その16
16
これほどに自分の視界が激しく動き回り、目の前を木の幹や枝が次から次へと猛烈な勢いで飛び去ってゆくというのに、私は案外落ち着いていた。魔理沙の表情がさほど不安定という感じではなく、むしろ飛行そのものに集中しているように思えたからだ。だから、いまの最良の行動はとにかく黙ってしっかりと魔理沙の肩にかじりついていることだと考えた。
ようやく飛行の軌道が穏やかになってきた頃、魔理沙はぼそりと言った。
「別につき合ってくれって言ったわけじゃないんだからな……」
『もちろんだ』
私は魔理沙のドレスの後襟をしっかりと握り、彼女の耳元に顔を寄せて返事をした。
『勝手に飛び乗ってしまった私が、君の派手な運転っぷりに文句をつける筋合いなんかないさ』
魔理沙は軽く息を吐いた。
「もうすぐ川の近くに出る。そこで一休みするから」
『……分かった』
魔法使いを載せた箒は緩やかに木々の間を飛行し、明るい緑の低い草に覆われた川岸へと出た。目の前には人が両腕を拡げたぐらいの幅の流れが涼しげな音を立てている。木々の枝の隙間からは陽の光が差し込み、水面で輝く粒となって絶え間なく動き回る。
魔理沙は地面に降り立つと、私を肩から降ろして近くにあった灌木の枝に座らせ、そばに箒を立てかけて言った。
「ちょっと顔を洗ってくるから、箒を見ててくれ」
『ああ』
帽子を脱いだ彼女は、川岸にしゃがみこみ、両手で水をすくいあげて顔を洗う。ついでに水を何度か飲む。
「……ふう、さっぱりしたぜ」
ハンカチで顔を拭いた魔理沙はようやく笑顔を見せた。
「さっきはなんだか、しょーもないところを見せちまったな」
『いや、いくつかの誤解が重なっただけだろう……と私は思っているが』
「まあな。正直、なんでアリスがあそこまで怒るのかよく分からねー。っていうか、あいつ泣いてたからな……正直かなりムカついた。そこまで酷いことをしたって気はなかったし。ただまあ、アリスの言ってたことはまるっきり的外れってわけでもないんだが」
『ん……どういうことだ?』
「実は、お前がもしかしたら男なんじゃないかっていうのは、最初にお前をアリスのところに運んだときに思ったことなんだ……よっと」
魔理沙は私を木の枝から抱き上げると、草むらの上に腰を下ろした。私は魔理沙の腰の上にまたがる恰好になる。
「お前の魂がまだ例の蒲団の血痕に宿ってるとき、わたしはその蒲団をかぶった状態で飛んでた。そのとき、途中で誰かの声が聞こえたような気がしたんだ……そいつは『こんなところで無くなるわけにはいかない』と言ってた」
『…………』
「それと、何かを届けなくちゃいけない、みたいなことも……まあその『声』にしたって、はっきり言葉になってたかどうかさえ正直怪しいんだけどな。ただ、わたしには、そいつが男で、その何かを届ける相手は女の子なんだっていう感じがした。お前自身は憶えがないか?」
『アリスの家で目覚める前のことは……霊夢の中にいたときのことしか憶えていないな』
「そうか」
魔理沙は眼を閉じて、眉間を指先で撫でた。
「言い訳がましいと思うだろうがな、その時はほんとに『そんな感じ』がしただけなんだ……いまのお前の言葉のように『聴こえ』たわけじゃない。だから、そんなあやふやなことを言うのはちょっと無責任だと思った」
『いや、それは分かる。ただ、アリスは私や霊夢のことを考えろと言っていたが……あれは、いったいどういう意味だろう』
「うーん……それはたぶん、霊夢もお前が男だと薄々分かってたんじゃないかってことらしい。少なからずお前をそういう意味で意識してたはずだってわけさ」
『いくらなんでも考え過ぎじゃないか? だいたい、私は魂だけの存在で、この人形という器のおかげでかろうじて形を保つ身の上なんだし……元が男か女かなんて関係ないだろう』
「チビ、それは違うぞ」
魔理沙は私の額を指で軽く弾いた。
「やっぱり、中身が男だと意識していれば、見かけがどうあれ、それなりに接し方が変わるもんだ」
『じゃあ魔理沙は私のことを男だと意識して接していたのか? 昨夜も?』
「っ……それは、あれは違う。なんつーか、流れというかノリというか」
