14 面影
何それ、と声に出したのは窓架だった。
「じゃあ何、あの私たちを襲ってきた変な奴らは――」
「わたしを追ってきちゃったんだと思う。だから、もう行くね」
話は終わったとばかりに、百羽が立ち上がる。
咄嗟に、という動きであずきがその手を掴んだ。
「もう行くって、どこに」
「〈塔〉に戻るよ」
馬鹿言うな、とおれは立ち上がった。
「何言ってんだ。まさかおれたちを巻き込んだとか思ってんのか?」
帰ってきちゃいけなかった。あのとき、百羽が呟いた言葉を思い出して、
「自分で言ってただろ。央都に行ったのはおれたちの代表で――」
「お父さんなんだよ」
おれが肩を掴んだそのとき、百羽は言った。
目を逸らしたり、俯いたりなんかしてなかった。暗闇の中、ほんの少しの灯りだけで瞳をきらめかせて、おれを真っ直ぐに見つめて言う。
「政治家志望だったんだって、お父さん」
全然覚えてないんだけど、と百羽は目を伏せて、
「さっき言った、この国がめちゃくちゃになった原因。お父さんがたくさんのデマを撒いたからだって。もちろんお父さんだけがそれをしてたってわけじゃないし、原因もそれだけじゃないんだけど、向こうに行って、勉強して、気付いちゃった」
「関係ないだろ、そんなこと」
「……うん。玲ちゃんなら、そう言ってくれると思った」
その会話は、すごく変な感じがした。
おれが口にする言葉は、全然届いていないような気がした。
「でも、自分じゃそう思えないよ」
笑っている百羽との間に、手を伸ばしても届かないほどの距離がある気がした。
「あのさ、コンビニにいたおばあちゃんのこと、覚えてる?」
突然、話が逸れたように聞こえた。コンビニの、と窓架が繰り返す。うん、と百羽は頷く。
「あの人、わたしのお祖母ちゃん……お父さんの、お母さんなんだ」
そんなの、一度も聞いたことがなかった。
おれたちが困惑しているのが伝わったんだろう。わたしも知らなかったんだけどね、と百羽は続ける。
「ていうか、本当のところは『総理大臣』になってもわからなかったんだけど。でも、資料でわたしの家族の写真を見たときに、あ、って気付いたんだ。この人だって。あの人、わたしのお祖母ちゃんだったんだ。なんで忘れてたんだろうって」
でも、もっと不思議なこともあった、と。
「〈塔〉のライフラインがどうやって維持されてるのかとか、そういうこと。向こうに行ったときにね、わたし、不思議なくらい誰にも経歴のこと訊かれなかった。どうやってご飯を食べてたのかとか、暮らしてたのかとか、これだけぐちゃぐちゃになった国で、どういう背景がある場所に暮らしてたのかとか、そういうことも全然訊かれなかった」
「百羽の祖母さんが、何かしてたってことか?」
「多分ね。どうやったのかわからないけど、わたしのこと――」
「――ああもう、まどろっこしい!」
突然、窓架が叫んだ。
びくっと百羽が肩を揺らす。その一瞬、おれは懐かしいものを見た気がする。
顔に張り付けていたものが、剥がれたような。
「要は、お祖母ちゃんがいるから助けに行きたいってことでしょ!?」
え、とか、いや、とか百羽が言う。別にそれは、単に戸惑ってのことだけじゃないと思った。本当にそれ以上の何かがあって、そのことを伝えようとするような声。
「じゃあパッと行ってパッと帰ってくる! それでいいでしょ!」
そんなのを、窓架は全然聞いちゃいない。
実際、聞いている時間もなかった。
「――来た」
おれたちには聞き取れないような段階で、あずきが言った。立ち上がる。カーテンを開ける。閉める。
「近付いてきてる。どっちにしろ、ここにはいられない」
行こう、と。
おれたちは、また百羽を引っ張るようにしてその家から出ていった。
