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人斬り無迅シリーズ

人斬り無迅と神秘の赤花

作者: 田中一義

 人斬り無迅シリーズ

 『人斬り無迅と悪夢を見る少年』 https://ncode.syosetu.com/n3677ga/

 『人斬り無迅と妖刀シャガ』 https://ncode.syosetu.com/n8378gs/

 『人斬り無迅と三途の使徒』 https://ncode.syosetu.com/n3947hg/

 上記の続きものなので先に読まないと分からないところも多いかと。



















 何か食べたくてたまらないという経験はなかった。

 夏の暑い中、冷房を使えずに汗をダラダラ流して過ごさねばならぬという経験もなかった。

 冬の寒い中、冷えきった部屋でガチガチ震えながら過ごさねばならぬという経験もなかった。

 小遣いは他の子に比べれば多めにもらえていた。

 きっと、何不自由のない生活というものを送れていたのだろうとリオは考える。


 だが、その生活はある日にいきなり失われた。

 江戸時代か、戦国時代か、あるいはもっと古い時代か。

 洋服がなく誰もが着物を着るか、あるいは(ふんどし)一丁で仕事をするか。

 家屋はどこもかしこも木造ばかりで、窓にはガラスなんていうもののない自然素材。

 道と言えば舗装という概念さえ知らぬかのように踏みしめられた剥き出しの土色の地面でしかない。

 そして神器(じんぎ)と言われる超常現象を引き起こす道具や、ただただ恐怖を与えてくる鬼のようなものまでいる、絶対にただの過去という場所ではない、異なる日の本にリオは飛ばされてしまった。


 何でもいいから食べたいという飢えを経験した。

 蝉が元気いっぱい、お腹いっぱいに泣き出す真夏の山道を虫に食われながらひいこら言いながら登った経験もある。

 衛生観念というものからかけ離れた環境に何度も泣き言を漏らして、死にそうなほどに痛い目に遭った。

 それでも、以前の生活よりもリオは振り返れば充足感を抱いていたかも、と言えただろう。


 ――流石に、利き腕を失うまでは。


 ▽


「リオちゃん、どう、具合は?」

「……あ、はい。随分、良くはなりました。けど……その、右手がないと、色々と不便なのが慣れないというか」

 13歳の少年にとって、死にかけでどうにか人に助けを求め、気がついたら右肘から先がなくなっていましたという現実は受け入れがたかった。

 傷口から入り込んだ良くない何かのせいで十数日もの間、高熱を出したり、微熱に下がったり、また高熱になったりという間、手がない、手がないと何度も呻き続けたほどである。

 どうにか熱が下がっても、ただただ呆然としながら静養する日々を過ごした。

 手がない、手がない、と毎晩、うなされるほどであった。

 そしておおよそ三ヶ月ほどが経った。

「そうよね……。あったものがなくなってしまうんだから、辛いのも分かるわ」

「……あの、ほんとに、手、切り取っちゃうしかなかったんですか?」

「なかったわよ」

「そうですか……」

 力なく答えて、リオは失った自分の右腕を見る。

 肘から先――切断面までにかけて晒布が巻かれており、時たまにその下の皮膚や患部がたまらなく痒くもなる。

 しかし、そんなことより、あるはずの手がないという違和感がずっと残り続けた。そして本来あったはずの箇所に疼くような痛みさえ感じることもある。単に疼く程度の感覚で済むこともあれば、皮膚が剥がされたような強い痛みを感じることもあった。

 その度、どうしようもなくリオは喪失感を抱く。


「……あのね、リオちゃん」

 左手での、やはりまだ慣れない食事がようやく済んだところで彼女がいつになく落ち着いた声色を発した。

「はい……?」

「あなたの状態も随分と回復したようだし、そろそろ、わたしはまた発とうと思っているの。このお家も引き払ってね。……だから、あなたもどうするか考えた方がいいかと思って」

「……あ、はい……そうですか……」

「わたしの都合でごめんなさいね」

「いえ、そんな、むしろお礼を僕が言わなくちゃいけないくらいで。……ありがとうございます、本当に」

「いいのよ、何かの縁だったのよ。あなたが死にかけていた。偶然わたしがいて、どうにか処置ができそうだった。それだけのことなのだから」

「だけど巴さんがいなかったら、死んでたかも知れませんし……。いつ、発つつもりですか?」

「そうね……。数日、支度があるから、3日ほどかしら」


 リオには無迅という悪霊で、人斬りの大剣客を自称する連れがいた。

 今は半ばから折れ砕けた澄水という刀に宿っていた。

 しかし激しい戦いの中で澄水は砕け、無迅もまた消え去ってしまった。

 その時の傷が酷く、リオはどうにか人のいるところまで半ば意識をなくしながら歩けたが、意識を取り戻せばその場にいて善意で処置をしてくれた旅の女医である巴に右手を切断するという処置をされていた。

 他に手はなかったのかと、何度も思い出したように訪ねてしまうが、その度に彼女はなかったと答えてくる。


 その女医――巴は旅歩きの医者と意識を取り戻したリオに名乗った。

 年齢は三十路前後といったほどの美人で、甲斐甲斐しくリオを看護してくれる優しい女性だ。艶やかな黒い長い髪と、女らしい少しむちりとした体つきで、何よりもスタイルが良かった。着物姿のためにはっきりと見て取ることはできないものの、きゅっと帯で締められた腰は他のご婦人に比べれば細く、しかし尻はやや大きいかと見比べられる。たまに前屈みになったりして意図せず見えてしまう胸にははっきりとした谷間があった。

 右腕がなくなるという処置さえなければ、こんな美人と三ヶ月ほどの期間をともにして下心を抱かないはずがなかった。

 しかし、右手がない。

 それをした張本人というファクターのみで、リオは彼女に浮かれた下心を発露させることがなかった。


(どうしようかなあ……。これからなんて、何も考えられないよ。手もないし。……手、ないし……)

 ぼんやりとリオはボロ小屋の表へ出て考える。

 リオが巴に処置を受けたのは天丘(てんきゅう)というこの日の本の首都たる都へ続く長い長い登山道の中腹ほどのところであった。

 熱にうなされていた間はその山小屋のような休憩処で看護されていたが、少し回復したかという頃、とうとう、そこの旦那がいい加減に出て行ってくれと言い、下山者の協力を受けてリオは麓にある小さな農村まで運び込まれた。

 リオと同じように天丘から下山していた巴が、そこへ向かう前に立ち寄っていた縁があって彼女がしばらく逗留できる場所を借りたいと申し出るとすぐに空き家をあてがってもらえたという経緯がある。天丘の麓には多くの農村があった。収穫した作物のほとんどは天丘に納めなければならないために貧しい暮らしを強いられている。だが彼らにはそれが普通のことだった。

(朝から晩まで泥んこになって働いて……楽しいことなんてほとんど知らないで、働き続けて死んでいっちゃうのか……)

 少し冷えてきた季節にも関わらず、褌一丁で作物を収穫しているお年寄りを遠目に眺めてリオは考えてしまう。

 学力不振だったリオだが、昔の日本が百姓に生まれたら死ぬまで百姓だったという程度のことは知っている。きっと、この日の本も同じような常識なのだろうとは、ここまでの道すがらに察していた。

 上流階級に生まれれば楽かもしれないがそんなものはほんのひと握りで、99パーセントに近い人々が貧しく厳しい暮らしを当然のものと受け入れて暮らしている。自分は恵まれているとリオは思えた。

 しかし、そういうことを目の当たりにしても同情するだけだった。

 世の中を変えてあげようという気持ちは生じない。

 自由にしたっていいじゃないかと唆そうという気持ちは生じない。

 自分はきっと、ここでは異物の余所者なのだから責任も取れぬ下手な助言などしようがないと考えている。

(ほんと、どうしよう……。手、ないし……)

 そこに右手があったはずのところを左手で触れようとし、ないことに気づいてリオは嘆息する。

 少年は途方に暮れている。

 これまで感じたことのない空虚なものを感じ取っていた。


 ▽


「あら、何しているの?」

 砕けた無惨な刀の残骸と破片を床に広げ、リオは眺めていた。

 後ろから巴に声をかけられて首を巡らせて彼女を見てから、リオはまた刀の残骸達に目を戻す。

「大切なものなんです……。だけど、ただこのまま持っていても何だか、呆れられるのかもとか思って……」

「呆れられる? 誰に?」

「……何というか、何て関係か、分からないんですけど……どうしようもないろくでなしの、恩人というか、勝手に師匠を名乗って付き纏ってた人というか、悪霊というか……」

 後半はごにょごにょと不明瞭になり、巴には聞き取れなかった。

 とにかく彼女は恩人のような相手だろうと勝手に察する。

「厳しい人だったの? 感傷に浸るのを呆れるなんて」

「……厳しくは、なかったかもです。……巴さんに助けてもらう直前まで、一緒だったんですけど突然、一方的にいなくなっちゃって、それきりもう会えないようになっちゃったから、何だか、いまだにどうしようって思っちゃって。明日にはもうどうするか決めなくちゃいけないのに」

「そう……。ねえ、リオちゃん」

「はい?」

「良かったら、一つ、お互いに身の上話なんてどう?」

「……僕は、話ができるほどのことなんて、ほとんどないので」

「いいのよ。その恩人の人のことでも教えてくれれば。そうそう、長老さんがね、餞別にってお酒をくれたの。でも旅歩きしながらお酒をいただくわけにもいかないし、今夜、飲んじゃおうと思って。その肴にしましょ。決まり。ちょっと待ってて」

 巴がほとんど片づいている土間の竈門で湯を沸かし始め、そこへ突っ込んだ徳利に酒を注いで温め始める。

 未成年だから酒なんて飲めないと密かにリオは考えていた。


「あのね、リオちゃん。本当は内緒のことなんだけど、わたしね、家出娘なのよ。もう娘って年でもないけど」

 お猪口の酒を一杯、くいと傾けて飲んでから彼女はそう言い出した。

「家出、ですか?」

「ええ。15のころ。ここから西、ずっと西の方に石白(いしじろ)というところがあるの。そこがわたしの故郷。八天将の蒼莱(そうらい)様という方の領地なの。石白は、文字通りの白い石の岩盤が地下にあって、それを切り出して各地に売っているのよ。天丘にある天子様の御宮にも使われている高級なものなの」

「へえ……」

「で、わたしはその石白の石切場を仕切る頭領の娘。だけど男の子が生まれなかったのよ。六人姉妹だったんだけど大人になれたのはわたしと妹が1人だけ。だからね、婿養子を取るためにって縁談が15のころにまとめられたの」

「15歳で結婚って……普通ですか?」

「もっと早くお嫁にいく娘もいるでしょうけど、特別っていうわけではないでしょうね。女なんて20までには1人くらい生んでないと何言われるか分からないものだもの」

 やっぱり価値観がまったく違うのだとリオは静かに関心する。

 しかし、そうなると巴はこの日の本の常識からはかなり外れているのだとも思えた。

「縁談が決まってから、初めてその相手とお会いしたの」

「決まってから?」

「ええ、縁談なんて当人以外のところで決まるものよ」

「……何だかすごいですね」

「普通よ、これくらい。リオちゃん、もうちょっとお勉強しなくちゃね」

「……はい」

「それで、その相手が父の石切場で働いていた若い石工だったの。若いけど筋が良い有望株って言われていてね。目元なんて吊り上がってるくらい凛々しくて、男前のがっしりした人。だけど……何だか、夫婦としてその方とやっていかなくちゃいけないと思ったら、酷く怖くなってしまってね。結婚なんて結ばれてからのことだって母にも言われたのだけど、それが何だか虚しく思えてしまって」

「それで、家出……?」

 何だか、それならドラマか何かで見たことがあるかも知れないと安易にリオは考えていたが、巴はいいえ、と神妙な顔をしてからお猪口の酒をまた一口含んだ。

「悩んでいた時にね、ある人に出会ったの」

「……もしかして、別の人を好きになっちゃったとか」

「そう!」

「え、えっ? じゃあ、駆け落ちみたいな……?」

「ところがそうもいかなかったのよ」

「どうなっちゃうんですか?」

 最初は興味をあまり持っていなかったのに、いつの間にかリオは聞き入っていた。

「その人は成衛(せいえ)先生というお医者だったの。妹が病気にかかってしまって、いつものお医者の先生を訪ねて呼びに行ったのだけれど留守にしていて、代わりにお知り合いという成衛先生がいらっしゃってね、往診に来てくださったのよ。その当時で40も半ばくらいだったのだけど、診ていらっしゃっている時はとても真剣な眼差しなのに、お茶を差し上げたらお話がとても面白くて素敵な方でね」

「あの」

「なあに?」

「巴さん、その時はおいくつですか……?」

「15よ」

「先生が、40歳すぎ……?」

「あら、恋に年の差なんて関係ないんだから」

「そ、そうですか……」

 それにしても年の差ではないだろうかとリオは思う。

 リオとしては15歳というのは中学生か高校生で、そんな女の子が40歳すぎのおじさんと恋というのは犯罪臭しか嗅ぎ取れない。これも価値観が違うがゆえだろうかなどとふと冷静に考えてしまった。

「成衛先生はね、今のわたしと同じようにあちこちを旅して歩きながら、お医者がいないような村なんかで治療をして回っている偉い方だったの。その旅歩きの話がとっても面白くて、一気に好きになってしまってね。結婚をするなら、成衛先生のように何にも捕らわれない風のような方がいいなって思ってしまったの」

「それで、家出?」

「もう、リオちゃんって意外にせっかちなのね。端的に言ってしまえばそうだけど、色々あったのよ。用事もないのに成衛先生がご滞在なさっているお医者様のところへ通って口説こうとしたり、それでも小娘の戯言だって感じで相手にしてもらえなくてやきもきしたり。……それでね、成衛先生がとうとう、また旅立つっていうことになってしまったの。いてもたってもいられなくて、このまま成衛先生を見送ったらわたしは縁談の通りに結婚をして、ずっと家に縛られてしまうって思って、父と母に思いを打ち明けてみたり……。当然、反対されちゃってね、あんまりしつこく食い下がっていたらとうとう、父に頬をぶたれて、その勢いで家を飛び出して、それきり帰っていないの。成衛先生を追いかけて合流しても、帰りなさいって冷たくされてしまったりして、でもずうっと付き纏ってね。野盗の一団を退治するために戦ったお侍様達が大勢、負傷者を出していて、成衛先生も手が足りないからってとうとうわたしに手を貸しなさいって言ってくださって、必死で言われるまま手当のお手伝いをして……。ありがとう、ありがとうってお礼を言われてしまって、本当に大したことなんて当時はできなかったのにね。けれど、そう感謝されてしまうと嬉しくて、わたしも医術を教えてくださいって成衛先生に弟子入りをしたの」

「はええ……それで、巴さんもお医者さんに」

「ええ。成衛先生と一緒に、あちこちを巡ったわ。二言目には、この家出娘めって叱られたりもしたけど楽しかったな」

 しんみりと巴は語り、とうとうお猪口一本分を飲み干した。

 楽しいこと以上に辛いこともあったと彼女は語ったが、その詳細は口にしなかった。しかし自分の力が及んで患者が回復し、お礼を言われるとそれまでの苦労や辛いことが吹き飛ぶように嬉しくてたまらなかった、とも。

「旅っていいわよね。大変なことはたくさんあるし、人の不親切に参りそうになることもあるけど、それよりももっともっと素敵なことを手に入れられるって思うの。リオちゃんはどう?」

「……正直、まだ、大変だなってことばかりしか」

「あら、本当? ほんの束の間でも、楽しいこととかあったでしょう?」

「そりゃ、たまに……あったかな……?」

「あるわよ。思い出してみて。ほら」

「そう言われても――」

 膝を崩して、片手で体重を支えて身を乗り出すようにして座っている巴に顔を覗き込まれて、リオは彼女の着物の合わせの隙間に豊満な胸の谷間を見てしまう。

 そこからパッと連想され思い出したことを、リオは口に出しかけたが、スケベと思われたくなくて頭を左右に振る。

「何よ、その反応? 何かあったでしょう?」

「あ、あるにはあったかもですけど」

「いいじゃない。変なことでもいいから」

「だって……」

「大丈夫よ」

「……その、前に、巫女の姉妹とちょっとだけ道連れになったことがあって。お姉さんが巴さんと同じくらいの年だったと思うんですけど、ちょっと病気がちというか、体が弱かったんです」

「ええ。それで?」

「だから山道とかを歩くのが大変で、僕がおんぶして歩くことになって」

「あら。リオちゃんやさしいじゃない」

「やさしいっていうか、その……引かないで欲しいんですけど、おんぶしたら、背中にその、お、おっぱ……む、胸が当たって、もしかして、みたいなこと考えたというか……」

「ふっ、ふふふ……! やだ、もう、かわいいこと考えちゃって!」

 思い切り笑われてリオはいたたまれずに赤面するが、ひとしきり笑ってから巴は、はあと息を吐いて呼吸を整えた。

「それでどうなったの?」

「……正直、おんぶして歩くだけで僕が疲れすぎちゃって、全然、何も分からなくて、辛かっただけで終わっちゃいました」

「ふふふ、かわいそうに。他にはないの?」

「他ですか……? その姉妹の妹の女の子が、僕と同じくらいだったんですけど、ちょっと揉め事があって、僕の力じゃないんですけどどうにかしたら、僕のこと、リオ様とか呼んで、偉い人みたいな口調で話してくれたりしたんですけど、何だか僕はそんなじゃないのになあって戸惑っちゃうんですけど……ちょっと、嬉しかったかな、みたいな」