魔理沙がすこし慌てたような顔になる。そこで、私はなんとなくアリスが怒った理由が分かったような気がした。
『アリスは……もしかすると、少し寂しかったのかもしれないな』
「え? 何だそりゃ」
『つまり、自分だけが気がつかない間にいろいろと物事が進んだり、人と人の係り合いとかが変わってしまったような気がして……それがなんとなく寂しかったんだろう』
「……よく分からないな。そんなことは世の中にはいくらでもあることだろうぜ」
『そうなんだがね。だが、場合によっては必要以上にそういう変化に敏感に反応してしまうこともある……』
それは、もしかするとアリスにとって魔理沙が特別な位置にいる人物だから、なのかもしれないが……あまりそういう憶測を交えてはいけない。
『特にアリスみたいな、いろいろと考え込んでしまいがちな子はね。でも、きっとさっきの自分の振る舞いを悔やんでいると思う』
「んー……かな」
『そういえば、報告が遅れたが、私は霊夢から霊気を吹き込まれることでけっこう力を得たようなんだ。例えば』
わたしは魔理沙の膝の上から垂直に跳躍してみせた。体長の何倍もの高さにまで跳ぶことができる。
「おおっ? すげえ」
魔理沙は眼を見開いて見上げ、私が彼女の膝の上に着地すると言った。
「そう言われると前よりも何か魂の気配が強くなってる感じがするな……」
『その点では、魔理沙にはむしろ感謝すべきなのじゃないかと思っている。きっかけの形としては少々問題があったのかもしれないが』
「ははは……こっちも礼を言われるのもどうかという気がするがな」
魔理沙は苦笑する。
「ただなんかこう、お前にはさ、いままでわたしが出会った連中とは違う何かを感じるんだ……それで、つい面白いと思っちまって、いろいろと遊んでみたくなる」
『私は全然かまわない。その結果、何か誤解が起きてしまったら、きちんと解けばいいだけの話だ。誤解を恐れてばかりいてもしかたがない』
「そうだな……」
細くて白い指が私の髪に触れる。
「わたしは相手に泣かれたりするのに弱くてさ。どうしようもない気持ちになって、それが怒ったとか嫌われたとかそういう風にとられるのがキツくって……それで、ついその場から逃げ出したり、さっきみたいに飛び回ったりしちまうんだ。まるでガキだよな」
『だが、話をこじらせて誤解が深まるよりよっぽどいい』
「なかなか霊夢みたいにはいかねーんだよな……あいつは、ただ思ったことを言うだけでその場をおさめちまう。でも、本人はその場をおさめようなんてカケラも思っちゃいないんだよ。ああいうのは特別な才能なのかもしれないな」
『…………』
「なあ、チビ……お前、やっぱり女の子ってことにしとけ。というか、とりあえずわたしの中では女の子な。そう思っとかないと、なんだかお前の声がだんだん男の声に聴こえてきそうだ」
『そうか? まあ私はどっちでもいいがな』
「そういう言い回し自体が、どうにも男くさいんだよなー」
魔理沙はくっくっと笑いながら帽子を被って立ち上がる。
「ま、そのうちもっと女の子らしい小道具でもプレゼントしてやるよ……さて、そんじゃ戻るか。たぶん霊夢はアリスんとこにまだいるだろう」
『ああ』
私が肩の上によじ登ったのを確かめると、魔理沙は箒にまたがった。
「ちょっとゆっくりめで行くからな。さすがにすこし魔力を使い過ぎた。川から湖の方を回って低空飛行でいくぜ」
魔理沙を乗せた箒は静かに浮上し、川に沿って森を抜けてゆく。
『湖というと例の霧の湖か。大丈夫か、見通しがきかないなんてことは』
「心配するな、岸に沿って湖面近くを飛んでいけばそれなりに視界はあるんだ。霊夢なんかはけっこう勘に頼って飛んでるけどな。あれじゃ無駄が多過ぎる」
だが、森を抜けて湖岸に達したとき、その判断があだとなってしまったことが分かった。
そこには冷え冷えとした妖気を放つ妖精がいて、私たちの行く手をさえぎっていたのである。
「おやぁ、昨日に続いてまた会っちゃったね、人間の魔法使いさん」
彼女は不敵な笑みを浮かべて言った。
「こいつは、リベンジマッチのひとつもさせてもらわなきゃだね!」
その17につづく