「百羽」
後部座席には、珍しくおれが座ることになった。
窓架が助手席に先に乗り込んだからだ。多分、ここには役割の分担がある。話を聞くのがおれの役目で、聞かないのが窓架の役。いざっていうときに、どちらか片方は百羽に対して強く出られるように。
「何かあるんだろ。さっき言いかけたこと」
雨を切り裂いていく車の中、おれは顔を寄せるようにして、そう問いかける。
うん、と力なく、不安そうに百羽は頷いた。
「何か、お祖母ちゃんは〈塔〉に隠してるんじゃないかと思って」
「何かってのは?」
「わかんない。けど、本当に何の組織の支援もなしでお祖母ちゃんがあの〈塔〉を維持できてたなら、何か理由が――」
ぐぃん、と一気に車が左に傾いた。
ほとんど横転するような勢いだ。百羽がおれの方に倒れ込んでくる。持ち上げるよりも、抱き留めた方がよっぽどいいような気がした。そのまま腹で抱え込むみたいにして、車が持ち直すのを待つ。
それから、
「おい、何だよ今の――」
「空だ」
あずきが、運転席で前のめりになって言う。
「空?」
おれも、百羽と一緒になって、後部座席の窓から空を見た。
信じられないものを見た。
「ゆ、」
「特科会?」
百羽が言う。あずきが進行方向を変える。窓架が指示する。その合間に、質問が飛んでくる。
「何それ」
「特殊科学振興会って言って……」
百羽は語る。さっき言ったみたいに、この国には色んな勢力がある。そのうちの一つ。世界が曖昧になって物理法則が揺れてるのをいいことに、永久機関とか宇宙開発とか、そういうのを進めようとしている団体。
まんまだ、とおれは思った。
だって、空にあるのはどう見てもUFOだったから。
百羽が言うには、こいつらは物理法則が一定程度安定してないと困るから、比較的『総理大臣』が所属している政府には親和的な方で、
「もしかしたら、助けに――」
「こっち狙ってる!」
ビームが出る。
本当に窓架の言う通りおれたちを狙っていたのにあずきが反応できたのか、単に適当にそのへんに撃ったのか、それとも威嚇射撃みたいなものだったのか、全然わからない。急にパッと雷が落ちたみたいにあたりが光った。多分車のすぐ横を通った。咄嗟に百羽の耳を覆って自分の分を忘れたら、そのせいで轟音が頭の芯まで響いて、しばらく耳が聞こえなくなる。
「――っけ――かい――」
多分、「ざっけんな」「迂回する」だと思う。
そうじゃなかったら「磔刑」「五回殺す」だ。肌で感じるくらいの罵声が窓架の口から放たれる。全然話が違う。あずきが一気に獣道に入っていく。空から見えないように、ちょうど街を呑み込んでくださった森の中を行く。
「――じょうぶ? 玲ちゃん」
百羽に顔を触られて、ようやく聴覚が戻ってきた。
まだ頭の中に星でも飛んでるような気がする。それでもやせ我慢を見せつけて、「ああ」と答える。
「全然味方じゃなさそうだな」
「……うん」
でもなんで、と言いたげな顔で、百羽は窓の外を見る。
何にしろ、今がチャンスだった。
ビームを撃つ方も撃つ方だが、撃たれる方も撃たれる方らしい。〈塔〉の周りにレインコートが相当数いるのを覚悟していたが、反撃にでも出たのか、随分手薄になっていた。近くの茂みに車を乗り捨てる。行くぞ、と雨に隠れて、ずぶ濡れのまま中に入っていく。
人の家を散々にしやがって、というのが正直な感想だ。
雨に濡れているってだけの話じゃなかった。どうも、中で暴れた跡がある。おれたちを探していたのか。それとも単なる嫌がらせか。わからないが、壁が凹んでいたり、泥が跳ねていたり、この先のことが思いやられる。いや、
そもそも、おれたちはここに戻れるのか?