「良かったじゃない。でもリオちゃん、話してみると腰が低いけれどどこかの武家の子息みたいな感じはあるのよね。物腰が丁寧だし、やさしい子なんだなって分かるし、所作がそこら辺のお百姓じゃないもの」

「と、とんでもないです……。僕なんか、世間知らずの、ただの無力な子供で……自分じゃ、何も決められないし」

「いいこと、リオちゃん。自分をそう卑下しているから、そうなのよ。自分でそれでいいって思うなら別よ? でもそうじゃないなら、こうなりたいんだって思ったことを嘘でもいいから口にしなくちゃ」

「でもそれだと嘘つきみたいな……」

「嘘じゃなくなればいいだけよ。言霊って知ってる? 口にした言葉には力が宿るのよ。だからまず、口に出すの。そうしてからがんばる。それぐらい図太くならなくちゃ」

「言霊……」

 そんなもので効果があるんだろうかとまず疑いにかかってしまったリオだが、巴を見ていると何だかそれもありなのかも知れないと思えた。

「そうそう、リオちゃんのいなくなってしまったっていう恩人さん? その人のことも教えてちょうだい」

「あ、はい。えと……信じてもらえないかもなんですけど、この、壊れちゃった刀に悪霊が宿ってたんです」

「悪霊?」

「人斬り無迅って名乗ってて、何だかすごく、どうしようもない感じで……」

「あら、それどこかで聞いたような……?」

「勝手に僕の体を操って、この刀で平気で人を斬り殺しちゃうんです。その間、僕は意識はあるんですけど自分じゃ体を動かせなくて、斬られれば痛いけど無迅は痛いのに全然、怯んだりしなくって平気で刀を振り続けちゃって……。それで毎晩、夢に出てきて、稽古だとか言って、一方的に殺してくるんです。僕も抵抗しようとするんですけど、何したって意味がなくって、でも毎晩、毎晩、毎晩……延々、殺してくるんです」

「壮絶ね……。でもそれが、恩人?」

「最初は、こんな悪霊どうにかしなくちゃって思うんですけど、見ての通り……その、貧弱で、そのくせ、何か妙な危険なことに巻き込まれるというか、無迅のせいで首を突っ込んじゃうというか、そういうことがある度、無迅がとんでもない化け物を斬り伏せてくれたりするし、これからどうしようって悩んでても、とりあえずあっち行けとか、川べりには集落があるから川沿いに歩けば誰かしらに会えるとか、そういう助言はしてくれたりして……。ふと気づくと、心を開いちゃって」

「振り回されるのが楽しかったの?」

「楽しくは……でも、そうだったのかも……?」

 否定しかけたが、まったくそうでなかったとも言い切れずリオは尻すぼみに自問してしまう。

 その様子に巴がまた微笑ましそうに笑った。

「リオちゃんは正直よね」

「そうですか……?」

「ええ。嘘とか好きじゃないでしょう?」

「だっていけないことだと思いますし……」

「そう思っても、ついつい嘘をついちゃうのが人よ。だけど素直に、嘘になりそうだったらお茶を濁したりして。そういうところが正直って思うわよ」

 そうなんだろうかと省みてみるがいまいちリオには分からない。

 他人に迷惑をかけてはいけないという自意識の強さをリオは自覚したりしていなかったりする。

 巴に促されるままリオは無迅のことを語った。

 そうしていると、いなくなってしまったことへのやるせない怒りのようなものや、寂しさを再認識させられた。あんな悪霊のためにめそめそしているのも仕方がないとまで思えるのに、ふと横を見ればそこにいるような気がして、またしんみりとさせられる。

「いてもいなくても、悪霊っていうか……。むしろ悪霊感が増したかも……」

「つまり、リオちゃんのここにずっといるってことよ」

 つんと胸元を指さされながら言われ、リオは難しい顔をする。

 それはそれでやはり厄介極まるような気がしてならない。

「ね、気分はどう?」

「はい? 気分……?」

「ずっと浮かない顔をしていたでしょう? ただ人に話すだけでもふっと気が楽になることってあると思って」

「……何だか、言われてみればすっきりしたかも知れません」

「そう。じゃあ良かった」

「ありがとうございます」

「いいのよ。……それじゃあ寝ましょうか。――っと、その、前に。リオくん、結局どうするか、決められそう?」

 飲み干した徳利を持ち上げて片付けかけた巴が中腰の姿勢で思い出したように尋ねる。

 曖昧そうにリオは目を泳がせてから、肩をすくめた。

「そう……」

「あの、もし……迷惑でなかったら、邪魔でなかったらでいいんですけど」

「ええ」

「巴さんについて行ってもいいですか……?」

「……わたしに?」

「あ、あの、ダメならダメで、いいんです。ほんと、あの、ただ自分で何をしたいかなんてまだ分からないし、あと散々、お世話になったので何か道中でお礼とか、もしできることがあれば……なんて思ったり、するんですけれど」

「そう。分かったわ。じゃあ、もうしばらく一緒ね。これからもよろしくね、リオちゃん」

「はい、ありがとうございます」


 ▽


 それからまた十数日が過ぎ、木賃宿(きちんやど)に場所は移る。

 相変わらず右手がないことの違和感も強く、幻肢痛もたまに起きてはいたが、概ね元気に旅をしている。

 悩みと言えばやはり、今後どうしていこうかという身の振り方と、右手がないから日常のあちこちのシーンで困るというものだ。朝起きれば体を起こすために手をつこうとして気がつき、用を足そうとすれば左手だけで済ませるのに四苦八苦し、食事も左手で箸を使うのがいまだに上手にできず刺し箸ばかりをし、若い体がたまにどうしようもなくムラムラしても左手を相方にするのも難しかった。

 そんな日々で、久しぶりに屋根と壁のある木賃宿で休めるようになった。

「はあ、疲れちゃったわね……。今夜はゆっくりしましょ。幸い、今夜は貸切のようだし」

「はい……。ところで、あの、木賃宿って僕、初めてなんですけど……安すぎません?」

「あら。知らないの? 普通の旅籠屋ならお食事も用意してくれて、お世話してくれるけど、こういうところはそういうお世話がないのよ。食事も自分で作りなさいって。その煮炊きに使う薪の分だけの宿賃で泊めてあげますっていうのが木賃宿。路銀の心許ないわたしみたいな旅人にはありがたいわよね」

「へえ……」

「もっとも、大体はこういう広いところにぎゅうぎゅう詰めなんだけどね。食事の支度してるから、リオちゃん休んでて」

「あ、はい……ありがとうございます……」

 お礼を言いつつ、リオは何だかいたたまれない。

 何かお礼に、と同行しているはずなのに実態はほとんど巴頼りに過ごしてしまっている。左手だけで料理の手伝いを試みても邪魔になるだけで、巴がすぐに色々と気づいて率先してやってくれるので自分でやることなどほとんどない。

 たまに着物の帯を締めるだけでも手間取っていると巴がしてくれたりするが、自分で着替えもできない小さな子にされたような気がして情けなくなることさえあった。


「巴さん……今さらなんですけど、どこに向かってるんですか?」

「あら、本当に今さらね」

 夕食を今日もどうにか済ませてリオが尋ねる。

 あんまり左手だけだと不便なので、食べる量もずっと少なくなり、ただでさえ痩せっぽっちの細い体がさらに痩せてきている。そのせいでリハビリができているわけでもないのに、ちょっとだけ食事を済ませる早さが上がっていた。

「旅の目的みたいのは、やっぱり……お医者さんのいないところで、治療してあげること?」

「それは、どちらかというとついでみたいなものね。探しものをしているの」

「探しもの?」

「ええ。……神秘の赤花っていうの。知ってる?」

「聞いたことないですけど」

「そうよねえ……。本当にあるのかないのかも分からないって言われているのよ。ほら、リオちゃんが前に神器が云々ってお話ししてくれたでしょう? あれと同じようなものね。不思議な力があるって言われていて、でも実在しているのかは分からない……」

「どんなものなんですか? その、神秘の赤花?」

「万病の薬で、病魔だけじゃなくどんな怪我も治せるっていうの」

「どんな病気も、怪我も? じゃあ、それもしかして、僕の手……」

「元に戻せるかも知れないわね」

「絶対にそれ手に入れましょう。どこにあるんですか?」

「……それがね、はっきりとは分からないのよ。だから探しているの」

「あ、そっか……そうですよね……。でも、こう、宛てもなくっていうわけでは……?」

「一応はあるけれど、何度も無駄足踏んじゃってね……。毎回、次こそとは思っているんだけど。……今、追っているのは月の光を近くで浴びられるところに咲くっていう話なのよ。周りには白詰草が群生しているんだけど、神秘の赤花の周囲だけが切り取られたみたいに草一本も生えていないそうなの。天丘なら高いから咲いているかもって思ったけれど、あれだけ人の多いところにはそもそも白詰草が群生しているような野原なんてなかったのよね……。もしかしたら天子様の宮殿ならとも思ったけれど、とてもそんなところには入れないでしょうし。それで天丘を降りていたらリオちゃんがいたの」

「そうだったんですか……。それで今の、目的地は?」

柊尋岳(とうじんがく)っていう険しい山があるのよ。そもそも登ろうとする人がいないし、登った人の話だって聞いたことがないくらいなんだけれど……それでも行くしかないかと思って」

「そんなに険しいんですか?」

「……登山に成功した人がいないっていうほどだから、ねえ……。けれどそういう場所にこそあるかも知れないでしょう? 1人でそんな険しい山に入るのも少し気が引けてたから、リオちゃんが来てくれるのがけっこう心強いのよ?」

「が、がんばります。でもどうしてそんな、お花を探してるんですか?」

「……必要なのよ。どうしても」

 少しだけ巴の表情が翳ったのを見てリオはそれ以上を追求しなかった。

 ただ、明るくやさしく気立ての良い彼女にも抱えているものがあるのだと知ってしまった。


「――夜分に失礼」

 がらりと戸が開いて声がし、リオと巴が戸口へ顔を向ける。

 いきなりのことで2人は驚いてそこに立つ人物を見る。菅笠を外して下ろしているところだったので2人が見た時は顔を見られなかった。

 しかしすぐ、ちょっと驚かされた。

 リオと年が変わらないような少年が旅装でそこにいたのだ。

 彼はサッと室内を見渡してから、眉根を寄せて肩をガックリと落とす。

「今晩、ここへ世話になる者です。短い間とは思いますが、どうぞよしなに願います」

「え、ええ。よろしく……」

「どうも……」

 見た感じでは同じほどだというのに彼から発せられた言葉はハッキリと芯の強さのようなものを感じさせるものだった。部屋の隅へ姿勢良くまっすぐ背を伸ばしたまま移ってから彼は荷物を下ろして寛ぎ始める。

 そっとリオは巴の近くへ移る。

「な、何だか……珍しいですよね? その、僕と同じくらいなのに」

「そうね……。リオちゃんが棚にあげることでもないけれど」

「……で、でも僕と違ってすごくしっかりしてそうというか」

「そうね……。リオちゃんと同じくらいには訳ありそうね」

「刀も差してません……? え、普通、あんまり刀持ち歩く人っていないですよね? お侍さん……?」

「そうね……。リオちゃんも持っていたじゃない」

「あれ?」

 ことごとく巴に指摘されてリオは小首を傾げる。

 自分と彼では絶対に違う人種だと思えていたのに、何故か同じにされているのが不思議だった。

「すみません、聞こえているのですが……」

「あら、ごめんなさいね……。わたしは巴と申します。あなたは?」

緋天(ひてん)とお呼びいただければ。あなたは?」

「あ、り、リオです……」

「拙者の年で旅歩きは珍しいものでしょうが、リオ殿もそれは同じと思いますよ」

 ふっと軽く、嫌味ではなく笑われてリオは恥ずかしさを感じる。

「拙者は師とともに諸国漫遊の旅をしていたのですが、お師様は秋空の雲のような御方でして、しばしば拙者とはぐれて消えてしまうのです。あるいはこの宿にいらっしゃるのではないかと思って、駆け込んできたのですが……。ご両人、背の低い白い髪が額から頭頂にかけて禿げている老人をどこかでお見かけしませんでしたか? 一目見た限りでは好々爺といった雰囲気なのですが」

「少なくともここまで歩いてきた限りでは見かけませんでしたね……」

「そうですか……。まったく、どこへいらっしゃるのか。毎度、探さねばならない身にもなっていただきたいものです……」

 この人は苦労人だ、とリオは察した。

 そう思うと急にそれまで少し警戒していたものが消えて肩の力が抜ける。

「何の師匠なの……?」

「お師様は、あー、何の、というのはやや難しいですが、拙者の親代わり、後見人、拙者がお師様の後継者といいますか、一言では難しいですね。本来は立場のある御方なのですが、子宝に恵まれなかったご老人でして、拙者が幼少の折に見込まれたのです。本来は諸国漫遊などをして良いはずがないというのに困った話です。拙者には人の道とは、と説く一方でお師様は若い女性を見るなりすぐに鼻の下を伸ばし、老人らしく出涸らしの茶と湿気た菓子でももそもそ食べていれば良いものをすぐ、肥えた魚を食べたいやらわがままを言い出す始末でして。今回のこともそうでした。鮎が泳いでいるのを見つけて、新鮮なものを塩焼きで食べたいと言い出したのでやむなく釣り糸を垂らしていたら、ふらりと消えてしまいまして。あれはもう痴呆でしょうか。ジジイならジジイらしく萎れていれば良いというのに、くたばる気配を微塵も見せない健脚と闊達ぶりで。さっさとくたばればいっそ楽なのですが」

「あ、あらあら、少し過激な発言ね……」

「ハッ、これは失礼を。先ほど名乗りあったばかりだというのに拙者の愚痴などをこぼしてしまい、申し訳ありません」

「だけど大変そう……。はぐれてからどれくらい?」

「明日になればもう8日になりましょうか」

「8日も? お年寄りなのでしょう? 心配ねえ……」

「いえ。殺しても死にませんよ、あの耄碌ジジイは。それにお師様がそのつもりになれば合流など容易いはずなのです。しかし拙者がいるとやかましいなどと仰りまして。たまにふらふらと1人で過ごしたいだけなのでしょう。頭はボケが入っているやも知れませんが、御年75歳にして美人を見るなり好色ぶりをあらわにするほど元気ですからね。拙者は一応は弟子という立場上、探していたという体面を保たねばならぬために、あと単純に腹が立つのでお師様を早いところ見つけて叱りつけたいというだけなのです。心配など小指の先ほどもしておりません」

 ちょいちょいリスペクトが足りていない口ぶりだがリオは仲が良いのだろうと勝手に解釈した。

 帯から大小の朱塗の刀を抜いて壁へ立てかける緋天を見て、リオはそれを何となくじっと見る。ずっと腰に差して持っていた澄水が砕けてからというもの、刀を見てはいなかった。

「リオ殿? 拙者の刀が何か?」

「あ、いや……別に。何もないです」

「……そうですか。拙者は朝に弱いものですから、早々に床につかせていただきます。どうぞ、拙者のことはお気になさらずに。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみ……」

 緋天はその場で壁を向いて横になってしまう。

 貸切状態でもなくなって、緋天も眠ってしまったのでリオと巴も無言で同じように眠ることにした。

 体を横たえてからリオは何となく、また緋天の方を見る。壁に立てかけられた刀が不思議と気になった。目を瞑り、瞼の裏の闇をじっと眺める。

 その内に睡魔が訪れて、夢を見た。


 ▽


 夢からハッと目が覚める。

 腹筋だけで体を起こし、リオは自分の左手を見た。それから、手のない右腕も見た。

 少し前まで見ていた夢の中でリオは両手で刀を握っていた。そして誰かと斬り合っていた。澄水が砕けるまでは、毎晩、悪夢を見て無迅という悪霊に稽古と称した立ち合いで斬り殺されまくっていたが、その夢はもう見なくなっている。

 しかし夢で誰かと立ち会って斬り合うというのは初めての夢だった。

「おはようございます、リオ殿」

「っ……お、おはよう」

「お早いのですね。まだ巴殿は眠っていらっしゃるというのに」

 声をかけられて顔を向けると緋天が板張の床の上で正座をして刀の手入れをしていた。

 直刃の磨かれた美しい刀で、刃が鏡のように周囲を反射して映している。

「リオ殿、つかぬことをお尋ねしますが――あなたは良くないものがお憑きでは?」

「え……? いや、もうない……はずだけど」

「左様ですか。ならば良いのですが。……昨夜は巴殿の手前、深く詮索せぬようにしましたがリオ殿には何か危うい気配を感じ取ってしまいまして。拙者の師は蒼莱様と言い、八天将です」

「えっ? あ、えっ、は、八天将って……あの?」

「はい。巴殿にはご内密に。拙者もいずれ、お師様がご隠居されるなり、息を引き取るなどをされますればその座に就くことが決まっています。そのため、公には怪異退治という名目で放浪をしているのです。実態は諸国漫遊で間違いはないのですが、たまに鬼をはじめとした妖の類であったり、神器を密かに蒐集する蛇の目なる連中と遭遇しては懲らしめています。リオ殿は何でもないにせよ、どこか似た気配といいますか、不穏なものを感じ取ってしまったものですから。……あ、気を悪くされないでください。拙者は未熟な身ゆえ」

