「おかえり」
これは私が大学生の頃、友人から聞いたお話でございます。
その友人は昔から所謂「視える」体質だそうで、幼い頃から壁の隅に女がいるだとか、甲冑を着た人間が刀を振り回していただとか周りに話しては大層気味悪がられていたそうです。
誰にも信じて貰えず、学校でも浮いた存在であった彼には地元を離れるまで友人がおらず、住んでいた場所も閉鎖的な田舎であった為殆どの時間を一人で過ごしていたのだとか。
そんな彼ですが、決してその頃のことが嫌いだとか、寂しいものであったという訳じゃなかったそうです。霊的なものが視えるということで子どもの霊と過ごしたり、害のない存在と話したりして過ごしていたらしく、彼にとっては生きている人間の機嫌を伺うよりそちらの方が気が楽だと申しておりました。
ただ、やはりいい霊ばかりではないらしく、悪いものや危険なものに目をつけられることもあるようで.......この話はその中でも彼にとって忘れられない出来事の一つです。
それはある夏の日の帰り道でございました。
同級生に押し付けられた日直の仕事と掃除を代わりに行った為いつもより遅く、日の暮れる時間に帰ることになりました。
彼の家は少し学校から遠く、閑散とした住宅街を通り抜けた先にあるのでゆっくり歩いては日が落ちてしまうからと小走り気味に、いつもは使わない近道を使うことにしたそうです。
後から考えると何故そこをいつも使わないかをその時ばかりは忘れてしまっていたとばかり思っていましたが、思い返せばそこからきっとおかしなことに巻き込まれていたんでしょうね。
その近道は少し近くの家の影がかかっただけの普通の舗装された道に見えます。しかし、見る人が見れば色々なものが集まる霊道のようなものができているそうです。実際、何も無いところで子どもがよく転けるとか、自転車事故が多発しているとかを考えると何かはあるのでしょう。
彼も足を踏み入れてから「あ、しまった」と一瞬思ったらしいのですが、それよりも急く気持ちが強かったのでそのまま通り抜けようとしたんですね。何かがいても反応せず、顔を合わせなければ大丈夫だろうと下を向いて足早に進むことにしました。
道の真ん中までは何も無かったんですよ。そう長くない道だし、気も緩んだんでしょうね。
ふと顔を上げてしまったんです。そうしたら、明らかに人のものじゃない手が壁からゆらゆら揺らめいてるんですよ。しかもそちらの方向から、か細い声で「おかえり、こっちだよ」って聞こえるんです。
普通なら行こうとは思わないでしょう?
でもね、彼は行ってしまったらしいんです。なんでも、行く他にないとかそういう脅迫的感情に駆られたんじゃなくて、安心感を感じたらしいです。
頭のどこかでは危険だと分かっているのに、自分はここに「帰っていい」と……そう思ったんだそうで。
そうして彼は手を引かれて、壁の中に入ったらしいんですけどそれからの記憶はさっぱり。いつの間にかその引き込まれた道に突っ立っていて、一週間近く経っていたので地元の警察や親に探されて大事になって大変だったそうです。
色々と聞かれもしましたが、証言もまあまともではないと取り合ってもらえる訳もなく、特に怪我もせず健康体だったので問題ないだろうと有耶無耶なままその事件は終わりました。
一つだけ、彼の目の色が黒から赤に変わったことを除いて。
一体彼はどこに帰っていて、その後ちゃんと元の家に帰れたんでしょうかね。
「……で、それはアンタの話か?」
話を聞きながら煙草を吸おうとして、湿気ていることに気付く。そもそもライターのオイルも切れている。思わず舌打ちをした。
「さぁ?どうでしょう。でも私はこの話をする際に決め事をしているんです。それはね……」
目の前の男は小憎たらしげに微笑んでいる。そして、わざとらしくマッチを取り出した。
「……“還るべき者”が聞き手の時だけ、このお話をしているんですよ」
ボッ、とマッチの燃える音がして男の煙管に火がついた。燻る煙の中、己の意識がぐるりと蛇に巻き付かれたかのようにゆっくり呑まれていく。
「おれ、は……」
もがき、男を掴もうとしても己の手は霞のように空を掴んだ。
本当は分かっていた。とうの昔に死んでいたことなど。
それでも嫌だ、ここを離れたくない。
認めたくない。
ここで煙草を吸って、ただちょっと休憩したかっただけで。
たまたま刺されただけで俺の居場所はずっとそれからここにしかない。この場所以外にいる所なんてない。お前なんかに邪魔をされてたまるか。
どろりと思考が溶け落ちた。怨嗟に満ちた感情だけで目の前の敵に抗おうとしたがそのどれもが辿り着くまでにかき消されてしまう。
「貴方は既にこの世の者ではありませんよ、在るべき場所におかえり」
男はそう言葉を告げ、ふぅ、と息を吐き出した。
そうしてゆるりと弛んだ赤い二つの月を最後に、地縛霊は路地に烟る煙の中へと消えた。