第一章 暮らしのはじまり
目を覚ますと、窓のカーテンの隙間から柔らかな朝日が差し込んでいた。
時計は午前七時を少し過ぎている。
「……おはよう、レナ」
隣を見ると、レナはもう起きていて、ダイニングテーブルの上にマグカップをふたつ並べていた。
スリムな背中を朝の光がなぞるように照らしている。
その静けさが、美由紀にはとても愛おしく感じられた。
「おはよう。起きるの、ちょっとだけ遅かったね」
「ごめん、まだ夢の中だったみたい」
「夢の中でも美由紀だった?」
その問いに、美由紀は一瞬だけ沈黙して、笑う。
「うん。ちゃんと“わたし”だったよ」
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新しい部屋に越してきて、ちょうど一週間。
まだ段ボールの中にしまわれたままの荷物もあったけれど、ふたりの暮らしはゆっくりと形を整えていた。
朝、コーヒーを淹れて、テレビの音がささやかに流れる中、パンをかじる。
洗濯機の音、隣の部屋から聞こえる子どもの声、ベランダに干したタオルが風になびく音。
どれも特別ではないけれど、美由紀にはすべてが新しく、確かだった。
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その日の午後。レナは仕事へ出かけ、美由紀はひとりで近くのスーパーへ買い物に出かけた。
小さなトートバッグを肩にかけ、春の風を受けながら歩く。
店に入ってすぐ、美由紀は自分の姿が鏡の奥に映っていることに気づいた。
メイクも、服も、髪の整え方も、ずっと練習してきた。
それでも、鏡の前ではやはり、ふと不安になる。
(今、誰かが見てる? 気づかれてない?)
その不安を打ち消すように、彼女は小さく息を吸って、目線を前に戻した。
「大丈夫。わたしはわたしだもの」
口の中で、誰にも聞こえないほどの声でそうつぶやく。
その瞬間、胸の中に少しだけ勇気が満ちていくのを感じた。
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帰宅すると、レナが玄関で出迎えてくれた。
「おかえり、美由紀」
その一言が、どんなに支えになっているかを、美由紀はまだ言葉にできない。
リビングで買ってきた野菜を並べながら、美由紀はふと思った。
ここは、かつて夢にすら見られなかった場所。
レナと一緒に生きている現実は、まだ少しだけ、夢のようだ。
だけど、指先の温度や、レナの笑顔や、テーブルに置かれたふたり分のマグカップが、確かに「今ここにあること」を教えてくれている。
その夜、美由紀は日記にこう書いた。
「日常は、静かに変わっていく。
それが少しずつ“わたしたち”になるのを、
わたしはちゃんと見ていたい」