「あ、そ、そう……。ちょっと前までは、悪霊に取り憑かれてたんだけど、そのせいかなー、なんて思い当たる節があったりなかったり……」

「悪霊、ですか?」

 手を止めて緋天がリオに目を向ける。

 うん、と頷いてからリオは荷物の中から砕けた澄水を取り出して床に広げて見せる。

「澄水っていう刀で、ここに人斬り無迅とか名乗る悪霊が憑いてたんだ」

「神器ですか。しかし悪霊の憑く刀というのは聞いたことがありません」

「蛇の目と因縁ができちゃって、天丘でいきなり襲われて……無迅が僕の体を操るみたいに使って、退治はできたんだけどその戦いで刀がこうなって、無迅も消えちゃった。ついでに僕の右手も、ぐしゃぐしゃになっちゃって巴さんが処置してくれたら、切り取られちゃって」

「……なるほど。それで片端(かたわ)だったのですね」

「どうしようもない人斬りの悪霊だったけど……嫌いにはなれなくって、いなくなっちゃって少し、寂しかったりするんだけどね」

「本来、神器とは八天将が管理をするものです。大きな力を備えていますから、衆生の民が無用な害を被らぬよう、また、どこの馬の骨とも知れぬ輩が私利私欲に用いぬようにするためです」

「へえ……」

「ですが神器とは分からぬことが多く、長い間、保管していたと思ったらいつの間にかその力が失われていたという話もありますし、逆に、昨日までは何ということのない物品だったはずなのに神器となって天変地異を引き起こさん代物となっていたということもあるそうです。これが理由で管理をすることも一筋縄ではいきません。日常的に利用をしている限りは力が失われることはないという通説も、果たしてどこまで信用して良いものか。……しかし、中には神器というものは形が一度壊れても、修復することでまた力を取り戻したという話を聞いたことがあります」

「神器が、直る? ……じゃ、じゃあ、この、澄水も?」

「ええ。ですから、そうして肌身離さず持っているというリオ殿の行動は正しいのです」

「ど、どうしたら直るの?」

「これは刀ですから、鍛冶屋にでも頼めばよろしいかと」

「本当!? 本当に、本当? 直る? そうしたら、無迅も――」

「刀に憑いていたという悪霊のことまでは分かりかねます。鬼を飼い、使役する神器が破壊され、修復された折、飼っていたはずの鬼は消えてしまっていたという話は覚えがあります」

「っ……そう、なんだ……」

 膨らんでいた期待が猛烈に萎んでいったのを感じてリオは膝立ちになりかけていた腰を下ろす。

 しかし直せるかも知れないというのは思い至らない発見だった。仮に何の力も取り戻せなかったとしても、澄水という刀が蘇ってくれるのであればそれほど嬉しいことはない。無迅がいなくとも、無迅が魂と呼んだ刀さえあれば心強いと思えた。腰に何も差さず歩くことも違和感だったと思い出す。

 緋天が刀を持っていたことが気になっていたのも、自分がそれをなくしてしまっていたからだとようやく気がついた。

「本来であれば残骸であろうと神器は回収しておくべきですが、リオ殿は少なくとも衆生に混乱をもたらす邪悪とは縁遠いようですからそのままお持ちになっていただいてけっこうです」

「ありがとう……?」

 手入れを終えた刀を緋天が丁寧な手つきで鞘に納め、壁に立てかけた。

 それから腰を上げる。

「リオ殿、先に厠を使っても?」

「……あ、どうぞ」

 そう言えば催すものがあったと気がついてリオは譲り、待っている間に巴が目を覚ました。


 巴が用意していた食料のほとんどは乾飯(ほしいい)という乾燥したご飯のようなものだった。これをお湯で温めてお粥のようにして食べるのだが、あまり美味しいものではない。むしろ変に硬く、味気もないのでまずいとも言えた。

 そんな食事をしていたら荷物を置いたまま留守にしていた緋天が部屋に戻ってくる。

「あら……おかえりなさい。朝の散歩でもしていらっしゃったの?」

「ええ。近くにお師様がいないものかと少し散策して参りました。出会ったのは野良猫くらいのものでしたが。朝餉ですか。味噌を持っておりますが、乾飯を少々と交換するのはいかがでしょう?」

「いいわね。お味噌だなんて素敵。そうしましょう」

「かたじけない。散策がてらに食べられる山菜も少々、摘みました。少し炊いて加えてみると良いと思いますがいかがです?」

 緋天がもたらした味噌は乾飯の粥に豊かな風味と、何よりも塩味というものをもたらした。

 そこに軽く炊いただけなのにとろりとしたつゆを出す山菜が加わると、しゃきしゃきでネバネバという新たな食感が加えられた。

 そんな劇的な変化を遂げた山菜味噌粥は、素朴すぎるものながらリオには衝撃的な美味しさだった。この日の本で食べた中でも一番美味しいかった。

「これ、美味しい、すごい……!」

「そうでしょうとも。この味噌はお師様の奥方様のご謹製なのです。年寄りの老婆ではありますが拙者には母のような御方です。旅立つ前に味噌をたっぷりとご用意くださり、毎度、持たせてくださるのですが、どこで振る舞っても評判になるほどです。あれほどの奥方様がいらっしゃるのにお師様は若い女性にばかり鼻の下を伸ばすのだから救いようがありませんが……」

「緋天様のお師匠様はどのような方ですの? 人柄ではなくって」

「申し訳ございませんがそれは打ち明けることができぬのです。お師様は立場ある方ですから、それが痴呆老人のように徘徊しているなどという事情を打ち明けてしまった以上は……」

「そう……大変ね」

「ところで巴殿とリオ殿はどちらへ? ここより先へ参ってもどん詰まりと思いますが。柊尋岳とその麓に小さな村があるという程度だったかと」

「ええ。その柊尋岳に登るつもりなの」

「前人未到と名高い、あの柊尋岳へ? 失礼ですが山登りの経験は豊富なのでしょうか?」

「いいえ、さほど……」

「ならば、登山はやめておくべきかと。険しい山であることに違いはありませんが、あの山は霊山でもあります。只人が踏み入るのは危険です」

「それでも登る必要があるの。ご忠告には感謝するけれど……」

「何か事情があるということですか……。ならば、拙者も同行いたしましょう。人ならざる怪異の類には詳しい自負もありますし、腕にも覚えがあります。山の知識についてもまた同様です」

「お師匠様は?」

「あんな色ボケ耄碌ジジイは急いだところでどうにもなりはしませんとも」

 やっぱり実は酷く嫌っているんだろうかとリオが思い直しかけている間に、巴が少し考えてから緋天の同行を喜んで迎え入れた。


 ▽


 緋天はやはりリオと同い年ということが判明をした。

 しかし年齢と背格好が大体同じというところ以外になかなか共通点を見出すことはできなかった。

 緋天は足腰がよく鍛えられていてリオのようにすぐ歩き疲れるということがなかった。また、本当に知識が豊富だった。そして朝と晩には散歩と称してふらりと1人で消えるのだが、何をしているのかと思っていたら剣の稽古をしていた。緋天の刀は直刃の反りが少ないもので、特に刀の先端が通常よりも深い角度で切り落とされたかのようにスパッと角度がついている。

 神器を回収することもしているという口ぶりから何か、緋天も神器を持っているのではないだろうかとリオは考えていたが数日の旅路ではそういったものは気取ることもできなかった。

 そして巴の態度も何だか自分とは違うとリオは悟っていた。

 リオにはどうしてか、とても親しげに、年下の子を可愛がるようにリオちゃんと彼女は呼ぶ。

 一方で緋天にはどうしてか、親しさがないわけではないにせよ、立場ある偉い相手に接するように緋天様と彼女は呼ぶ。

 年頃の少年としては、うーんと首を捻りたくなった。ちゃん付けで呼ばれるのはどうだろうか、と。


 そんな旅路を続けている内、柊尋岳という山が景色として見えるようになり、それからまた数日を歩いて寂れた村に辿り着いた。

 農村というものはどこも貧乏だ。着るものは誰も彼も擦り切れているようなボロばかりで、衛生という言葉がないかのように身体中が土や埃に塗れて汚れている。歯は欠けていたり、黄色くなりすぎていたり、至近距離で口を開かれると鼻を塞ぎたくなるほどの人がほとんでもある。

 それが普通だと思っていながら何だか汚らしいという印象が先行してリオはあまり長居をしたくはないといつも思う。もちろん、それが全てではなく中には定期的に水浴びをしたりと気を遣う人間もいるのだが、あくまでも少数派でしかなかった。

「銭のない農民を相手に悪いところがないか診てあげるとは、巴殿は見上げた慈悲の心をお持ちですね……」

「本当、そう思う……。見返りを求めていないわけじゃないだろうけど」

 柊尋岳の麓の村へ来た巴は息を落ち着かせる間もなく、村内の長老らしい人に挨拶をして無料診療を申し受けると伝えに行っている。リオと緋天は農村を眺めているばかりだ。

「しかし、何かよそとは違う雰囲気もありますね……」

「違う雰囲気……? ある?」

「ええ。何か、違和感と言いますか」

 長老宅のあばら家前から農村を眺め回し、緋天が首を傾げる。

 リオも同じようにして眺めた。遠巻きに百姓が農作業で手を止めた頃合いなどでちらちらと気にするように見てきている視線はある。これは珍しいものではない。旅人というものはどこでもある程度は珍しい。そしてリオの年で旅歩きをしているのはなおさらに珍しいという理由でじろじろとみられても何も思わなくなっている。

「……働き盛りの若い男性が少ない」

「え?」

 緋天の口にした言葉にリオは何のことかとまた農村を見渡した。

 禿頭の腰が曲がっている老人が重そうに鍬を地面に振り落としている。中年ほどの女性が作物の収穫をしている。小さな子が母親に手伝わされるようにして、収穫を手伝っている。

「確かに、いない……。けど何で?」

「考えられるのは戦で人を取られてしまったという線でしょうが、このほど、そういった戦といったものは起きてはいないはずです。ましてここはまだ亥然様のご領地内。天丘を擁する亥然様の領地の民が戦のために駆り出されるなどというのは考えづらいことです」

「他には?」

「疫病は、ないでしょうね……。もしも疫病が流行っているのであればよそものに持ち込まれたと考え、拙者達のような旅人を村に入れはしないでしょう。あと考えられるのは……」

「考えられるのは?」

「故意に反抗できそうな若い男衆だけを殺すか、監禁をするかといったところでしょう」

「誰が?」

「さて、誰というのは分かりかねますが、御上の意向と騙って私腹を肥やそうとする悪党の役人であったり、良からぬことを企む良からぬ連中であったり……。いずれにせよ、巴殿がその話を聞いているやも知れません。我々では医術の手伝いなどとてもという口上で外に控えているつもりでしたが、話くらいは聞いておくべきかも知れませんね。参りましょう、リオ殿」

「あ、う、うん」

 緋天が踵を返して巴の入っていった長老宅に向かい、リオもそれに続く。

「……口上で、って言った?」

 小声で尋ねてみると緋天はチラとリオを見てから悪戯っ子のような笑みを少し浮かべて見せた。

 品行方正でやや堅い印象を与えておきながら、ちゃっかりしているという緋天の一側面を知ってリオは感心した。


「蛇の目と名乗る連中が十数日前にやって来ましてな……。

 柊尋岳を登頂するための人手がいると言い、若い衆を使うなどと勝手なことを申されました。

 この忙しい収穫の頃合いにそんなことができるものかと、何の縁があって手を貸さねばならぬのかと、我々は拒もうとしたのですが、連中の親玉のような男が瞬く間に1人を斬り殺し、2人を斬り殺し……これ以上、死者を出したいのかと脅されると何もできなかったのです。

 若い衆は連中に引き連れられていき、無事に返して欲しければ食料も渡せと、それから数日おきに収穫した作物を取りに来るのです。もし、御上に報せでもすれば男衆のみならず、村にいるものの生命も脅かされるであろうと言い置いて……」

「なるほど……。事情はしかと心得ました。拙者は若輩の身ながら、八天将と縁のある身です。密命を受け、諸国を修行して参っている次第にて、此度の蛇の目なる連中の悪企みは拙者が必ずや止めてお見せします」

「ま、まことでございますか? 失礼ですが、あなた様のお名前は……?」

「修行中の身にて、名乗るほどのものではございませんが、緋天と」

「おお、緋天様……ありがとうございます。どうか、どうか、お願いします」

 時代劇かな、とリオは丸切り他人事のように思いながら思った。

 後から入ってきて村の様子がおかしい、人に言えぬ事情はあるかといきなり切り出した緋天に、長老は村の置かれている状況を語り出したのだ。

 どうしてそう自信満々にどうにかするなどと言えるのだろうかともリオは思ってしまう。

 よほど緋天は自分の腕に自信があるのだろうかとか、もしかしたら口調や態度ばかりは立派でも中身は現実を知らないのではなかろうか、などということまで考えてしまった。

「しかし緋天様、その蛇の目という一団がどれほどいるのかも分かりませんのに……」

「問題はございません。拙者には神器もありますし、これまで幾度となく蛇の目とは斬り結んで参りました。三途の使徒という蛇の目の大物が出ては骨も折れましょうが、そうでなければせいぜいが凡百の悪党に毛の生えた程度でしょうとも」

「三途の使徒……。あの三人は、確かに危険だよね……」

「はい……? リオ殿、ご存知なのですか?」

「え、あ、うん……天丘で」

「……ふむ。その件は後ほど。ともかく、ご老体、拙者にお任せくださればこの村の憂いは晴れましょうぞ」

「どうもありがとう存じます、ありがとう存じます……。お恥ずかしい限りではありますが、空き家もございますのでそちらをどうぞ好きなようにお使いになさってください」


 知っているパターンだけどちょっと違う、とリオは案内された空き家に入り、蜘蛛の巣が張られている天井の隅を眺めながら思う。

 巴との旅の途中、こうして診療する間の仮の宿代わりに空き家を使わせてもらうことは毎度のことだった。が、診療所としてではなく、村を救うために訪れた正義の味方のためという雰囲気で貸されるのは初めてだった。

「緋天様、いつもこういうことをなされているのですか?」

「ええ。珍しいことではありません」

「だからあんなに自信満々に……?」

「蛇の目の衆などというのは天子様に仇をなそうとする卑劣な一団でしかありません。何をしでかすかは分からぬ連中ですが、末端は恐るるに足らぬ連中です。ですが、三途の使徒はいずれも油断のならぬ根っからの悪党ばかり。リオ殿、面識があるような口ぶりでしたが……」

「う、うん。いきなり、天丘で襲われちゃって……」

「あのー、わたしはそういう物騒なお話はちょっとついていけそうにないから、お暇して、この村の方の診療をしているわね」

「ええ。ご苦労様です、巴殿」

 そそくさと巴が逃げるかのように出ていく。

 きな臭い話には首を突っ込まない、耳にも入れないというのが彼女なりの処世術だろうかと察して、リオはやっぱり彼女は賢い人だと思い直す。できればリオもそうしたかったが、緋天は逃してくれそうにない。

「して、三途の使徒の誰と?」

「誰って、全員……」

「はい?」

「無迅が頭いっちゃってるから、喜んで斬り合いして……。お陰様で、この体。血途の一颯、火途の巳影、刀途の鳴……? 男の子と、大人の男と、大人の女の人の三人組」

「その三名と相対して生きているとは……。では、もしや、勧誘をされませんでしたか?」

「……された」

「ふむ……。三途の使徒とされるその三名はいずれも、八天将と同等を疑われるほどの実力者です。神器にも有用なもの、強力なもので高位、低位と言う輩はおりますが、三途の使徒は高位の強力な神器を持っているとのことですから。

 特に火途の巳影という男の悪名は高いのです。過去に八天将を二名も殺害している危険人物として知られています。元は拙者と同じような八天将の後継者として期待をされていた過去があるほどです」

「あいつが、元八天将の後継者?」

「ええ。彼のお父君は八天将でした。妾胎(めかけばら)ながら、幼少時より剣術の才を見出され、年長の兄よりもよほど腕が立ち、お父君の教えをよく覚え、誰もが将来に期待を寄せるほどであったとか。しかしある時、力に溺れてあろうことか、お父君にどこで入手したかも分からぬ神器で襲いかかり、殺害して行方を眩ましたと聞き及んでいます。愚かしい男です」

「……うん、嫌いだ、あいつは」

「リオ殿がそう仰るからにはよほどの相手なのでしょう。となると、やはりその右手も火途の巳影――」

「これは血途の一颯」

「……どこまでも、拙者の考えより上を行かれますね、リオ殿」

「そ、そうかな……? でも僕なんて何もできちゃいないよ。全部、無迅がやったようなものだから。一颯だって無迅が仕留めたんだし」

「仕留めた? 血途の一颯を?」

「う、うん……」

「……そうですか。以前、神器を直すことは不可能でないと伝えましたが、リオ殿の持つ澄水はよほど特別な力があるのかもしれません」

「いや、無迅だから……」

「しかし澄水で仕留めたのでしょう?」

「そうだけど……」

「リオ殿、此度の目的を達した暁にはお師様と合流を果たし、拙者達にご同行してはくれませぬか」

「どうして?」

「拙者は詳しく知らないのですが、お師様であれば神器の修復についてよく存じているかも知れませぬ。リオ殿も直せるのであれば直したいとお考えのはず。お師様は古狸めいた食えぬジジイですが決して邪悪なものではございません。やや、手が焼けるところはございますが拙者が手綱を取ります言え。何卒」