急に、背筋が寒くなった。
「みんな、こっち」
とうとう百羽が先導を始めた。
おれたちがついてくるのを諦めたのか、それとも自分と一緒にいさせた方が安全だと冷静に判断したのかはわからない。しかしとにかく、百羽が先頭になった。あずきがその隣。おれと窓架が後から続く。
コンビニは、荒れ果てていた。
棚は壊れて、商品は散らばっている。カウンターだってだいぶ削れて、レジなんかひっくり返ってる。ついでに言うなら、廊下から流れ込んできた雨で、床も水浸しだった。
「こっち」
それでも百羽は、迷わなかった。
初めから知っていたみたいな動きだった。カウンターの奥に入っていく。歪んだ扉を開ける。スタッフルームの方。不思議と、ここだけは雨が降っていない。何の足跡もない。
扉を開ける。
誰もいない部屋。
「百羽、あの婆さん最近――」
言うべきだと思ったのは、その部屋が明らかに目的の部屋だったから。
こたつがある。帳簿らしきものが収められた棚もあれば、パソコンだってある。明らかにここが本命の場所。
なのに、婆さんの姿はない。
「見なくなって、もしかしたら――」
「うん」
もしかすると、そこまで予想していたんだろうか。
だからあのとき、百羽は窓架の言ったことに戸惑っていたのかもしれない。本当の目的は、婆さんを助けることじゃなかったのかもしれない。
百羽は、パソコンを起動した。
「何をするんだ」
「〈塔〉の基盤システムを解析する」
キーボードにも、マウスにも触れていない。
ただ、その本体に触れているだけ。なのに画面が次々に切り替わっていく。
「お祖母ちゃんは魔法使いじゃなかったから。何かしらのテクノロジーでこの〈塔〉を運用してたはず。それさえ引っこ抜ければ、どこか別の場所で――」
やり直せるかも、と言葉が抜けていく。
画面の動きが、止まった。
「どうした、百羽」
「――生きてる」
呆然と。
目を大きく開けて。震える声で、百羽は言う。
「お祖母ちゃん、まだ生きてる」
そのとき、轟音が響いた。
「何々何々!? 今度は何!?」
おれたちの頭上からだ。つまり、〈塔〉の上層。おれたちは思い出す。昔、みんなでこの〈塔〉を巡ったことがあった。階段がなかった。五階以上に行く手段を見つけられなかった。
最近、婆さんの姿を見なくなった。
この〈塔〉の中で、おれたちが調べられない場所があるとしたら――
「上にいんのか!? 婆さんは!」
「わか、」
「あずき、窓から入ってくる!」
「――くそっ!」
何かが始まったんだ、と思った。
あるいは、その逆のことを。
轟音を機に、〈塔〉が揺れ始めた。衝撃が絶え間なく与えられている。いつ崩壊するかもわからない。この場所もバレた。レインコートが、それだけじゃない、万華鏡を呑み込んだみたいな色をした無数の影が、窓を叩いている。一斉に。どんどんどんと。叩き続けてる。
ガラスが割れる。
あずきが再び、刀を出した。
「とにかくこっから出るぞ!」
こうなったら、おれだってなりふり構っちゃいられなかった。
棚を蹴倒す。机だって持ち上げてぶん回す。もちろん、そんなんじゃ全然足りやしない。あずきが刀をぶん回してるのに比べれば、前蹴りなんかかましたところで大した時間稼ぎにもならない。
それでも、奥から抜けて、コンビニに戻ることくらいはできる。
「先に車戻ってろ! おれが上見てくる!」
見てきてどうなるかなんて、正直、考えてもいなかった。
だけど、百羽が目に見えて動揺してたから。ここで「さっさと逃げよう」なんて言ったって、どうせろくなことにならないってわかってたから。それならあずきに二人を任せて、比較的身軽なおれが突っ込んでいった方がいい。
「わた、」
もちろん、頭の中で描いただけの計画なんて、そんなに上手くいきやしない。
「わたしも行く!」
「ばっ、だから――」
「いいから、」
窓架がおれたち二人の袖を思い切り引く。
そのとき、一際大きな音が響いた。
同時に、光も。
目も眩むような明かりが窓から飛び込んでくる。昼かと思ったなんて、それどころの話じゃない。さっきのビームよりもひどい。顔面に雪玉を叩きつけられてもこうはならないって視界で、光が消えてからも、しばらく瞳に残像が残ってる。
