18 重なる
その日だった。
もうすっかり昔になったようにも感じる、過去のこと。
おれは〈塔〉の下に座り込んでいた。冬が終わる頃だったと思う。季節の変わり目は、もう今じゃ一日も保たない。日が沈んでから、数時間だけの春。夜とともに下がろうとする気温を、迫りくる夏が押し上げていく。そんな、奇妙な気候の日。
「お前が蛇か?」
強い風に吹かれるように、その男は現れた。
男というのも、当時のおれはそう思ったって程度のことに過ぎない。
まだそいつは今よりも背が低いし、肩幅だってそんなでもない。美少年って言われたら、まあそうだって頷いてしまうくらいの体格で、今のおれから見れば、あの頃は結構細かったんだなって、そう思ってしまうくらいの儚さがある。
「誰、あんた」
「政府特命。陰流皆伝、芳尋堂あずき」
短く答えたそいつの目だけが、抜身の刃物みたいに鋭い。
刀を抜いたら、「勘弁してくれ」と命乞いしたくなるような強さだった。
どういう魔法を使って戦われているのかすら、さっぱりわからない。一息で地面が割れる。空が唸る。腕も足も簡単に飛ばされて、おれはこのときほど自分の身体の丈夫さに感謝したことがない。自分の身体の限界にここまで挑戦させられたことも、もちろん、ない。
それでも命乞いはしなかった。
殺されることも、なかった。
「いい加減に――」
死ね、と刀を振る寸前に、飛びついた。
嫌がったそいつが、刀の柄でおれをどつく。それだけで吹っ飛ばされる。とんでもない痛みだったが、それもこれで最後だと思えば、自然と笑みがこぼれる。
時間稼ぎは、もう終わりだった。
「なんだ、」
母さんが、準備を終えた。
〈塔〉の周りに、濁流みたいな勢いの渦が生まれ始める。そいつは警戒している。その場で踏みとどまろうとしている。おれは踏みとどまらない。
〈塔〉に呑み込まれていく。
「じゃあな、『あずきちゃん』!」
勝ち誇った顔で笑ってやる。刀士が歯噛みする。おれに手玉に取られていたことに気付く。
そこから、信じられないことをする。
「逃がすか――!」
「はあ!? ばっ――」
おれは、人間がこんなに馬鹿な生き物だとは思わなかった。
そいつが飛び込んでくる。おれは際の際、母さんの生み出した渦の中からそいつを叩き出そうとする。本気を出せばおれの方が力は強い。
だけど向こうの方が、速い。
一緒に、渦の流れに呑み込まれていく。
∞
多分、蘇った記憶の量の問題だったんだと思う。
おれとあずきの間に割り込んで、その刀を受け止める余裕を窓架が持っていたのは。
「な、」
ガキン、と激しくぶつかる音がした。
窓架は変形させた腕で。あずきは腕輪から変形させた、例の刀で。
「何やって、」
窓架は多分、何もわかっちゃいなかった。あの記憶が蘇ったのは、多分おれとあずきの間だけ。あの場にいたのは、おれたち二人だけだったから。
元々敵同士だったってことを『思い出せる』のは、おれたちだけだったから。
「あずき、」
「――玲!」
「っ!」
窓架が一撃でぶっ飛ばされる。
次は、おれの番だった。
こんな場所で大して修練を積んだわけでもなかっただろうに、ただ骨格がでかくなっただけで、昔とは比べ物にならないほどの力だった。上段から振れば、地面が砕ける。横に凪げば、壁がぶち切れる。下から斬り上げれば、どこにも触ってないはずなのに頬が額まで裂けた。
「おち、」
「どけえっ!」
横から割り込もうとした窓架が、入り込む隙間がない。直接の対決じゃ勝ち目がないと思ったんだろう、あずきの腕に向かって飛ばした糸が、刀すら使わない。ただの腕力で、ぶちぶちと断ち切られる。
「あずき、やめろ!」
「俺に――」
どっちが化け物なのか、多分その場を見て判断がついた奴はいなかったはずだ。
おれは多少のことじゃ死なない。それを思い出している。だから窓架にこれ以上あずきの矛先が向かないように、大きな声を出す。注意を惹きつける。そんなことするまでもない。
あずきは最初から最後まで、ずっと、おれを見てる。
泣きそうな顔をして。
「命令、するなあッ!」
残像も見えなかった。