 澄水を直す協力をしてくれるのなら、願ったり叶ったりかも知れない。

 が、何だか緋天の口ぶりのせいで彼のお師様という人に面倒臭そうなものしか嗅ぎ取れなくなっている。

 渋面していたら緋天がリオの左手をガッと握ってきた。

「沈黙は肯定とお受けしました」

「えっ、いや、いいも悪いも言ってない――」

「さて。そうと決まりますれば、ともあれ目の前の問題を解決せねば。蛇の目が食料を取りにくるところを待ち伏せるのも悪くはありませんが卑劣な手を使われ、村民が傷つくところは見たくはありませぬ。こちらから、連中の拠点を襲撃し、速やかに制圧するのが良いのでしょうね。……リオ殿、一つ、ご協力いただきたいのですが」

「え、何で」

「いえいえ、簡単なことですとも。最初は拙者も1人で済ませられると考えておりましたが、もう1人いた方が具合が良いというだけでして。三途の使徒と対面して生き延びているリオ殿ならば拙者も全幅の信頼を寄せられるというもの。ここは一つ、内容を聞かぬ内にご了承いただきたく」

「やだよ、内容くらい教えてよ」

「……やれやれ、そのように及び腰では女子(おなご)にモテませんよ?」

「うっ……べ、別に、そんなモテたいとかモテたくないっていうのは違う話というか」

「ははーん? さてはリオ殿……ああ、そうですか。そうでしょうとも。ええ。では拙者のみで」

「な、何? 何に納得したの?」

「いえいえいえ、これはリオ殿には関係のなきことゆえ」

「気になる……」

「やってくださいます?」

「……や、やるよ」

「言質は取りました。今さら、なし、というのは聞きませぬゆえ。

 リオ殿には蛇の目の衆を誘き寄せる餌になっていただきたく存じます。連中の気を惹いている内に拙者が、村の若い衆をこっそりと逃します。それが済み次第、すぐに拙者が蛇の目の衆を制圧いたしますのでご案じめされぬよう」

「……えさ?」

「はい。敵方がどれほどの数かは分からぬことのみが気がかりです」

「……えっ」

 まんまとハメられた。

 分かっていたのにハメられてしまった。

 どうして口車に乗せられたのだろうとリオは顔を青くしてから、ハッと問い詰めねばならないことを思い出した。

「さっき、何に納得したの?」

「いえ、特に何も。何か含みを持たせると気になりますでしょう? リオ殿であればちょろいかと思いまして、何もないのに芝居を打ちました。拙者、大根と評判になるほどには芝居の心得がありますれば」

 まさかの大根役者に騙されたという事実にまたリオはがっくりと肩を落とした。

「リオ殿、人が好いのは美徳ですが、あまりに騙されやすいとそれはそれかと。少し己を見つめ直しては?」

「騙した側が言わないでよ……」

「これは失敬。もっともですね」

 本当にちゃっかりしている緋天にリオは落ち込んだ。

 同じ苦労人かとも思っていたが、やっぱり緋天とのスペックの差はあからさまだった。


 ▽


『こちらは先日、お師様が拙者の荷へ忍び込ませていた神器です。

 風羽根とお師様はお呼びになっていまして、ご覧のように二つで一つの神器です。

 耳につけることができまして、これをつけた者同士は離れていても二人だけ会話ができます。

 これをお師様が置いていったのは拙者の声を聞きたくないという子供のわがまま同然の理由でしょう』

 そう紹介されて渡された風羽根というらしい神器をリオは違和感から左手でそっと触れる。

 カフスピアスのように耳の軟骨につけることのできる、耳飾りだった。綺麗な白と翠のグラデーションのひとひらの羽根で、そう大きいものではない。が、耳に何かついているというのは違和感だった。

 そして緋天と同じものをつけていると考えると、ペアルックのように感じられてあまりリオとしては気が進まない。が、そんな概念はきっとないはずと思うことにしている。

「リオ殿――聞こえますか」

「あ、うん……。かなりはっきり」

「何よりです。では、始めるとしましょう。無理は禁物ですが、時間は稼いでくださることを期待しています」

「思ったんだけど逆の役割じゃダメだったの?」

「リオ殿は村の男衆が捕らえられている場所を速やかに特定し、敵方に見つからぬよう大勢を先導して逃すことができますか?」

「……何でもなかったです」

「ご理解いただければ結構です。なに、ご案じめされることはございません。リオ殿はきっと、おいしい餌として見ていただけるでしょうとも」

 あまり嬉しい励ましではない。きっとこれもちゃっかりしているところだろうなと思えた。


 村に食料を取りにきた蛇の目の後をつけて、緋天は柊尋岳を少し登ったところに蛇の目の衆の拠点を見つけた。

 その晩に作戦は決行されることとなり、リオは風羽根を貸された。

 あとは餌になって蛇の目の衆を拠点から誘き出して、その間に緋天が村の若い衆を救出し、済み次第、蛇の目退治をするという流れである。丸腰では心許ないと、せめてもの抵抗で緋天に言ってみたらあっさりと彼の腰の刀を一本貸されてしまった。朱塗の鞘に納まり、使われようが使われまいが毎晩のようにきちんと手入れをされているお高そうな刀である。

 久しぶりに刀を腰に差したものの、右手がないと左腰には差しても抜けない。

 そのため、右腰に差してみたがそれはそれで違和感があった。

 早いところ神秘の赤花というものを見つけて治したいが、蛇の目がうろうろしているところを無計画に行こうとも思えない。結局、緋天に協力するしかなかった。それが早道だったと諦めている。


「ではリオ殿、お頼み申します」

「はい……」

 蛇の目の拠点は柊尋岳を少し登ったところに築かれていた。

 おそらく、村から徴用した男衆に作らせたのであろう簡素な建物が山を食い潰すかのように建てられているのだ。ご丁寧に見張り台らしい高い櫓まであり、そこに明かりが灯っているのを木々の中からリオは眺めていた。

 餌役とはいえ、ただ近づいていくだけでは中にいる蛇の目を誘き出すには不十分だ。

 そこでリオは散々、自分の体を好き勝手に使っていた無迅に倣うことにし、あらかじめ思い出せる限りの悪口をリストアップしていた。

 ただの小僧の戯言と受け取られぬよう、心底からバカにし、舐め腐って、それでいてどこまでも上から目線な癪な物言いをしなければならない。それに大声も出さなければならない。小声では全て失敗に終わる。堂々と声を張って、聞き捨てならないと思われなければならなかった。

「できるかなあ……」

 小さくボヤいてからリオは茂みから出て蛇の目の衆の拠点に近づく。

「ねえ緋天……わ、笑わないでよ? 変だったとしても」

「聞かぬふりをしておきますので、ご心配無用ですとも」

 とか言いながら、あとで何かの折に持ち出すのではなかろうかと疑心暗鬼になりつつ、リオはご丁寧に作られた拠点の入口に当たる門の前まで出て行った。

「誰だ!」

 物見櫓の上から警戒する声が飛んできて、リオは震えそうな膝を悟らせまいと無感情を装った顔で見上げる。

「やいやいやい! 人様の頭の上から(つばき)吐きかけながら誰だたァ、どういう了見してやがらァ!」

「何ぃっ? 小僧、何様のつもりだ!」

「小僧じゃねえやい。

 天下にその名を轟かし、泣く子ははしゃぎ、悪党は小便ちびって腰をつく、天下無双の大剣客、無迅様たぁこの俺よ!」

 左手で刀を抜いて櫓の上の男へ(きっさき)を向けてリオが名乗りをあげる。

 これで大丈夫だろうかと内心、ビビり散らしているリオだったが思っていたのと違う反応を見張り番の男が見せた。

「無迅だと!?」

 息を呑むように男は大声を出し、吊られていた鐘をいきなりガンガンと叩きまくった。

 けたたましい音が鳴りまくる。そうしながら見張りの男が櫓の上から声を張る。

「む、無迅だ! 無迅が出たぞ、出合え、出合え!」

「何これ……?」

 どうしてそんな反応をするのかとリオは思わず呟く。

 リオの知らぬ事情だが、蛇の目は三途の使徒たる三名の下にそれぞれ大勢の部下がいる。

 この拠点にいた蛇の目の衆は火途の衆と呼ばれ、火途の巳影直属の部下だった。冷淡でありながら苛烈な力を持ち、八天将を二名も手にかけたという武勇を持つ彼に心酔する者が大多数を占めている。そしてリオは天丘で巳影と立ち合い、完全な独力というわけにはいかなかったが巳影に深傷を負わせた。

 それを部下が知り、まず感じたのは無迅なる人斬りの小僧は悪鬼めいた存在であるということ。

 そして深傷を負った巳影より、探す必要はないが見つけたのであれば生きたまま連れてこいとも命令をされていた。

 自分達の統領も同然の巳影に深傷を負わせた人斬りを生捕など彼らにはできようはずがない命令だ。しかし命令には従わねばならない。結果、彼らは万が一、人斬り無迅と出くわしたら大人数で挑みかかって数の暴力で死なないギリギリまで痛めつけて生捕にするしかないだろうと考えていた。

 そんな事情を哀れにもリオは知らない。

 だが作戦としては大成功を収めてしまっていた。

 すぐさま、拠点内にいた蛇の目の衆は酒盛りや、就寝を放り出して武器を手に手に取って走り出していた。

 寂れた無力で貧しい農村とは言え、村を脅せるほどの人数は揃っている。その数、五十余名にも及んでいた。その人数がたった一人を相手にするために武器を持って飛び出してくるものだから、リオは顔を引き攣らせかけた。

 本当にどうして今、無迅がいないのだろうかと思えた。

 もしも無迅がいれば嬉々として皆殺しをニタニタの笑みで宣言し、血の雨を降らしていたはずだというのに、もういない。

(アカン、死ぬ――)

 何故か出てきた関西弁でリオは思い、とうとう膝が震えてしまったことに気づいて刀に左手をかける。

 だが、それを抜いて一番槍の誉とばかりに槍を前へ出しながら突進してきた男を見ると、無意識に口の端を歪ませて笑みを浮かべていた。


 繰り出された槍の竿を切り上げながら前へ踏み出し、距離を詰めて返した刃で一人目の首を斬りつける。

 手入れされているだけあって、その切れ味はとても良かった。

 喉笛を確実に切り裂き、切断をせずとも絶命に至らしめたことを手応えで感じ取ると、それが心地良かった。

 続いて晒しを持ち手に巻いただけの剥き身の刀で何故か斬りかかってきた男を斬りつける。刃を合わせるまでもなく、勝手に相手が及び腰になっていたのが分かったので丸見えすぎる、多すぎる隙を文字通りに突いた一撃だった。

(あれ、弱い?)

 これまでリオが経験した、自分の思考で体を動かした斬り合いではない感覚だった。

 自分で落ち着いて冷静になれているのを感じているし、向かってくる誰もがとろく見えて仕方がなかった。

「何だ、この程度か――」

「おおおおっ!」

 思わず感想を漏らすと、聞こえていたらしい近くにいた男が大きくて長い六角棒を振り下ろしてきた。先端には鈴が紐で括りつけられており、本来は凶器として使うものではないというのが丸見えの代物だった。

 自分の刀の間合いではないが、六角棒の間合いには入っていた。

 受けてしまえばそのまま力で押し込まれ、足を縫いつけられて周囲からタコ殴りにされかねない。それは危険だと瞬時に判断して、屈むように姿勢を低くしながら前へ出た。六角棒が振り下ろされる前に懐まで踏み込んで、刀の柄尻で六角棒の持ち手をかち上げるように叩き込み、たたらを踏んだ男の心臓へ刀を刺し入れる。何ということのない、ゆったりとした日常の動作であるかのようにゆっくりと心臓を貫いてから、刀を捻り、傷口を抉りながら引き抜く。しかし、傍から飛びかかるように切り込んでくる姿を見ると、それまで緩慢であるかのようだったリオの動きが瞬時に切り替えられていた。まず刀同士のぶつかる甲高い金属音が鳴り、それとともにリオが相手の股間を蹴り上げていた。悶絶しながら体を前へ折り曲げたところで、背中に刀を突き落としてそこから体を開くかのように刀で身を斬りながら引き抜いて、そのまま背後に迫っていた男の喉を切り裂く。

「何これ、面白っ!」

 リオの口から愉快そうな声が漏れる。

 思ったように次から次へと、人を斬っていく。

 爽快感を謳うゲームを遊んでいるかのような感覚だった。

 エネミーを倒せば演出として、血飛沫と悲鳴が上がっていく。

 そうして死体をどれほど築き上げられるかを競っているかのような心地だった。

 ただただ、一方的に敵を斬る。

 躱して斬る。

 受けて斬る。

 崩して斬る。

 隙を見つけて斬る。

 次から次へと思いついたまま、あるいは体が動くまま、刀を振るい続けるだけでバタバタと敵が倒れていく。

 近づいただけで恐怖に顔を歪ませ、半狂乱になりながら無様に大きな隙を見せながら向かってくる姿は的でしかなかった。

 腕を切り飛ばしてやると大の大人が悲鳴を上げる。それが聞き苦しいどころか、自分への賛辞であるかのように心地良かった。急所を一撃で切り裂き、あるいは突き込み、確実に死に至ると思えると昂った。また、状況も分かっていないとばかりの顔で即死していく顔はボーナスポイントでももらえたかのように喜べた。


「ハアッ、ハアッ――次は……次……あれ……?」

 ひとしきり、夢中になって刀を振りまくったリオは次のエネミーが向かってこないことに気がつく。

 遠巻きに数人、腰を抜かしたように尻餅をついていたり、目が合うなり背中を見せて逃げ走っていく。

「リオ殿、これ以上は無用です」

 耳の風羽根から緋天の声がしてリオは刀を一度振って付着していた血を払う。

 しかし、一度振っただけで血液が全て振り払われることがなかった。自分の着物で拭こうとしたが、それも返り血まみれになっていることに気づいて、近くで死んでいた男の着物で刃を拭いてから刀を鞘に納めかけ、刃毀れに気がつく。

 借りた時は確かに刃毀れ一つなかった見事な名刀と思えていたのに、刃毀れがパッと見ただけで分かるほど多く、何だか刀身も歪んでいるような気がした。ちょっと悪いことをしたかも知れないと思いながら鞘に納め、頭に上っていたものがすっと降りていくような感覚も抱き、ついでにそっと股間へ手を伸ばす。

 人を斬り殺してこうもなってしまうのは、改めて考えるとおかしいのではないかとリオは自分を疑った。


 ▽


(――これは、酷い)

 その惨劇を遠目に眺めながら緋天は目を細めた。

 片端の自分と年の変わらぬ少年が、嬉々として人を斬り殺していく。

 少し前までは不安一色という雰囲気でいたはずのリオが、豹変したかのように刀を閃かせていく光景は筆舌に尽くし難い衝撃を緋天にもたらした。

 貸した刀は腕の良い刀鍛冶の鍛えた逸品ではある。しかし神器ではない、言ってしまえばただの刀である。

 だが、もしや神器だったのではないかと疑うほどにリオの動きは尋常ではなかった。

 剣の達人の動きには程遠い。まず構えというものがなかった。

 だからこそ、あまりにも柔軟で、自在に太刀筋が変わっていく。

 習う剣術というものはいつしか、精神の鍛錬に重点を置くものへ変遷していた。ゆえに禁じ手というものが生まれ、故意にせよ、そうでないにせよ、卑怯とも言える攻撃をすることがなく、実戦的なものから遠ざかっている。

 だがリオは始めからそのような禁じ手など知らないとばかりに、容赦なく弱い箇所と見るや否や攻め立てていた。

 目、鼻、顎、喉、鳩尾、金的という人中への攻撃。

 それに加えて心の臓、手の腱、足の腱、背中への攻撃。

 いずれも道場で剣術を教わったことがある者では、そこを攻めることさえ恥ずべきと教えられるようなことを平気でする。

 反撃を封じるかのように一撃で急所を攻め、それが難しければまず反撃ができぬように四肢のいずれか、あるいは目や鼻といった怯みやすいところを攻撃し、また一撃必殺を狙い剣を振るう。


 もし、これが髪や髭が白くなりかけているような大人の所業であればまだ緋天も受け入れやすいものだった。

 だがこの修羅のごとく剣を、自分と年の変わらぬ少年が自在に操っている。

 一体どうして、そんな剣を覚えたのか。

 どのようにして、そんな剣を覚えたのか。

 そんな疑問が生じてから初めて、リオの持つ澄水の残骸にかつて宿っていた無迅なる悪霊の存在を思い出した。リオが言うところによれば無迅は鬼畜そのものの人斬りの悪霊とのことだが、それが乗り移っているとしか思えぬ光景だった。

 本当にいなくなっているのかとも疑えた。


 やがて粗方の蛇の目の衆を斬り殺したリオが、不意に動きを止めた。

「ハアッ、ハアッ――次は……次……あれ……?」

 風羽根からリオの声が聞こえて、緋天は目を細めた。

 すでに生きている蛇の目の衆は戦意を喪失してしまっている。

 彼らに尚も凶刃を振るうつもりであれば、リオを手にかけるのも仕方がないと緋天は脇差に手をかけながら声を発した。

「リオ殿、これ以上は無用です」

 どう出るかと、静かに身構えながら緋天は遠目にリオを観察する。

 物見櫓の作りは粗雑の一言には尽きるが、高く、見晴らしが良いという機能性だけはちゃんと有している。

 観察していたらリオは刀を拭いてから腰に納め、緋天から背を向けるように反対を向いて何か少し、ごそごそとしていたがこれ以上の殺しをするつもりはないらしいとは見てとれた。