それどころか、その残像が消える前にもう一発、光がやってくる。
「こんなんで外に出られるわけないでしょうが! 行くなら全員で行く!」
よく話せるもんだ、と感心した。
もうおれは、強烈な光と音に身を晒されて、今が夢なのか現実なのかすらわからなくなっている。百羽と手を繋いでいた。それだけは確かで、駆け出して、あずきが無理やり前に出て、階段を上って、何か、窓架のシルエットもいつもと違って、もつれる足で、今が三階なのか四階なのかもわからなくて、
踊り場の向こうに、光が見える。
それは、槍みたいにおれたちを指し示しているように見える。
「玲ちゃ、」
そうだよな、とおれはそのときに、思った。
こういうときのために、おれは一番後ろを走ってきたんだよなって。
思ったから、百羽を前に突き飛ばす。
もう、何も聞こえなかった。窓架がそれを受け止める。窓架ごと、あずきがそれを受け止める。口が開いてる。何かを叫んでる。行けよ、とおれは呟く。きっと届かない。間に合わないことは知ってる。
振り向く。
冗談みたいに激しい光が、踊り場の窓を目がけて飛んでくる。
一匹の蛇が、それを受け止めた。
おれはそれに、見覚えがあった。
もう、それはとんでもなく遠い昔のことに思えた。何も知らなかった頃のこと。百羽の実家で。おれは、その蛇を見た。あのときはこんなに大きくなかった。おれたちを庇って光を受け切れるほど太くはなかった。〈塔〉に巻き付いたみたいに、窓からじゃほんの一部の姿しか覗けないほど、長くはなかった。
おれは、あのころ、
「――母さん?」
その蛇のことを、何も思い出しちゃいなかった。
「母さん!」
おれは、駆け寄ろうとした。
でも、それは叶わなかった。誰かがおれの腕を引いたから。それが優しさからだってわかったから。母さんも、それでいいって言うように頷いたから。
〈塔〉の外周で、何かが巡り始める。
モーターみたいに。タービンみたいに。大きな機械が回転するように、何かが巡り出す。音も光も、一層激しくなる。
ガラスというガラスが、割れていくようだった。
〈塔〉が赤熱していく。何かが起こる。何が起きるのかわからない。何度も起こった気がする。光が入り乱れる。音それ自体が壊れたみたいに反響してる。腕を引かれる。行かなきゃいけない。
どこへ?
振り向く瞬間、ガラスに映った自分の顔が目に入る。
縦長の瞳の、
鱗の生えた、
ずっと昔から知っていたはずの、
蛇の、
∞
蛇と目が合った。
ばっちり。七段目を踏んだとき。
「ねー、玲ちゃん」
おれは、それから不思議と目が離せなかった。
「やっぱりあのセーター見つかんないよ」
どうしてそうなってしまったのか、自分でも全然わからない。ただ、そういう風になっている。百羽の古い実家まで、付き合いで冬服を取りに来た日。おれは、天井へと向かう階段が朽ち果てているのを見て、じゃあ上はどうなってるんだろうって好奇心で、脚立まで持ち出して、その一番上の、七段目で、
「どこしまったか全然覚えてない」
なぜか、その蛇をじっと見つめたまま、
「ねえ、聞いてる?」
ぐい、と百羽に、服の裾を引かれる。
「――え、泣いてるの?」
わけがわからなかった。
降りなよ、と言われて降りる。おれはどういうわけか、涙が止まらない。どうしたの、と百羽が訊く。おれが訊きたい。どうしてこうなっているのかわからない。悲しいとか切ないとか、そういう気持ちがあるわけでもない。ガスでも浴びたみたいに、ただ涙腺が壊れたとしか言いようがないような状態で、しゃくりあげるわけでもなく、それを拭うわけでもなく、ただひたすらに、涙を流し続けている。
「あ、えっと」
百羽は、困っていた。
意味もなく左右を見たりした。上を見たりもした。手が、行き場を失ったように肩の高さでうろうろしている。いつからおれと百羽には身長差なんてものがついたんだろう。百羽は、下から覗き込むようにおれを見つめている。
「だいじょうぶ」
その手がおれの、背中に回った。
「わたしがついてるよ」
それで俺は、何だか。
溶けてなくなってしまいそうなくらいに、温かくなった。