身体も反応しない。息が止まるだとか、内臓がげえっとなるだとか、そんなことすら起こらない。音がした。一回、二回、三回。さっきまで感じていたのと引っ張られる方向が違う。重力が別の方向に働いてる。今自分がどこにいるのかわからない。
仰向け。
振りかざされた刀が、見えた。
頭の中に、色んな思考が浮かんだ。
突き飛ばせば何とかなるかとか、流石に刀で頭をぶっ刺されたら死ぬかもなとか。おれが死んだらどうなるのかなとか、それでもやっぱり巻き戻るのかなとか。でも、こんなことがあったらもう、いつか思い出す日が来るのも怖くなるよなとか。
このままでいたかったな、とか。
あずきが本気で仕留めに来ていたら、そんなことを考える時間もなかったはずなのに。
ぽつり、とおれの頬に、滴が落ちた。
涙っていうのは、もっとささやかなもんだと思っていた。でも、それは何だかすごく重たくて、おれはその場所から一歩も動けなくなる。仰向けになったまま、目を離せなくなる。
「――畜生、」
前に一度だけ、あずきがこうしていたところを見たことがある。
おれはそのことも、ちゃんと思い出している。
「もう、殺せない……」
あずきが、覆いかぶさってくる。大声を上げて泣き始める。おれは、その背中に手を回す資格が自分にあるのか、考えている。
頭を振って、窓架が立ち上がる。
当たり前だろ、と吐き捨てるみたいに言った。
∞
「――うぇ、」
窓架に肩を担がれながら、コンビニの奥に戻る。
出迎えてくれた百羽は、当然あんぐりと口を開けて、絶句した。
「け、けんか?」
「そう。馬鹿大暴れ」
私巻き込まれ、と変な韻を踏んだ窓架に、おれは放り捨てられる。どふっ、と畳の上に鈍い音とともに横たわる。窓架はさっさと部屋から出ていく。百羽は動揺しながらおれを見て、
「えっ、すごい血出てる!」
さらにびっくりして、おれに駆け寄った。
傷口を見ようとしてくる。いい、とおれはそれを手で制する。
「返り血だから」
「えぇっ!?」
適当な嘘を吐いて、気を逸らす。さらに百羽はびっくりして、部屋の隅でいかにも居心地悪そうに佇んでいるあずきに注目する。実際のところ、そっちの服に跳ねている方が返り血だ。
「それ、脱いどいた方がいいぞ。おれ、毒持ちだから」
返事はなかったが、あずきは黙って一枚、上着を脱いだ。おれは傷口を手で押さえる。水っぽい音がして、流石に顔を顰める。あ、と百羽が気付いて、
「やっぱり玲ちゃんが怪我――」
ばん、と窓架が足で扉を開けた。
「食っときな。多分治るから」
ぽい、と無造作にこっちに投げてくる。コンビニから調達してきたと思しき牛乳、生卵、高級そうなハム。
牛乳から開けてみる。不思議なことに、一リットルもあったのに一息で飲み干せてしまう。百羽が目を丸くしている。次は生卵。机の角じゃなくて面で叩くのがコツで、ポンポンポンポン次から次に口に入れていく。百羽は言葉を失っている。最後はハム。袋を開けて、流石にちまちま齧り取る。
「なんだ。丸飲みしないの?」
「消化に悪そうだろ。怪我してんのに」
ぐわっ、と窓架がおれの服を捲り上げた。
わ、とそこでようやく百羽が顔を逸らそうとする。逸らし切ってはいない。顔を手で覆い隠す。指の隙間から見ている。
だから、
「――え」
「すげーだろ」
目の前で、それを見ることになる。
おれの腹を、鱗が一気に覆っていくところ。ハムを食い切る頃に、埃を落とすようにそれを手のひらで撫でると、ぼろぼろと剥がれ落ちていくところ。
綺麗になった腹。
「おれ、人間じゃないんだわ」
∞
おれたちはそれで、全部を話すことにした。
とは言っても、あずきは一言も喋らないままだったけど。
どこから話すのかは、すごく難しかった。多分おれが一番多くのことを知っていたけど、一番奥深くのところは、まだ思い出せちゃいなかったから。一番古いところから始められないなら、一番わかりやすいところから始めるしかない。
「ば、『化け物』?」
世界はめちゃくちゃになってる、ってところから。