「……拙者の出る幕はなかったようですね。人が変わったように見えました。もしや、件の悪霊に未だ祟られているのでは?」

「え? そんなことないよ。……もう、無迅はいないから」

 どこか寂しそうな声で返されて、緋天は眉根を寄せる。

 あるいはその悪霊のせい、ということならば良かった。

 しかしこの惨状をリオがもたらした。それを本人の口から聞けてしまった。

「ご気分は悪くありませんか?」

「大丈夫。何かちょっと、興奮はしてる感じだけど……」

「承知しました。すでに村の若い衆は逃がしています。が、リオ殿の鬼神のごとく戦いぶりをやや恐れた様子がありました。血生臭い格好では良い顔をされぬでしょう。着物を調達して参りますので、しばし、連中の拠点にておやすみなさってください」

「あ、ハイ。……でも、大丈夫かな? 休んでたらいきなり、こう……隠れてた人がとか」

「何を仰ります。リオ殿ほどの腕がありながら」


 緋天の中で、リオに最初に抱いた危うい気配が何だったのかに見当がついた。

 引っ込み思案の、まるで他人に害されることを極度に恐れるような小心者な性根がある。しかしそこに人の生き死ににあまりに無頓着なような冷淡さが同居している。

 かと思えば話をしている限りでは、他人の不幸話に同情をする。

 人に同情できるまともな精神性と、あまりに冷酷に人を斬り殺せる無情さが壁を隔てることなく渾然としている人間性。

 これはまともなようで、まともではない。

 同情を知らずして、人の顔色を巧みに見極めて行動できる異常者は珍しくとも納得はできる存在だ。

 無論、人に同情する気の好い人間というのもまったくもって珍しくはない。

 だがこれを両立するとなれば異常としか言えなかった。あまりにも歪なものにしか緋天には見えない。

 むしるように風羽根を外し、緋天は物見櫓から降りながらひとりごちた。

「リオ殿、あなたはまるで鬼そのもの。

 その在り方はよほど、鬼の気を惹いてしまいかねませんよ」


 ▽


「……うう」

 風羽根を外し、脇へ置いているリオは悩んでいた。

 久しぶりの――そして初めての自発的な人斬りが想像していたより、ずっと心地良く、軽くトリップするほどだった。下手な麻薬などよりもよほど気持ちが良いのではないかとまで思えてしまった。

 自分が殺されそうな状況だったのだから、そして相手もきっと殺すつもりで来ていたのだから、人を斬り殺すということに今さら感じ入ることはない。

 が、まったく予見していなかった副作用がリオを悩ませていた。

 あまりにも人斬りが快感だった。

 ずっと、股間がおさまらずにいる。

 ただでさえ、巴や緋天との旅路で人の目があって若い体に起きる性的な欲求というものをやり過ごすのに四苦八苦している。

 最後にしたのもはっきりと思い出せぬほどである。

 それが蛇の目を相手にした人斬りで、いきなり爆発したかのように昂って収まらなくなった。時間が経てばきっと、と思っていたのにもうずっと、頭の中でエロい妄想ばかりが膨らんで振り払えなくなっている。

 無迅がやたらめったら下心を隠さずにいたのはこういうことだったのだろうかと今さらに腑に落ちる反面、どうしたものかと切実に考えてしまっている。サクッと自家発電をしようかと思いつつ、いつ、緋天が替えの着物を持ってきてくれるかが分からない。風羽根で呼びかけてみても何の反応もなくなってしまっているので、用が済んだから外したのだろうと悟っている。

 しこしこと自家発電しても別に何も悪いことではないが、万一にもタイミング悪く緋天が来てしまったら恥ずかしさで死にそうでもある。

 結果、ただただ悶々としながら待っているのだが、やっぱりサクッとしてしまおうかとか、いやしかしタイミングが悪いかも知れないとひたすらに悩み続けている。


 これはダメだと、ただ待つのは愚策とリオは腰を上げた。

 何か別のことをして気晴らしをしながら待つのがきっと良い、と。

 念のために何か言われるかも知れぬと風羽根をつけ直して、拠点内にあった簡素な小屋を出る。

 それから何をしようかと、月明かりに照らされた山の中、ひとりぼっちで考える。寝るしかやることがないかも知れないが、横になったらそのまま自家発電する自信があった。片手では何かと後始末に手間取るので、あまりしたくはない。

 どうしたものかと何となく無人の拠点内を歩き回っていたら、酒盛りの途中で投げ出されたらしい小屋を見つけた。片口にまだ酒が残っている。

 酒などまずいと知っている。

 酒臭いだけの飲みものと思っている。

 だが、酔っぱらえたらそのまま寝て、スッキリと朝を迎えられるのではないかとも考えた。

 巴も緋天も特別に飲酒を咎めることはない――と思いたい自分を自覚する。

「ちょっとだけ……」

 片口に残されていた酒を、そのまま口の中へ注ぎ込む。

「むっ、ぶふぉっ……!?」

 喉に直撃した酒の臭いと辛さにむせて吹き出し、リオは咳き込む。

 こんなものの何が好いのかと思い直したが、一度、口の中へ混じり込んだ酒気だけでくらりと少し頭が甘く痺れるような心地がした。酒臭いし、味もおいしいとは思えないものの、この感じは少しいいかも知れないと思って、もう一口を含むが、やはりむせた。

「げほっ、げほ……何がいいんだろ、ほんと」

 しかし、リオは何だかこんなにまずい酒をうまそうに大人は飲むのだから、その味が分かるというのは大人に近づけて格好いいのかも知れないと血迷う。むしろこのまずい酒を味わえるようになったら、大人の味覚を理解できるということなのではないか、と。

 喉にこびりつく酒の嫌な香りや後味に苦い顔をしつつ、えいとリオはまた我慢して、今度はむせぬよう気をつけて一気に飲む。喉を鳴らしながら、ごくりごくりとあるだけを飲み干して、ぷはと息を吐く。

「う、ぷ……ヒック、げほっ……」

 やっぱりまずいし、体が熱くなってくる。

 結局こんなものの何がいいのかと、込み上げてくる酒気に早速、後悔し始める。

 だが、何がいいのだろうという納得できないがゆえの妙な好奇心でちびちびとリオは舐めるようにして酒を口にし続けていき、とうとう酔っ払うに至り、意味もなくヘラヘラとしていたかと思えば突然寝落ちしてしまうのだった。


 二日酔いというものはなく、むくりと起きたリオだったが、どうして酒なんて飲んだのだろうと自分のことながら謎でそのことに寝起きの鈍い頭を回した。

 が、すぐ尿意にぶるりと体を震わせて用を足す。

 すっきりしたところで、緋天は着替えを持ってきてくれたのだろうかと最初に休んでいた掘立て小屋に戻る。と、そこに見知らぬ老人がいて1人で何故か茶を啜っていた。

 蛇の目の残党か関係者かとリオが警戒しかけたが、その老人が長い白い眉を垂らした目で一瞥するとちょいちょいと手招きをしてくる。

「あの……」

「お主かの、表にあった死体の山を築いたのは」

「……い、一応」

「ほおう、若いのに随分と……。いや、若いがゆえ、かの。だが血気盛んな若者といった雰囲気でもない。不思議なものだのう。ほれ、近う寄って茶でもどうだ」

 まったくもって知らない、初対面の年寄りに招かれてリオは戸惑いつつ、特に危険そうなものを感じ取れないのでおずおずと小屋に踏み入った。囲炉裏のように、板張りの真ん中だけくり抜かれて竈門のように石が積まれたところがある。そこで薪が火を持って天井から吊り下げられた小さな鉄瓶を暖めている。老人が鉄瓶の湯を急須へ移して、置かれていた湯飲みへ茶を注ぎ入れた。

「出涸らしの茶だが、茶には違いあるまい。熱いからのう、気をつけて飲むのだぞ」

「ありがとうございます……?」

 どうして見知らぬ老人の茶飲み話につきあう流れになっているのかとか、この老人は誰かなのかとか、緋天はいつになったら着替えを持ってきてくれるのかとか、リオの中で色々なことが疑問になって渦巻く。

「不思議なものでのう……。その昔、茶の湯を世に広く伝えたのは、当時の八天将でも随分と武功を誇った御仁だったそうだ」

「茶の湯……」

「うむ。心を無にし、ただ茶を淹れ、味わう。それを形式ばったものにしただけだというのに、いつの間にやら、血で血を洗い、臓物をこぼして笑う修羅ほどこれを好むようになったというのだ」

「何それ怖い……」

「ほっほ、怖いか。まさしく。およそ、人らしからぬ者ほど、不思議と惹かれたという話だから奇妙、恐ろしいほどの魅力があるのだろうのう。さて、ではどうしてそんな魅力に取り憑かれてしまったのか。こんなことに興味を抱いた者がおったそうだ」

「……何でだったんですか?」

「これだという明快な答えはやはり出せなんだ。しかし、その者はこう、結論づけた。

 戦場(いくさば)において修羅のごとく猛る者であっても恐怖するものがあった。己が何者たるかという自問である。血の海を渡り切った猛者どもは、己が人であるという証左を欲した。茶の湯を通じ、己の気を鎮め、戦の昂りを殺すことで己がまだ人であると己を識る。これをせねば人であることを確かめられなかったのだ、と申したそうな。

 血の気の多い恐ろしきかつての猛者どもは、茶の湯をせねば己が壊れてしまうのではないかという葛藤に苛まれるほどであったということかのう。何とも哀れな話だわい。ほんの一服の茶を点てて、これを飲む。ただそれだけの静かな時間さえ、意識的に用意せねばならぬ苛烈な戦いに身をやつしておったのだろう」

 湯呑みを持って、リオはじっとお茶を見つめる。あったかいお茶を飲むのは随分と久しぶりな気がした。ふうっと息を吹きかけて湯気を飛ばして冷ましてから少し啜る。

「さて。……つまらん話はこれで終わらん」

「てっきり終わりかと……」

「わしは不思議でのう。何でお前、平然としてる?」

「……はい?」

「あんだけ人を斬り殺しておいてケロッとしとるのはどういう神経しとる?」

「だって……やらなきゃ、やられてたし。……どうせ、生きてたって迷惑な人達だろうし」

「しかし、あんなごろつきにも親がおったのう。腹を痛めて産んだ母がおったはずだのう。あるいは、父親(てておや)の悪事など知らず、いつか顔を見れるやもと期待する幼き子がいたかも知れぬ。時が経てばいずれ、改心し、重ねてきた悪行の分だけ善行を積むという奇特な人物もいたかも知れん。これを一方的に迷惑と片付け、斬って捨てる。お主、何様だ?」

 責められているにしては、どこか間の抜けている――しかし胸に鋭く刺さってくる言葉を吐きつけられてリオは押し黙った。

 老人は不思議だ、とありありと書いたかのように目をまん丸にしてリオをじっと見つめてくる。それだけなのに何故だか気圧されるような静かな迫力をリオは感じ取ってしまう。

「――と、まあ、問うてはみたが、責めたわけではないからのう。そう身構えずとも良いわい」

 不意に老人が柔和な表情を浮かべてそう言い、緊張して肩に力が入っていたのをリオは自覚した。

「しかし……忘れてはならんことだ。それが人であるならば、人には必ず親がおった。また、どれほどの悪党と成り下がろうと、その年まで関わり合うた人がおった。あるいは救えぬ悪党もいようが、果たしてそれが全てかとは分からぬことだ。百の悪行に手を汚しながら、二や三の善行も重ねておったやも知れぬ。これを私的に裁いて良い道理はないのだ。お奉行にでも突き出すのが道理というもの。いくら他者を容易に斬り捨てられる力や技があろうとも、それは偉さではなく単なる暴力でしかないのだからのう。良いな」

「……えと、ハイ……」

「んむ。素直でよろしい。さて……わしは行くかの。さらば」

 茶を飲み干し、湯呑みを置くと老人は腰を上げて出て行った。

 それを見送ってからリオはお茶をまたすすって、首を傾げる。

「……誰?」

 しばらく座ったままリオはお茶を飲み続けた。


「お師様ッ、どこをほっつき歩いていたんですか!」

「うわっ?」

「あれ? ……いない?」

 いきなり凄まじい剣幕で入ってきた緋天が小屋の中を見渡し、神妙な顔をする。リオの傍らに置かれていた、先ほど老人が使っていた湯飲みを見ると今度は苦々しい表情となった。

「リオ殿、ここに狸みたいなジジイはおりませんでしたか?」

「……いた」

「こう、背はこれほどで……ちょっと偉そうで、ジジ臭くて、見た目だけは好々爺っぽい」

「……もしかして、緋天の師匠って、あの人?」

「その御仁です。一足遅かったようですね……。しかし、どうしてこんなところに。何か、迷惑なことでも言われたのでは?」

「ええと……茶の湯? の、お話と……何様のつもりだ、って軽いお説教みたいな、ことを……」

「……左様ですか。いきなり出てきて説教かまして、帰るとは自分勝手だったことでしょう。お詫びします」

「い、いえいえ……? それより着替えって、持ってきてくれた? 随分、時間かかったような」

「ええ。もちろん。……囚われていた方達を村までお連れしましたら、ささやかながら宴が催されてしまい、捕まって抜けられなくなってしまいました。遅れてしまってすみません」

「そう……」

「それに降参した残党を縛り上げて、処分をどうするかといった協議もせねばならなかったものですから」

 背負っていた風呂敷を下ろして緋天が広げ、畳まれた着物が取り出される。

 渡されてリオは少し固まってから、広げた着物の襟を口で挟んで帯を解く。片腕での着替えというのは億劫になるほど手間がかかり、大変なものでいまだに慣れず時間をかけてしまっている。着替え始めるリオをよそに緋天は残されていた湯呑みを持ち上げて懐にしまう。

「それと、今後のことですが村へ戻れた方々の中には虐げられて怪我を負っている者もいらっしゃいまして、先に彼らを診てから柊尋岳を登るということで巴殿と話しました。リオ殿もよろしいですか?」

「うん、別に僕は急ぐ理由はないし……」

「承知つかまつりました。……着替えるの、手伝いましょうか?」

「……だ、大丈夫」

 どうにか袖を通し、帯を締めようと四苦八苦するリオだったが遠慮して答える。

「それでリオ殿、懸念していることがございまして。昨夜のリオ殿の戦いぶり、多からず村の方が見てしまいまして、リオ殿を怖がっている者がいるのです。ほとぼりの冷めるまで、リオ殿は村へ降りぬ方がよろしいかも知れませぬ」

「えっ」

「着物を取ってくると言いましたのも、それを案じてのことでした」

「……怖い、かなあ?」

「リオ殿のお人柄さえご存知になれば変わるやも知れませんが、しかし、恐怖している方の心を開かせるというのも難しいことです。ですから、少しほとぼりが冷めるのを待つべきと愚考しました」

「そう……あの、やっぱり、手伝ってもらえる?」

「ええ、もちろんです」

 帯を締めるどころか、着物を合わせるのに今日は手こずったリオは結局、緋天に助けを求める。慣れているかのようにちゃっちゃか手早く着せてもらい、帯を締めてもらい、リオは手際に感心してしまった。

「それと、もう1つ懸念している事柄がありまして」

「もう1つ?」

「ええ。昨夜、この拠点にいたのは死亡者含め、58人でした。しかし村へ戻った方々より話を聞いたところ、もう何十人かがいて、柊尋岳を登っているとか。そしてその中に連中の親玉もいるそうです」

「もしかして、三途の使徒――」

「いえ。それではなく、何らかの目的を持って大挙してきた連中の、まとめ役という程度のようです。しかし神器を持った人物だというところまで聞き出しまして。三途の使徒という幹部連中には及ばぬまでも、それなりの手練れというのは想定されます。少なくとも、真っ当な働きができず山賊紛いのことをしているような連中を50人以上も束ねているのですからまずは腕っ節、そして恐怖政治の敷ける強面というのが必要条件でしょうとも」

「なるほど……」

「ですから、柊尋岳を登る最中で遭遇することを視野に入れねばなりません。巴殿は荒事になれば無力でしょう。昨夜はリオ殿がお楽しみをされたのですから、次は拙者がその役を務めますから、遭遇しましたら巴殿をお願いいたします」

「あ、うん。……そういえば、借りた刀。ボロボロにしちゃったんだけど」

「いずれ、どこかでお返ししていただければ。それなりの逸品でしたのでお高いものですが、リオ殿より大金をせしめようとは思いません。地道にコツコツ、様々に返してください」

「……ですよね……」

 案外、あっさりと無償で許してくれるのでは、と期待していただけにリオはにこりと浮かべた笑顔と裏腹の、緋天の腹黒さに触れて肩を落とす。

 緋天の刀はきっと、良いものだったのだろう。

 しかし澄水があまりにも特別だったのだとリオは思い直した。手入れなど一度もしたことがなかったのに、ずっと切れ味を保ち、歪むことも刃毀れすることもなかった。それに比べてしまえば緋天に借りた刀は、ほんの数十人を斬っただけで使い物にならなくなってしまうものだった。扱いが悪すぎるのだろうかと自省してみても比較対象がなくて分からない。

「村に戻らない方がいいなら、ずっと、僕はここ……?」

「ほんの1日やそこらの辛抱ですよ。拙者もこちらにいますし。のんびり寝て過ごしていればすぐ過ぎましょう」

「のんびり寝て過ごすって言われても……」


 ほんの半刻ほどで、リオが無警戒にぐうすかと眠りこけているのを緋天は複雑な表情で目の当たりにした。

 確かに寝て過ごせばすぐとは言ったが、とはいえ、本当にこうも眠れるものだろうかと自問してみた。そも、リオ自身もまだ朝の時間帯というのにすぐにまた眠れようはずがないとばかりの反応をしていたのだ。

