた気がする」
買い物からの帰り道、美由紀はぽつりとつぶやいた。
「うん……私も少し、感じたかも」
気のせいにするには、あまりに重く、
深く突き刺さる視線のようなものが、ふたりの後ろに確かにあった。
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翌日、美由紀は単独で市役所に向かった。
引越しに伴う住民票の更新と、保険の住所変更のためだった。
窓口で名前を呼ばれたとき、
対応した職員が、書類に記載された“てつ”という名と、目の前の彼女を見比べるようにまばたきを繰り返した。
「……こちら、本当にご本人様ですか?」
「はい。本人です。念のため、免許証もあります」
美由紀は鞄から提示する。その中の写真は、まだ“てつ”で、短髪のままだった。
職員はぎこちなく笑いながら、事務的に手続きを進めた。
だが、そのやり取りの後の微妙な沈黙が、美由紀の胸に小さく波紋を残す。
(やっぱり、名前……)
制度上の“性別”と“名前”の齟齬。
誰のせいでもない空気が、美由紀を締めつけた。
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「辛かった?」
レナはそう訊くと、美由紀の肩に毛布をかけた。
その夜、美由紀はソファに深く沈み込んで、黙ってうなずいた。
「書類を見たとたん、相手の表情が変わるの。
戸籍名って、まだ“てつ”のままだから……そのたびに、わたしが揺らぐの」
「うん。わかるよ。
でも、揺らいでも……わたしは、美由紀の今しか見てない」
その言葉に、美由紀は顔を伏せて、静かに微笑んだ。
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次の週末、ふたりは街のカフェでお茶をした。
レナは近所の古本屋で買った小さな詩集を開きながら、
美由紀はミルクティーを両手で包み込むようにして飲んでいた。
「美由紀」
不意に名前を呼ばれ、彼女は少し頬を赤らめる。
「……うん?」
「今の名前、好き?」
「うん。レナに呼ばれると、ちゃんと“わたし”になれる気がする」
レナはにっこりと笑って、そのまま視線を本に戻した。
そのなにげない瞬間の積み重ねが、
この世界に“ふたりで在る”ことを、少しずつ肯定してくれるのだった。
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そして、美由紀の心の中に、静かな決意が生まれていく。
名前を、変えたい。
制度の中で、少しでも“わたし”として生きやすくなるように。
社会の視線に耐えるためではなく、ただ、レナの隣で自然に笑っていたいから。
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その夜、ふたりの影が重なるようにベッドに並び、
美由紀はレナに、そっと囁いた。
「レナ……わたし、名前を変える準備、始めようと思う」
レナはすぐに頷いて、
彼女の手を握り返した。
「いつでも、支えるよ。何があっても、わたしは“美由紀”の味方だから」
ふたりの手のぬくもりは、どこまでも静かで、どこまでも確かなものだった。