百羽は、最初は何も呑み込めていなかったように見えた。当たり前のことだ。実はこの世界はもうすっかりぐっちゃぐっちゃになっていて、超常現象みたいなものが当然のように起こっていて、そのことにすら気付けないようになっていて、何を隠そう目の前にいるおれたちも自分がそうだってことすらわからなくなってたんだよ――そんなこと言われて、すぐに「わかった」って頷く方がおかしい。
だから、丁寧に説明していった。
どうもこの〈塔〉では何度も時間が繰り返してるらしいとか。記憶を見る限り、この〈塔〉を司ってるのはおれの母さんに当たる大蛇で、おれは初めからここにいて、窓架は途中からで、実は図書館の本棚にスカスカのところがあるのはまあまあこいつのせいで、床の焦げ跡もこいつのせいで、〈塔〉が全体的にボロっちいのは百羽が『総理大臣』になってから帰ってきたら刺客に命を狙われてここが戦場になって――。
でもきっと、百羽が色んなことを呑み込む一番の決め手にしたのは、
「お祖母ちゃん?」
あのUFO襲来の夜に、百羽本人から聞いたこと。
「って、言ってた。その婆さんが、百羽の父親の母親だって。多分、おれの母さんと同じで、何か〈塔〉のことを知ってるんだと思う」
百羽はしばらく、部屋に横たわる婆さんをじっと覗き込んでいた。
ふっと、まるで子どもを撫でるように、その額に触れる。婆さんは起きない。これだけおれたちが、横で大騒ぎしていても。
「……そっか」
百羽は、頷いた。
もしかして、ともおれに訊いてきた。前に玲ちゃんが泣いてたときに屋根裏で見た蛇って、玲ちゃんのお母さん? 多分、とおれは答えた。それでようやく、百羽はおれたちの言う荒唐無稽な話を、真っ直ぐ受け止めてくれたような気がした。
それから、あずきを見た。
「玲ちゃんが怪我してたのは?」
「痴話喧嘩」
窓架が端的に答える。窓架はもちろん、おれとあずきの過去を知らないから、適当なことを言ってるだけだ。
だからおれが説明する、
「いや――」
はずが、その先を言葉にできなかった。
あずきが、という言葉から始まるはずだった。でも、あずきは何も言わない。おれはあずきとのことについて、何をどう言えばいいかわからない。
おれがぺらぺらと喋っていいことじゃ、ない気がした。
何とか言えや、と窓架は言う。が、語気は弱い。多分、元々は自分もあずきと敵対していたことから、何となくこっちの事情も察している。あずきは何も言わない。おれも口を閉じている。
百羽が、そんなおれたち三人を見る。
「こら」
それで、ぺこっ、と。
おれの頭に、チョップを落とす。いかにも近寄るなと言いたげな雰囲気のあずきにも、ずかずか近寄っていく。あずきが後ずさる。もっと百羽が距離を詰める。
ぺこっ。
「喧嘩しちゃダメでしょ」
多分、百羽も何も考えずに口にした言葉じゃなかったはずだ。
血が出てるのを見てから、明らかに顔色が悪かったから。頭から信じていないならともかく、おれと窓架が化け物だとか、おれたちの住んでるこの国は滅びかかってるとか、そういうことのたった端っこでも、ちゃんと理解し始めていたから。
考えて百羽は、その言葉を口にした。
頭を叩かれて、あずきは、何も言わなかった。
ただ、百羽が「でも」と言って振り返ったとき、そのときの感触を確かめるように、自分の頭に指先で触れていた。
「それって、みんな思い出したの?」
百羽が何を訊きたいのか、貧血気味なのもあって、最初はよくわからなかった。
部屋、と窓架が先に答える。百羽が問い返す。部屋?
「ここの上に部屋があって」
百羽が言いたいのは、「なんでわたしは覚えてないのに、みんなは知ってるの?」という意味だった。おれもようやく汲めた。窓架に代わって答える。
「二十四階の部屋に入ると、入った奴ら同士が過ごした記憶が引きずり出されるようになってる」
ああ、と百羽も頷いた。数秒、間が空いた。多分、頭の中で結び付けていた。婆さんの薬を取りに行ってからおれと窓架の様子がおかしくなった理由とか、あずきが上に登ったって聞いて、窓架が部屋を飛び出していった理由とか、その後こうやって、おれたちがボロボロで帰ってきた理由とか。
それから、こう呟いた。
「じゃあ、わたしもそこに入ったら、思い出すのかな」