「本当にはかりかねることばかり……」

 嘆息してから緋天は洗ってきたリオの着ていた着物を物干し竿へかける。

 話に聞いた無迅なる悪霊がリオの認知の外で勝手に取り憑いていると考えた方がよほど納得ができてしまう。それほどリオには両極端な価値観が同居しているように見えて仕方がない。しかも、蛮行ばかりにはしる悪党がたまにやさしさを垣間見せるというのは珍しくないが、リオはその反対である。小心者で、きっと根の深いところで呑気で、それゆえに他人に振り回されることに慣れきっているという素の中に、情け容赦のない人斬りの本性とばかりの獰猛さが混じり込んでいる。

 そんな人間性への疑念を確かめるべく観察していれば、ころっと寝ているのだから緋天には悩みの種でしかない。普通、寝るだろうかと考える。寝起きにも関わらず。まだ残党が山にいるとわざわざ教えていたはずだというのに。その中には神器を持った輩までいると確かに告げたはずだというのに。

 もう、リオへの警戒など意味のないことと断じても良いのだろうかとまで緋天は考えた。

 きっと無辜の民草に非道を働くことはない。恐らくないのだろう、と思いたいのだが、緋天の想像にないことをリオはしてくるのでいつまでも判断がつけられないというのが本音だ。

 もしも判断を見誤り、自由にさせてしまったばかりに被害が出たということを想像すると、緋天には非常に頭を悩ませられる。

 しばらく、気持ち良さそうにぐっすり眠るリオを眺めてから緋天はまた嘆息する。

 つくづく未熟な身の上であると思い知らされている気分だった。


 ▽


「緋天様、神秘の赤花というのはご存知だったりするかしら?」

「神秘の赤花、ですか……。ほんの言い伝え程度、何でも、いかなる傷病を癒す万病の薬になるらしい……という話を耳にした覚えはありますが」

「やっぱり物知りなのね……」

 巴が拠点のところまで緋天に先導されて登ってきて、それから本格的な登山が開始された。

 緋天が先導をして通れそうな道を探索しながら地道に登っていく運びとなっている。その中で巴が今回の探しものについて緋天に尋ねていた。

「もしや、それが柊尋岳を登る理由なのですか?」

「ええ……。高いところに咲くという話を聞いて、天丘では見つけられそうになかったから、他に高いところと言ったらここくらいしか思い浮かばなかったのよ」

「高所に咲くというのは初耳です。とはいえ、他にどのようなところに咲くというのは聞いた覚えもないのですが」

「そうですよね……。本当に言い伝え通りの万病に効くというのなら、取り尽くされているか、その秘密を知っている人間を絞って独占したがるものでしょうし。けれど、だからこそ天丘か、この柊尋岳かって思いもしたの」

「確かに巴殿の推理は正しいものでしょう。高所に咲くという話と、実在していて万病の薬となるのであれば、天丘の天子様の御殿の何処(いずこ)か、あるいは前人未到の柊尋岳か。いずれかかも知れませぬ」

 リオは何が何だか理解できずに、巴の後ろにくっついてのんびり歩いている。まだ道はそう険しくはなっていない。しかし頂上の方は雲がかかっていて見えず、少なくとも雲の上程度の高さまではあるらしいということで気乗りはしていない。気乗りはしないが右手を取り戻せるかも知れないという希望はあるので嫌がってもいない。そんなフラットな精神状態でいる。

「ともすれば、この柊尋岳の登頂はやはり気を引き締めねばなりませんね」

「ええ。だから、リオちゃんと緋天様と、一緒に来てくれるとなった時にとても心強かったんです」

「リオ殿、聞いています?」

「え、いや、あんまり……」

 いきなり緋天に振られてリオは少し慌てながら素直に答える。

「ふふ、リオちゃんったら」

「いえ、あまり笑いごとではないかと……。一層、警戒せねばなりませんからね?」

「えっと……何で? 聞いてはいたけど……」

「では僭越ながら拙者よりご説明いたします……」

「お願いします……」

 呆れられているのを察して申し訳なさにリオは少し萎縮する。

「神秘の赤花とは万能の薬と言われます。無論、実在さえ疑わしきものではありますが、今回は実在する場合についてです。もしも実在しているのであれば、これが咲くところというのを人は隠したがるでしょう。希少なものと伝えられていますから、これを独り占めできれば自分だけはずっと安心です。あるいは己の家族、子孫に病気や怪我の心配がなくなります。あるいは莫大な富のもとにもなりましょう。つまり神秘の赤花の実在を知る者は、その守り人となる可能性が極めて高いと言えます」

「うん……」

「さて。では仮にこの柊尋岳に本当にその神秘の赤花があるのであれば、守り人もいると仮定できます。果たして彼らは他所から神秘の赤花を求めてやってきた者にそれを分け与えるでしょうか?」

「……いい人だったら?」

「ええ。好人物であれば、あるいは。しかしここは柊尋岳。誰も登頂に成功した者はいないと言われております。頂上を目指した者はいずれも帰らぬ人物となってしまった。単純に険しい山道であり、その途中で落命したというのも頷けますが、守り人が存在しており、神秘の赤花の秘密に触れようとする者を口封じしていたとも考えられませんか? もし、神秘の赤花を分け与えた者が人里に戻り、もう助かるまいと言われていた者を癒したとなれば世間にその実在が知られ、あちこちから神秘の赤花を求めた者が押し寄せてくるかも知れません。守り人を邪魔者とみなして排除してくるかも知れません。……リオ殿、守り人の立場から見て、今の我々はどう見えるでしょう?」

「……面倒ごとの種?」

「ご名答です。ですから、気を引き締めるべきとご忠告したのです」

「なるほど……」

「まして、誰も登頂したことがないとまで言われています。近づくものを手にかけたとて、登山中の事故にでも遭ったのだろうと解釈をされる素地があります。そしてそれを確かめる者さえいないのですからね。山を登った全員を始末してしまえば。あ、そこ滑りやすいと思うのでお気をつけ――」

「うわっ!?」

 尻餅をついて転んだリオを緋天と巴が振り返る。

 恥ずかしさで赤面するリオに巴はくすりとほほえんで、緋天はリオのところまで数歩戻って手を貸した。


 登山はまだ標高の低いところはそう大変ではなかった。

 しかし少しずつ傾斜は厳しくなり、迂回路を探そうとしても上へいくためにはほとんど崖のようなところを登らなければならなくなったりと難易度を増していった。高所になれば酸素も薄くなり、息が上がりやすくもなる。まずリオが弱音を漏らし始め、巴も口にはしなかったが苦しそうな顔になっていった。

「何事も焦っては良い結果が生まれぬでしょう。まだ日は高いところにありますが、しばし休息を取り、様子を見て本日はここで休みましょうか」

「賛成……」

「ええ、そうしましょう……」

 緋天は優秀な案内役を務めている。できるだけ登りやすいところを探し、もし、その先で難所があれば引き返すことも提案して安全を最優先に先導をしていた。しかし柊尋岳は険しい山だ。登山道が整備されているというわけでもなく、手探りで道を選んで進んでは引き返し、という精神的な負荷も相まっていた。

「もしかすれば想定した守り人というのもいないかも知れませんね……。正直、前人未到というものを甘く見ていました」

 火を起こした緋天が彼にしては珍しく疲れたようにそうこぼす。

 乾飯を鍋に入れていた巴も疲れた顔をしており、3人の空気感は重い。

 リオはただただ疲れて、膝を折ってしゃがんだまま口を動かすことさえしなかった。

「しかし、ここまで登ってきて、少々、違和感もありました」

「違和感?」

「はい。先日、捕らえた蛇の目の残党より、この山を登っている仲間がいると聞き出していたのですが、どうにもその痕跡が見られません。登っている道が違うだけならばそれまでですが、拙者はできるだけ安全な道を選びました。後ほど、大勢の集団で登るということを考えれば、その蛇の目の先発の連中も同じような道を選ぶと思うのですが……」

「最初に選んだ道が異なっていれば、その後も出くわさないということもあるんじゃないかしら?」

「ええ。それも十分に考えられることです。……杞憂に済めば良いのですが」

「案外、とっくに守り人っていうのにやられちゃったり?」

 リオがぱっと思いついたことを言うと、緋天と巴の表情がさらに曇った。それを見て、リオは初めてあえてその可能性に触れずにいたのかと察する。

 どんよりと、疲れと先行きへの不安感でさらに空気が重くなってしまったのを感じながらリオはそうっと俯く。余計なことを言ってしまったと反省している。

「き、気を取り直して、食事にしましょう。緋天様、お水をお願いします。それにお味噌も。あの美味しいお味噌さえあれば元気も出ますから」

「実は……先日の宴の折、振る舞ったのが最後でして、味噌は切らしてしまいました」

「えっ、ないの?」

 地味に楽しみにしていたリオが思わず言い、沈黙が生じた。

 誰もが地味なショックを受けていた。

「そ、それでも食べれば元気は出るわよ」

「この失態、見過ごすことはできません。拙者、何か食せる野草がないか、見て参ります」

「え、いえ、そんないいわよ」

「いいえ、拙者の気が済みませんので!」

 竹の節を利用した水筒から鍋に水を入れてから、緋天は茂みの中へ行ってしまう。

 余計なことを言い過ぎたとまたもや後悔しつつ、リオはそっと巴の顔色を伺う。

「もう、何て顔してるの、リオちゃん。別に悪いことなんかしてないのに」

「え、そ、そんな顔してました?」

「してた」

「ごめんなさい……」

「だから謝ることないわよ。お味噌がないのは少し残念だったけれど緋天様もあれほど思い詰めなくていいのにね。やっぱり根が真面目なのね。緋天様のお師匠様、立場がある方と仰っていたけどどんな方なのかしらね」

 八天将らしいですよ、とは口止めされている手前にリオは言えず、曖昧に愛想笑いをする。

 と、緋天が先ほど入っていった方の茂みからガサガサと音がして戻ってくるのが早いと思ってリオが顔を向け――ぎょろりとしたまん丸の、見開かれた目を直視した。蛙のような少し下ぶくれしているような顔の男がこちらを伺っていたのだ。

「ひっ!?」

「何っ?」

 リオが驚いて腰を抜かしたように尻をついて巴も視線を追う。

「あ、あなたは……誰?」

「……女。女か。女だ。女だな」

 蛙顔の妙な男は大人ではあったが、年齢がよく分からなかった。

 肌艶はあるが若いという雰囲気ではなく、発せられた声は変な押し殺された興奮が感じさせられ、酷く不気味としか言えない。頭髪は細く長いが額から頭頂にかけて薄く、耳の上から後頭部にはしっかりと残っている。

「何者なの、近づかないで!」

 怯えるように巴が警戒して鍋をかき回していた大きめの木の匙を不気味な男へ向ける。

「お、おで……おで、女、好きだ。うまい……。肉、やっこいだ……」

「巴さん、下がって」

 よく分からないがともかく不気味な怖さを感じ取りながらリオが借りたままの緋天の刀に手をかけながら立ち上がる。茂みの中からその男が出てくると、片手で意識がない緋天を引きずっていた。

「緋天様……!?」

「が、ガキも、まずくない……。肉、やっこい……だ、だけんど……ち、乳がない」

 にぃっと男が歯を見せるようにして笑みを浮かべる。黄色い汚れた歯だが、欠けていたりはしていない。ただただ、気味が悪買った。だがリオはその不気味さよりも、緋天が気絶しているというのが驚愕だった。口ぶりではかなり腕が立つ風であったのだ。それがどんな意味があるのか分からぬ、単なる見栄だったとは思えない。それなのに、ほんの少しの間でこの男と接触してやられてしまったのかと思うと何をされたのかという警戒心が先立った。

 茂みから出てきた男の姿を見て、リオは腰紐に括られたものに注視した。香炉のような、携帯用の蚊取り線香の入れ物のような、ぼろ布を纏った男の格好には不釣り合いなものだ。履物さえないのに、そんなものを身につけているというのはおかしすぎる。神器かと目星をつけて、リオは目を細める。くすんだ緑色で、金の飾り細工も施されている。この日の本では明らかな高級品だ。

「リオちゃん……」

「だ、大丈夫ですから、下がってください……」

「ひ、ひ、ひひ、ひ……ガキと、女。おで、ついてる……。ごほうび、だでな」

 これが柊尋岳の仮想・守り人の正体だろうかという考察は後回しにしてリオは呼吸を整えるように静かに息を吐き出す。

 そして、一直線に突進していきながら刀を振り抜いた。武器らしいものは持っておらず、ガニ股で猫背気味に立っているだけの男。反撃を食う可能性を捨てて、最短距離・一撃必殺を狙って首を一太刀で跳ね飛ばすつもりで刀を振るう。

 刃毀れしている刃が首へ食い込み、連結されている頸椎の隙間に通して断ち切る。そのイメージがリオの脳内にはあったが、刃は首の半ばまで食い込んだところで止まり、切断するに至らずに男の体を横倒しにさせる結果となった。

「ぎぎゃああ、あああっ! い、(いだ)い、いいっ!? 血、ィ、いいい……!」

「っ――」

 バタバタと痛みに暴れるようにする男の脇腹へ刀を突き落とし、腹を捌き開くように切り裂く。

「ぎゃああああああっ! あ、あああっ!」

「死なない……!?」

 痛みは確かに感じているのに、男はこぼれた内臓を体に絡ませるようにジタバタと足掻き回る。それならばと片足で男の首を踏みつけて押さえながら、目玉に今度は刀を突き落とした。眼窩(がんか)から脳天までを抉りきれば死なない道理はない。そのつもりだったが、尚も男は言葉にならぬような叫び声を上げながらさらにのたうち回る。

「何で――!?」

「リオちゃん、緋天様を! 逃げましょう!」

 生き物ならば確実に死ぬはずの攻撃を三度も入れて、まだ動き続ける男に思考が止まりかけたリオは巴の声で我に返った。刀を放り出し、倒れている緋天の腕を自分の肩にかけて走り出した巴を追って駆ける。後ろからずっと聞こえてくる男の絶叫がただただ怖かった。


 ▽


 不死の人間など有り得るのだろうかと、リオは横になったまま視界に入れている焚き火を眺め考える。

 たまに風のせいか、茂みがざわつくとそちらを振り返らずにはいられなかった。方向も分からず、必死に走って逃げてきた。ひとまず追われていないのを確かめてから、リオと巴は緋天が起きるのを待つことにしたが夜が老けても目を覚まさなかったのでそのまま眠ることにした。

 だが、とても眠れはしない。

 また死ななかった、あの男がいきなり出てくるのではないかと怖かった。

「……巴さん、起きてますか?」

「……ええ」

 横になってから随分と経っているのに返事があって、リオは体を起こす。

「あれ……何だったんでしょうか」

「分からない……。けれど、ここなら、あるかも」

「……神秘の赤花」

 一体どんな代物なのだろうとリオは考えてしまう。

 どんな病も、どんな怪我も治すらしいという。しかしリオのイメージでは、ゲームの回復アイテムのようなものとしか想像できない。服用したタイミングで負っている怪我、あるいは病気をどういう理屈か、完治させる奇跡のお薬。

「だとしても、死なないって……」

「ええ……。不死の薬だなんて話は聞いたことはないわね」

「もしも、死ななくなるんだとしても、斬れば痛がってたし……。死なないだけで、もう治らないとか、治る早さは普通とかだったら、いいものじゃないのかも……」

「そうね……」

「や、やめませんか……? 緋天が起きるのを待って、山を降りて――」

「わたしは探す」

 もう逃げたい、帰りたいと弱腰になっていたリオは巴の決意の籠った即答に言葉を失う。

 巴は横になったまま、焚き火に背を向けて動かないのでリオからは顔を伺うことはできなかった。

「……前に、お話したでしょう? 成衛先生という方を追いかけて家出をしたって」

「はい……」

「その成衛先生が、病に伏していらっしゃるの。先生の知識をもってしても根治の術がない不知の病よ。毎日、ゆっくりと弱って、昔は年のわりに逞しかった体も痩せてしまって……。故郷が懐かしい、故郷に帰りたいって、大好きだった成衛先生が日に日に弱っていくのを見て、それが辛くって……」

「だから、神秘の赤花を……?」

「ええ。……もう一度、成衛先生に元気になってもらって、ずっと、旅をしたいの。わたしのわがままな願い……。でもそれがわたしの生き甲斐よ。だから……諦めない」

「でも、死ぬこともできなくなっちゃう……かも」

旅烏(たびがらす)の身だもの。不死になっても、すぐよそへ行くならずっと生きていても人に気がつかれたりはしないはずだわ。成衛先生ならきっと、きっと、長生きされればどんな病も治せるようになるわ。いいことじゃない……」

 それを本心から良しとはせず、自分へ言い聞かせているようにしかリオには聞けなかった。

 それほど成衛先生という人を好きで失いたくないのだということは分かったが、欺瞞の匂いも嗅ぎとれてしまってリオはまた閉口する。

「リオちゃんだって……右手を取り戻したいのでしょう? 今も、そう思う?」

「治るなら……そうしたいですし、死ぬなんて怖いから、死なないようになるなら、とか思いはするけど……でも、分からないです。分からないって、怖いですよ……」

「……無理をしてつきあってくれることはないわ。緋天様のこともあるし、リオちゃんと緋天様で降りてもらっても恨みはしないわ。ううん、こんな危険なこと、本当はわたしだけで……」

