【お経】非常に困ったことになった【ラノベ】
非常に困ったことになった。
この作品は、ジャンルを「エッセイ」としているが、ぶっちゃけ作者の愚痴である。
何が起きたのか、この後に書き記すのだが。
この事が起きてしまって以来、どうやっても新しい作品を書き進める事ができなくなってしまった。
もはや筆を折るしかないのではないかと思い悩み、ならばいっそこの愚痴を書いてしまおうと思い立ったものである。
◇
仏教の用語で「お経を唱える」という場合と「念仏を唱える」という場合がある。一般人にはその違いを区別する意味はほとんどないだろう。しかし両者の間には、確たる違いがある。
まず「お経」とは、お釈迦様が各地を巡って苦しみ悩む人達に対処法を説いたのを、その弟子たちが聞いていて、後年みんなで「こういう内容のことを言っておられた」というのを編纂したものだ。従って、お経はお釈迦様が書いたものではなく、弟子たちが書いたものであり、冒頭に必ず「私(お釈迦様のお弟子)はこのように聞かせていただきました」という意味の一文が入っている。
お経には、様々な種類があるが、大きく分けると「経蔵」「律蔵」「論蔵」の3つに分類される。
【経蔵】は、お釈迦様の教えそのものを記したもので、仏教の根本的な教えが説かれている。先に述べた意味での「お経」はこの部分だ。
【律蔵】は、仏教の戒律や修行方法について記したもので、僧侶が守るべき規律などが定められている。つまり僧侶のルールブックだ。この内容は、お釈迦様が定めた戒律や規則が基本となっている。しかし、時代や場所、状況の変化に合わせて、弟子たちがルールを追加したり、修正したりした部分も含まれている。
【論蔵】は、お釈迦様の教えに対する解釈や解説を記したもので、仏教の教義を深めるためのものである。この内容は、お釈迦様が言ったり決めたりしたものではなく、弟子たちが「自分はこう解釈した」と書いたものである。
一方「念仏」というのは、文字通り「仏様に念じる」という意味である。ただ、これはいわゆる「神頼み」とは違う。宝くじが当たるとか受験に合格するとかの現世利益を求めるのは「念仏」ではない。
仏教では輪廻転生といって、魂があの世とこの世を定期的に往復していると考えている。しかし今生きている我々は「この世」しか知らない。あの世がどこにあって、どうやって行けばいいのか分からない。死後きちんとあの世へ行かなくては、次にこの世へ戻って来ることもできず、あの世でもこの世でもないどこか不明の謎空間をさまよう迷子になってしまうかもしれない。さて、どうしたらいいだろうか。
――という悩みに対して、仏教はこう説く。
そんなことは我々人間が考えなくても良い。阿弥陀様がちゃんと導いてくださるから、その導きのとおりに従えばよいのだ。
これが念仏の最も有名な「南無阿弥陀仏」の一文だ。意味は「阿弥陀様にお任せします」ということになる。「南無」は、仏教用語で、敬意や信仰、信頼を表す言葉である。サンスクリット語の「namas」または「namo」の音写で、漢訳では「帰命」や「帰礼」ともいう。
「南無三」という言葉も、この「南無」は同じ意味だ。「三」は仏法僧の3つを指す。御仏と、その教えと、それを修行する僧侶たちを「三宝」といって、仏教信者が信仰する対象となるものだ。
お釈迦様はインド人だ。サンスクリット語を使い、80歳まで生きたらしい。従ってお経も原文はサンスクリット語である。これが中国に伝わって、中国から日本に伝わってきた。
当時の仏僧たちがお経をどうやって持ち帰ったのかというと、インドの僧侶にお経を読んでもらって、その音を漢字に当てはめて書き記した。つまり当て字である。「なむ」と聞こえたから「南無」という字を当てて「ここで『なむ』と発音するのだぞ」とメモしたのである。なので、日本に伝わっているお経の漢字には、まったく何の意味もない。
「恋のマイアヒ」に空耳を当てはめた動画が大量に制作された時期がある。「飲ま飲まイェイ」に聞き覚えがある人は多いだろう。本来は「Nu mă, nu mă iei」。 ルーマニア語で「私を置いていって(Leave me alone)」と言っている。
お経はこれと同じことをして伝わってきたわけだ。
さて、お経とはそういうものだと理解していただけたと思う。
で、ここからは作者のまったく個人的な考えなのだが――
おそらく「論蔵」に分類されるものだと思うが、その内容を現代語訳したものを読んでみた。まるでラノベなのだ。弟子が作者で、お釈迦様が主人公。優れた教えで人々を救い、その功績は大変輝かしいものだ、この教えは広く知られるべきだ、という感じのことが書かれている。
ちょっと見方を変えてみよう。
この「主人公」が悟りを開いたのではなく、前世の記憶を取り戻したのだ解釈してみるのだ。その前世は、この世よりも発展した異世界だった。なので、その記憶を取り戻した主人公は先進的な考え方ができるようになり、人々はその恩恵を受けて救われた。
どうだろう?
それっぽく見えてくるのではないだろうか。
「あまねく天下を照らす光はますます広がって、この世にその光が照らさぬところはないのである」みたいな非常に壮大な表現がされていて、読んでいるとまるで国王になった主人公が周囲を征服していった戦記物みたいにも感じられる。
今までに読んだ作品がいくつも思い起こされたのである。
◇
非常に困ったことになった。
三回忌とかの法事で唱えられる内容なのである。
この先、作者は葬式や法事のたびに、ラノベを聞かなくてはならない事になってしまった。
しかも、極めて壮大に装飾されて具体的に何が起きたのか分からない。
非常に困ったことになった。
この先、どの作品を読んでも、どこかできっとこう思うだろう。
あっ、これお経で見たやつだ。