 そうしてしまえたら、もうあんな化け物みたいなものに出くわすこともなくなる。

 どれだけいいだろうかと思えたが、巴を残して下山というのも心苦しかった。きっと巴だけであの男と遭遇してしまったら、彼女は死んでしまうだろう。口走っていた、おぞましい言葉を信じるのであれば文字通りに食べられてしまう。男には乳がないなどと言っていた。体はバラバラにされ、くちゃくちゃと火も通さずに齧られながら死んでしまうのではないかと想像すると身の毛がよだってしまう。そんな目に遭わせられない。

「ダメです、そんなこと……」

「リオちゃん、無理しないでいいのよ」

「まだ、何もお礼できてないから。死にそうなところを助けてもらったのに、ずっと、お世話してもらってばかりで、足も引っ張って、怖くなったからって巴さんが大変なことになりそうなのに逃げるなんて……できない、ですよ」

 それでも諦めて下山してはくれまいかとリオは願う。

 ことここに至った以上、彼女は神秘の赤花を探すのだろうと思ってしまうが、それでもと願った。

「成衛先生はね、昔、家庭を持っていらっしゃったの。けれど病で娘さんを亡くして、奥様も心を病んでしまわれて息を引き取って……。医者なのに娘や妻を救えなかったと悔やまれて、償いのために大勢の人を救いたいから旅へ出て、地方の薬を調べて、病に苦しむ人を診て……。いくらお医者でも全ての病を治すなんてできないことなのに。それは自分が一番分かっていらっしゃるはずなのに、困難な道を選ばれたの。だからわたしも……成衛先生のように、困難があっても進みたい。弟子ですもの、それくらいしないと胸を張れないのよ。家を捨てて、勝手をさせてもらっている身だからこそ、誰にも胸を張れるようにしなくちゃいけないわ」

「……立派な師匠ですね」

「ええ。誰よりも尊敬しているわ。わたしなんかを連れてくださったんですから」

 近くにいて何かをやかましく言われているわけでもないのに、彼女の中に成衛という師の存在が深く刻まれている。

 これが師弟というものなのだろうかとぼんやり、リオは悪霊・無迅を考える。

 あんな化け物が出てきた時、無迅だったらどうするだろうか。

「……分かりました。もう、降りたいとか言いません」

「でも、リオちゃんは……」

「僕は二代目・人斬り無迅です。

 人斬り無迅は天下無双の大剣客を自称してるんです。

 だから、ちょっと死なないだけの化け物にビビってちゃダメかなって……」

 きっと無迅なら、(わら)うだろう。

 斬って死なないなら、死ぬまで斬り続けてやるとか言うだろうと想像する。

 無茶苦茶なことを本当にやってのけてしまうのが無迅だったのだから、二代目を名乗る以上はそれを踏襲しなければと鼓舞してみる。

「ふふ、頼もしいのね……。ありがと、リオちゃん」

「……はい。おやすみなさい」

「おやすみ」

 また横になり、目を閉じる。

 いつか、無迅のようになれるのだろうかと考えた。

 道理も、不条理も、等しく踏み(にじ)って剣を振るう。

 そんな無双の大剣客に自分もなれるだろうかと、そう考えた。


 ▽


「起きないですね……」

「そうね……」

 朝になっても緋天は目を覚まさない。

 呼吸は深く、気持ち良さそうな熟睡というよりも、これから起き上がることがあるのだろうかと疑いそうになる様子だった。巴も昨夜に眠る前と、今朝に起きてから緋天を診たが外傷らしいものはなく、自然に目が覚めるしかないと診断を下している。

 が、やはり起きない。

 起きないのでは、眠っている状態を背負うなりして歩くのは困難だし、山を登るというただでさえ厳しい状況なのに危険が多すぎる。互いに自分の身で精一杯な登山となっているのに、まだ子どもの内とは言え、人を背負っての行動は難しい。

「本当なら起きるのを待つべきでしょうけれど、昨日のこともあるし、早めに神秘の赤花を見つけたいわね……」

「はい……。これ、ただ気絶したってはずではないですよね、きっと」

「ええ。それならとうに目を覚ましているはずだもの」

「……昨日のあいつの腰に、神器みたいなものがあったんです。もしかしたら、それで緋天は眠らされてるのかも……」

「神器……。わたし、そういうのは分からなくて」

「僕も自信はないんですけど……神器の持ち主を倒さないと、もしかしたら効力が続いたりするのかも、って」

「じゃあ、昨日のあいつに? でもリオちゃんがあれだけしたのに……」

「死なない……ので、どうすればいいかと思っちゃって」

 そもそもどうして死なないのかとまで思ってしまう。

 神秘の赤花の作用によるもので、本当に不死だったのならばどうしようもない。

 死なないものを斬り殺す。不可能すぎる。無迅はどうするだろうとまた考えてみるが、とにかく斬り続けるのではないかという想像しかできない。

 悩んでいたところで、リオのようにじっと考えていた巴が口を開いた。

「もし、もしもよ……。本当に不死で、あれが緋天様が言っていた守り人なら、別に神秘の赤花を守る必要ってないんじゃないかしら?」

「えっ……?」

「だって不死なのでしょう? 神秘の赤花を誰が持ち帰って、どう使って、ここへ人が押し寄せてきたって平気じゃない。死なないのだから」

「……うん」

「けれどわたし達の前に現れた。……ご褒美、とか言っていたのを覚えてる?」

「……そういえば?」

「その前に、わたし達を見て……気味の悪いことを口走っていたわ。喜んでいたのよ。蛇の目の先んじていた人々をすでに手にかけていて、その後にわたし達っていうご馳走が出てきたから喜んでいたんじゃないかしら?」

 ともすれば、ここまでに緋天が痕跡を見つけられなかったのはとうに食べられてしまっていたせいとなる。

 ますます恐ろしくなってきてリオが顔を曇らせるが、巴は何か、活路を見出したように神妙な顔で続けた。

「死なないのではなくて、死にづらい……とは考えられないかしら?

 そしてそれは神秘の赤花によるもので、神秘の赤花を守るのは定期的に摂取しなければ不死が失われてしまうから。神秘の赤花を確保して取り上げてしまえばいずれ、命を保っていられなくなってしまうとか」

「……不死身じゃないなら、どうにかできる……かも?」

「でしょう? とはいえ、あとはリオちゃん任せになってしまうんだけど」

「……危険かも知れないけど、緋天を置いていきませんか? 確か、緋天は……えっと……」

 緋天の荷物をリオは漁って、風羽根を見つけ出した。

「これ。これも神器で、耳につけておくと会話できるんです。周りの音も、風の音とか……一緒に聞こえるから、緋天にこれをつけておいて、僕もつければもしもあいつがここに来て緋天をどうにかしようとしたら分かります。

 もし、離れてる間に緋天が目を覚ましても、これを自分がつけてるって知れば僕もつけてるって気がつく……はず、と思いたいですし、はぐれても大丈夫です。

 それで、頂上を目指して、あいつと出くわしたら僕が足止めするから、巴さんは神秘の赤花を探してください。ここまで登ってきてやっと出くわしたから、頂上がどこかは分からないけど、あいつの寝場所とかがあるのかも知れないし、そこに神秘の赤花があるかもって思うんですけど……どうでしょうか?」

 思いつくままリオは喋り立ててから巴を伺う。

 緋天を置いていくというのが彼女には気がかりだったが、ただ起きるのを待っているだけでは時間ばかりが失われてしまう。眠ったまま何も飲み食いできなければ緋天も体が弱ってしまいかねないという懸念もあった。

「そうね……不安はあるけど、どうしたってそれは同じね。そうしましょう」

「はい……!」

「でも緋天様を眠らせてしまった神器については、どうするの?」

「……あ」

 そこはもう、出たとこ勝負しかないなと早々に結論づけ、その苦々しい顔で巴も察した。

 しかし他にどうすることもできないので、そのまま出発することとなった。


 安全な道の選び方など分からず、リオと巴はともかく登れそうなところというだけで山頂を目指した。

 そうしていると緋天が登ったこともない山なのによくも立派に先導してくれていたものだと身に染みて理解できた。

 刀は置いてきてしまったので、できるだけまっすぐで頑丈そうな、落ちていた枝をリオは腰に差しておいた。緋天の短刀を借りようかとも考えたのだが、それでは緋天が起きて何かあった時に丸腰だと危ないだろうかと遠慮をしていた。

 だんだんと緑が少なくなってきて味気のないゴツゴツした岩場ばかりの景色になっていく。

 もしかしたら火山だったりするのだろうかとか、火山と普通の山って違いがあるんだろうかとか、疲れた体でへろへろになりながらリオはぼんやり考えながらひたすらに頂上を目指し這い進んだ。

「そういえば……神秘の赤花って、草のあるところにしか、咲かないんじゃ……? 岩ばかりですけど……」

「ええ。そう言われてるけど、神秘の赤花の咲く場所は高いところだから、そこだけ、緑があるって……嘘か真か分からないけれど」

「嘘じゃないといいな……」

「本当よね……」

 見かけたことのない、木の枝めいた変な虫が岩の上を這っているのを見てしまい、リオはそっと目を逸らす。

 大きな岩がごろごろと転がっている、傾斜のついた岩場。足元にも大小様々な岩やら石やらが積み重なっていて歩きづらいことこの上なかった。

 まっすぐ進もうとすると傾斜は厳しいが、回り道するようにして向かえば多少は緩やかに登れる。風羽根から何か聞こえないかとたまに耳を傾けつつもリオは息をゼイゼイと上がらせながら歩き続ける。

「あれ……何かしら……?」

「あれ……?」

 疲れて足元ばかりに目を落として歩いていたリオが、巴の発した言葉に反応して顔を上げる。

 大きな岩を積み木のように重ねたようなものが遠くに見えた。三方に岩を立てて、その上に一枚の大岩を乗せたようなものだ。自然にできたというものにはとても見えなかったが、しかし原始的に過ぎる。そもそもどうやってあんなに大きな岩を動かしたり、削ったりしたのだろうとまで思ってしまうほどである。

「……もしかして」

「かも、知れないわね……」

 顔を見合わせてから、リオはすぐ周囲をぐるっと見渡した。

 気がつけば雲が眼下に広がっている。白っぽい岩がそこかしこに転がっているばかりの殺風景な場所で、不気味なあの大きい目はどこにも見えない。

「僕が中の様子を見てくるので、巴さんは周りを注意しながら、隠れて待っててください」

「ええ」

「もし、中にあいつがいたら、外に引きずり出して足止めしますから」

「その間に中をひっくり返して、かき回して、神秘の赤花を探せばいいのね」

「あ、ハイ……」

 気合いが入っているのは良いことだろうということにして、息を整えながらそっと2人は岩の住居らしいものに近づいていった。10メートルほども離れたところで巴は岩の陰に隠れて、リオだけがそっと近づいていく。

 入り口の脇へそっと身を滑り込ませて、まず耳をそばだてた。

 風羽根からも、岩の住居からも物音らしいものは聞き取れないと思いかけた時、中から微かな呻き声めいた音が聞こえてビクッとリオは背筋を伸ばした。しかし、少なくとも気取られてはいないらしいと感じて腰に手を伸ばし、木の枝に触れて、固まる。とりあえずで持ってきていたが、あまりにも心もとがなさすぎる。やっぱり短刀を借りてくるべきだっただろうかと今さらに悔やみかけたが、仕方ないので木の枝を抜いて握り締めた。

 声をかけず、一気に襲いかかって、一気に外へ誘き出すしかない。

 しかし今さら、刃物でもない木の枝程度で足止めもできるだろうかとまた考えてしまった。

 やはり間違っていた。そう確信しつつ、いざとなれば拳でも足でもいいだろうと覚悟を決める。あるいは、何か中に武器になりそうなものがあるのでは、ということまで考えた。

 とにかく、奇襲で主導権を取りたいと考えてリオは呼吸を整えてから踏み込んだ。


 中にはやはり、あの男がいた。

 壁の方を向いて何かしていたが、それよりもむわりと鼻腔をなぞる臭さにリオは怯みかけた。嗅ぎ慣れている、血の匂い。そこに腐臭めいたものが乗った、重い、濃い嫌な臭いだった。床にはこびりついて黒褐色に変色した液体だったような何かが貼りついている。

 足音を聞きつけ、男が振り返った。

 手や口の周りに赤いものを付着させていた。

 汚れた男の右手には、赤い雫をぼたぼたと垂らす鉈が握られていた。

 男を汚している赤は、全て彼のものではなかった。

 男の向こうに垣間見えたものを目に留めないようにしながら、リオは木の枝を思い切り突き出した。

「お前、ええええ!」

 呆気なく枝は反射的に上げられた男の腕で防がれてしまい、その手に握られていた鉈がリオの顔より高くまで持ち上げられていた。

(いだ)かったんだどお!」

 落ちてきた鉈を握る手をリオは下から打ち上げるように押さえて防ごうとしたが、想像よりも強い力で止めきれなかった。滑るようにして鉈はリオの右肩に落とされる。肩がもげたか、それとも砕かれたかという激痛と衝撃で膝からそのままリオは崩れ落ちる。

 さらにもう一度、鉈が上がる。

 今度は仕留められるという悪寒が奔った。

 ガニ股の男の足の間へ転がり込むようにリオはどうにか逃れる。

 素早く起きあがって岩屋の中を見渡し、入口の近くの壁に立てかけられていた長い太刀を見つける。

「逃さねえど、チビい!」

 歯を噛み締めておかないと苦痛の声が漏れそうだった。どこまで我慢できるか分からないながら、息を止めるようにしながらリオは太刀に左手を伸ばし、それを掴んで外に逃れる。しかしすぐ、ゴツゴツした岩に足を取られて転がった。鞘を足で地面に押さえながら片手で太刀を引き抜くところへ、追ってきた男がまた鉈を落とす。

 間一髪でどうにか鉈を受け止め、太刀ごと体を引いてどうにか距離を取る。リオの愛用していた澄水よりも前腕一本分は長く、反りも強めの立派な太刀だった。だが、それだけに左手だけで扱うには重すぎる。

「お()はなして、かからんだ」

「は……?」

 何が、とリオは忌々しそうに言った男にきょとんとする。しかしその反応が気に入らないのか、男が奇声を発して鉈を振り上げた。

 先んじてリオは重い太刀を振り上げて鉈にぶつけ、弾いてから重力に任せて落としたが、せいぜい引っ掻いた程度の少し出血させるほどの怪我しか与えられなかった。

 決して、この男は強くはない。

 しかし死なない。昨日与えた傷も、今はすっかり治ってしまっている。長引けば手負いの自分が不利になってしまう。

 じりじりと後退しながら男を惹きつけるように岩の住居から遠ざかる。

 鼻息荒く男はリオの思うまま追いかけてくる。足を取られないようにしながら走る。右肩が痛くてたまらない。高地で酸素の薄いせいか、すぐに息が上がって戻らない。そして風が吹くと酷く寒かった。そして右肩が痛くてたまらない。

 痛みも、息苦しさも、寒さも、ぐっと歯を噛み締め、唇を結んで、眉間にしわを寄せながら我慢しながら、充分に距離を取ったと思ったところで足を止めた。

「はぁ、はぁっ……」

「ぜい、ぜい……どこまで逃げでも、変わらんど……」

 太刀を握る手さえ、疲れていた。

 持ち替えて手を休めたくても、握る手がない。

 首をはねればさすがに死ぬかとか、足を狙って動けなくさせた方がいいのかと逡巡する。

 そこへ、先に男が鉈を連続でリオに叩きつけてきた。逆手に太刀を持ち直し、峰を腕につけて支えにしながらそれを受ける。疲れたように攻撃を中断した隙に距離を取って構え直す。

 巴が神秘の赤花や、この不気味な不死身めいた男の不死性の秘密を握る何かを早く見つけてくれないかと、リオは彼女の隠れていた方へ目を向ける。――と、そこに見えたのは岩の住居への途中で倒れている巴の姿だった。

 リオが目を疑った顔を見て男が振り返り、巴の姿を認める。するとリオに振り返った顔にいやらしい笑みを男は浮かべていた。

「女はかかっただな。あどは、お()だけだど……」

「神器……」

 緋天がほんの短い時間でこの男に引きずられて出てきたのも、目を覚まさないのも、やはり腰にある香炉のような、携行用蚊取り線香のようなもののせいと確信する。そして、どうやら目に見える形で使用するということをせずとも使えるらしい。むしろ男の反応を見た限り、巴が勝手に神器に影響を与えられていたという雰囲気でもある。

(何で僕には効いてないんだろう……いいことなんだけど、変なの……肩痛い……)

 緋天に加えて巴まで倒れたというのは精神的な負担だが、どうやら神器で昏倒させられることもないらしいと分かった。

 しかし、いよいよ、どうにかして殺さなければならないという状況にもなってしまった。息の根を止めれば神器の効力も失われる――と思いたい。そう考えるしかなかった。

「お()さやったら、飯だど……」

「ひ、人なんか、食べるの……?」

「うめどぉ、女は……。ガキは肉少ないだが……やっこい」

 人を食べるなんて、最早、人ではないとさえリオには思える。

 太刀を握る手に力を込めて、重いそれを左肩に担ぐように持ち上げてからリオは駆け出した。

 リーチに入る寸前に肩から上げて振りかぶった太刀を振り落とすが、鉈をぶつけられて弾かれる。横へ逸れると、その方向へ体を一回転させて遠心力を乗せながら振り切る。重さに慣れず、ほとんど振り回されるという格好だが男の垂れ出ているような腹を思い切り捌き開いた。

「うぎ、ぎ……!?」

 長く重いので小回りを利かせられない。まして、左手だけで扱うしかないとなれば尚更だ。畳みかけたかったがリオは重心を下げる程度ながらも少し引いてから、また太刀を振り落とした。

(いで)えどおおっ!」

 また、鉈に弾かれ、押し返される。

 その拍子に足元の大きめの岩石に足をもつれさせてしまった。

 せめて牽制をしようと太刀を振り回そうとしたが、握力も限界に近く手がすっぽ抜ける。

「っ――」

 無防備になったリオに男の影が差す。

 咄嗟に出したのはすでに前腕の先がなくなっている右手だった。

 熱――それも、少し湯を吹く鍋に触れた程度ではない、チンチンに熱せられた金属に触れたかのような、熱に似た痛みがまず奔った。その感覚に今度は全身の筋肉という筋肉を反射的に固めてしまうような、凄まじい激痛が追いついてくる。肘が割れ、自分の鼻先に鉈の先が迫り止まっていた。

 一度こぼした太刀を左手で探り当て、胸を開くように左腕を大きく引いてからリオは思い切り男に突き刺す。脇腹から肩の後ろまでを差し貫くと、また男は絶叫して痛みを大声量で表現する。叫びたいのはリオも同じだったが、声を出す余裕さえもなかった。

 ただただ痛みに震えながら、しかし反撃を止めてしまえば自分が仕留められるという危機感のみで、内臓をこぼしている男の腹を片足で蹴りながら太刀を引き抜いた。太刀を手放して、右肘から落ちた鉈を拾って、もんどりうって絶叫している男へリオは近づく。

「死ね!!」

 痛みを全て吐き出すかのような勢いで、リオは叫びながら鉈を落とす。

 まず男の頭を鉈が叩く。二度、三度、四度――と執拗に振り上げては叩き落とし、とうとう、頭骨が割れた。だくだくと血が溢れるところへさらに鉈を叩き落としたころには絶叫もやんでいたが、体はまだ何らかの反応を拾っているかのように痙攣して動き続けている。

 鉈はそう長くもなく、片手で扱うには丁度良かった。

 そのままリオは今度はちょろりと長い毛が1本生えていた男の首へ鉈を落とす。骨の半ばに一撃で刃が入り、二度めで首の裏の皮を残した状態まで切れる。ぶぴゅ、と噴いた血がリオの目にかかったが、すぐ袖で拭い、鉈を捨てて太刀をまた拾って今度は心臓めがけて突き落とした。

 頭を割り、首を叩き折り、心臓まで穿ち、あとはがむしゃらに、めちゃくちゃに、男の体へただただ穴でも開けるのが目的であるかのように幾度となく太刀を刺しまくった。


「はあ、はあっ……痛っ……う、はあ……」

 息を切らしながらようやくリオは痛みに負けて、その場で膝をついてしゃがみ込む。太刀をこぼし、右腕を握りながらぎゅっと目を瞑りながら痛みに震える。どれだけ堪えても、マグマに身がさらされているかのように激しい痛みが続く。うずくまってただただ痛みに堪えているだけで、脂汗がだらだらと滲み流れていった。それでいて体は骨の髄から冷えるかのような心地がしてくる。

「ふう、ふうう……っ……」

 どうしようもない痛みに堪えかねても、何もすることができない。どうしてか、とにかく呼吸を落ち着けようと試みても、引き攣るような痛みにさらされる度にそれが乱れて息を吸ってしまう。

「――ゆ、ゆる、さ、んど……」

「嘘……」

 ずっと瞑っていた目を開けてリオが顔を上げると、徹底的に破壊したはずの男が手を体の後ろに突きながら仰向けから起きようとしていた。傷口がぶくぶくと白い泡を立てている。

 もう、これ以上はやれない。

 この痛みがある限りはろくに動くことさえもできない。

 万事休した、とリオは頭の中が白くなった。男の動きは酷く緩慢で、声も呂律の回っていないものだったが、再生しようとしている。この不死の化け物に重傷を負わされた時点で終わっていたのだと悟る。

「痛えど……痛えどお……」

 恨み節のような男の声に気が遠のく。

 逃げようとしても、もう足に力が入らない。

 男がとうとう、上半身を起こした。重そうな動きで、手をつきながらゆっくりと立ち上がる。そして鉈を拾った。

「許さんど……許さんどお、ガキ……」

「っ……来るな、来るなよ……やめて……」

 どうにか逃げたいが足は動かず、右腕の痛みのせいでもうどこにも余力がない。

 不死の人食いの化け物がぎょろりと見開いた目で見据え、凶器を手に近づいてくる。

「お()さは、皮剥いで、生きてるまんまで食う……今ここで食っ――」


 雷轟がリオの目の前のものと音とを、全てかき消した。

 視界が真っ白い閃光に焼かれて、凄まじい轟音が男の声まで攫っていった。

 その衝撃はリオの髪の毛が全て逆立ったかのように感じさせ、心臓が激しく鼓動を打ったのにその音さえも遠鳴りのようにさせていた。

 何が起きたのかという疑問さえも、それは吹き飛ばしてただただ、リオは硬直していた。

 やがて一度、白く塗りつぶされた視界が擦れながら戻ってきた。リオの前に背中があった。


「かたじけない、リオ殿。

 詫びの言葉もございません。

 そのまま、しばしお待ちください」


 肩越しにリオを顔だけ振り返った緋天がそう告げると、その姿が掻き消されかのようになくなる。

 いつの間にか全身が焦げついていた男の体が宙へ吹き飛ばされ、それが右へ、左へ、中空で多方向から叩き飛ばれるように跳ねていき、最後にまた轟音と稲光があって男の体を地面へ叩きつける。

 ぶすぶすと煙を上げながら男は動かず、刹那遅れて緋天がまたリオの前へ姿を出す。

「神器は破壊しましたので、もう拙者が前後不覚に陥ることはないでしょう。

 して、これは一体、何なのでしょう?」

「…………」

「リオ殿?」

 返事がないことを不審に思って緋天がリオを振り返る。

「……リオ殿? リオ殿っ!?」

 リオは痛みに震えていた格好のまま白目を剥いていた。


 ▽


「……リオ殿? リオ殿っ!?」

 白目を剥いて固まるリオに緋天が慌てて声をかけて揺すり起こそうとしたが、血塗れの右腕を見て手を止める。サッと周囲を見渡し、遠くで巴が起き上がっているところを見つける。

「地獄に仏ですが、流している血も多いか……」

 両腕でリオを抱えて緋天は軽そうな足取りで巴の元へ走る。

「巴殿、リオ殿を診ていただけますか?」

「リオちゃん――酷い怪我……。緋天様、ひとまず中へお願いします。わたし、いつの間にか意識をなくしてしまって……緋天様もずっと眠られていたんです」

「恐らく神器によるものでしょう。先ほど、目が覚めまして、急ぎ駆けつけた次第で――」

 岩を組んだ原始的な住居に緋天が足を踏み入れかけ、その中の惨状に口をつぐんでから一歩下がり、巴に首を左右に振って見せる。

「ここは、目にしない方が良いかと。表ではいけませんか?」

「いけないということはありませんけれど、風もあって冷えてしまうでしょうし……。それに、ここが緋天様の仰っていた守り人の住処だったのなら、中を改める必要もあります」

「……承知仕りました。医術の心得があるとはいえ、余人にこれは目に毒でしょう。お気を確かに持ってください」

「え、ええ……」

 念を押されて巴は不安そうな顔をしたが、緋天は入ると決めるなりリオを抱えたまま入っていく。

 それに続いて巴はそこへ足を踏み入れて、想像を超えていたおぞましさに僅かに固まった。

 外観よりも中は広く見えた。奥の壁につけるようにして石を削り出したような大きな台がある。大人の男が横になっても余裕のある広い幅と奥行きがあるものだ。そこに乾きかけている人だったものが置かれていた。解体と呼ぶにはあまりにも雑がすぎる、壊れかけた人型のものと成り果てている遺体だ。隅には大きな、壊れかけの桶もあってそこに骨や頭が乱雑に捨てられている。骨にはまだ肉も多くへばりつき、虫が沸いているようなものまであった。床はこびりついた血液が黒く変色してマーブル模様を浮かび上がらせている。

「御免」

 緋天が作業台のような、そこにあった遺体に手を合わせてから、リオを寝かせるために傍へどかす。

「巴殿、お頼み申し上げます」

「え、ええ……。明かりをお願いできますか?」

「すぐに」

 寝かせられたリオを見て巴は眉根を寄せて、まず一番酷い傷に見えた右肘を見た。

 肘関節が完璧に抉り壊され、これを外科的に治すことは不可能だった。右肩を見ると、こちらも酷い状態で肩の骨どころか、筋肉まで断ち切られている。右腕は最早、再起不能の重傷だ。そして出血も酷かった。あまりにも出血しすぎている。普段でさえ色の白い肌がさらに青白く見えて、巴は首に指の腹を押し当てて脈を取って息を呑んだ。

「巴殿、火をお持ちしました」

「……緋天様、大変、もう、リオちゃんは……」

「まさか、もう息を――」

「いえ……まだ、息はあるけどどうにも、してあげられないわ。血を失くしすぎてしまっているの……」

「血が、足りぬと?」

「脈がもう弱すぎて……傷を塞げたとしても、失くしてしまった血は戻らないわ……。このまま、もう、時が過ぎるとともに……」

「そんな……。な、何か、手はないのですか? 血が足りぬのなら、どうにかしてリオ殿に血を与えるというのは? 拙者の血であれば」

「どうやっても無理よ。緋天様が血を流して、それをリオちゃんの傷口へ垂らせばいいというわけではないもの」

「しかし、それでは、リオ殿が……」

「……リオちゃん……」

 輸血というものは巴の知識にはない。

 巴のみならず、この日の本にはない知識と技術だ。

 傷を塞いで、ばい菌が入らぬよう消毒をするというのが外科手術の全てである。失血死に至りそうなほどに血を流した患者に対して、他人の血を分け与えるという医療行為そのものが発明されてはいない。

 自分の無力さに、巴は体を震わせながら呼吸が弱まっていくリオを見下ろす。

 師事する成衛であれば何か方法を見つけられるのだろうかと彼女は頭を回すが、このリオの状態からでは手遅れでしかない。

 小さな体をこれほどボロボロにするリオが痛々しく、胸を締めつけられる心地がした。何かしてあげたい、命を救ってあげたいと願うのに、医術を心得ているはずであるのに、何もすることができない。無力さに顔を伏せかけて、彼女は右手側の壁に丁寧に飾られているかのように配置されていた壺を見つけた。


「……緋天様」

「巴殿、何か、できることが? 拙者にできることならば、何でもお申しつけてください」

「その壺を、取ってくださいますか?」

「壺……こちら、ですか?」

 巴の視線を追って、緋天もそれを目に留める。

 四つ脚のついた盆のようなものの上に鎮座する、小さな壺だった。乱雑に血と腐臭と肉塊と骨が散らばっている空間の中、唯一、それだけが特別とばかりに置かれている。

「まさか、これは……」

「神秘の赤花、かも知れないわ。いえ、それに準じた、あの化け物の特別な何か……」

 そっと緋天が壺を巴のところへ持ってくる。口のところには布が張られていた。唾を飲み込んで巴がそっと、封をされているような布を取り払うと嗅いだことのない刺激臭を鼻腔が感じ取って口元を覆いながら体をよじる。緋天もまた、鼻を押さえた。鼻腔の奥を刺すような酸っぱい悪臭だった。壺の中に小さな匙と、それで10杯も掬えぬほどの僅かな赤褐色の液体が入っていた。

「……何もしなければリオちゃんは、このまま、死んでしまうわ」

「しかし……効能も分からぬ、薬どころか、毒であるか、どちらでもないかも知れぬものをリオ殿に? どう使うかさえも分からぬというのに」

「緋天様が意識を失われた時、リオちゃんがあれに深傷を負わせていました。けれど、その傷をなかったかのようにして、また現れました。……傷を癒す特別な力があったはずです。それが、これによるものなら」

「あまりにも危うすぎます」

「けれど、このままじゃリオちゃんが死んでしまいます!」

「っ……それは」

 そっと巴がリオの頬を撫でるように触れる。冷たくなりかけている。

 女の子と見間違いそうになるほど細い手足で、小さな体で、必死に戦ったのだと体中の傷が告げている。

 決して気の強くない、むしろその反対の性格だと彼女はよく分かっている。とてもやさしい子なのだと分かっている。それでもこれほどボロボロになるまで刀を振るえてしまう。

「リオちゃんはきっと緋天様のように、ご立派な志を抱いて苦境に挑む子ではありません。虫や蛇にいちいち驚いてしまうくらい、臆病な子なのに……わたしや、緋天様のためにって、きっと戦ってくれたんです。それなのに、諦めて、手をこまねいてこの子を死なせてしまうなんてできません。何もせずとも命が尽きてしまうほど弱っているのなら、この壺の中身で僅かでも快方に向かうことを願うしかないではありませんか……」

 小さな匙で巴は液体を掬う。

 もう、緋天は止めるようなことを言うつもりはなかった。

 彼女の言わんとすることは分かるし、緋天自身もリオをここで死なせてしまうのは心苦しい。

 危うい側面を緋天は目の当たりにしている。いっそ、助からぬ方が――と思わないこともない。しかしそれ以上に、リオの善良さも巴が言うように分かっているつもりだった。

 片腕でリオの状態を起こすようにしてから、巴は掬い上げた液体をリオの口へ垂らし、それを飲み込ませる。

 だが、何も反応はない。もう一杯、二杯、と壺の中の半分ほどを飲ませた途端、いきなりリオの体が大きく跳ねた。

「っごほ、ゲホッ!」

「リオちゃん……!」

「リオ殿、お気を確かに! リオ殿!」

 咳き込んだかと思うとリオはガクガクと体を震わせ、時折、釣り上げた活きの良い魚かのように体をびくんと跳ねさせる。この反応が良いものかどうか緋天には分からず、体を押さえながら巴を伺ったが彼女もまた同じようであった。

「と、巴殿、これで良いのでしょうか?」

「わ、分からない……。けれど、ダメで元々よ、こうなったら。リオちゃん、お願いだから、気を強く持って!」

「そんな、投げやりな――」

 顔を白くさせる緋天をよそに巴はさらに、リオの口へ液体を運んで飲み込ませる。体が拒絶するかのようにリオは激しく咳き込むように吐き出しかけたが、素早く巴はその口を塞いで強引に飲み込ませた。

 そうして壺の中身を全て飲ませてしまってからも、リオはずっと痙攣し、体を跳ねさせていた。


「何、して、いる……だあ、お()ら……!」

 どうか命を繋いでくれと願いながら必死にリオが暴れて体を傷つけぬようにと押さえていた巴と緋天は、背後から声がして振り返る。

「まだ、生きて――」

「いえ、都合がいいでしょう。拙者にお任せあれ」

 顔を青ざめさせた巴だったが緋天が短刀を抜き、地面を蹴ると瞬時にその姿が雷光と轟音に変じて戸口にいた男を突き飛ばすようにして消していた。

 緋天の短刀は拵えこそ、リオに貸したものと同じだが中身は鳴神(なるかみ)(つるぎ)という神器である。雷光、そして轟音を司る強力な神器で、持ち主である緋天はこの雷電の化身たる力を発揮することができる。

 いかなる名槍よりも疾く鋭い、雷そのものの一突きで男を突き飛ばしながら雷電の熱で同時に焼く。

 数百メートルはあろうかという距離を貫きながら瞬時に猛進して男の体が転がっていた大岩へ背中から衝突した。その拍子に大岩は木っ端微塵に粉砕される。本来ならば一撃で、意識どころか命まで刈り取るほどの攻撃だった。黒焦げになり、鳴神の剣に刺し貫かれた腹部から下は千切れた状態であっても男は生きている。

「虫の息とはなっても、死には至らない……。これは確かに異常ですね……」

 下ろしていた鳴神の剣を男の胸へまた突き刺すと、びくりと体が跳ねて痛覚がまだ生きていることを緋天は確かめる。

「答えなさい。あなたにとって、あの壺に入っていたものは何か。そしてあれを飲めばどうなるか。答えぬのであれば何度でも死ぬほどの苦痛を与えます」

「い、ぎ、ぎ、ぎいいい……や、めろお……!」

「答えなさい」

 冷徹に緋天が繰り返す。

「壺の中のものは何ですか」

「く、薬……薬だで……」

「飲む薬ですか? 塗る薬ですか?」

「飲むだ……! の、飲むと、お、おで、痛いがなくなるでよ……飲むだ……」

「一度にどれほどの量を? また、飲むとどうなりますか?」

「匙一回飲むだ……たくさん、飲むど……お、おかしくなるだよ……!」

「……あれを飲むと、あなたのように死ななくなるのですか?」

「で、でへ、ひひひ……あ、あんの、薬あれば……飲んでたら死なないだで……」

「先ほど、全て使ってしまいましたが、そうなるとあなたはどれほど生きられるのです?」

「全で……?」

 きょとんと男が愕然としたような、きょとんとしたような顔になった。

「空っぽです」

「あ、ああああ、ああああああああ! おらの、おらの命い、なくすつもりだあかあああ!?」

「つまり、いずれは死ぬということですか。分かりました。用は済みましたので、これにて」

 これ以上、男の声を聞かぬように緋天は無感動に、無慈悲に首を跳ね飛ばし、再生が遅れるようにと首の切断面からさらに縦に真っ二つに一振りで断ち切ってしまった。地面に転がった頭の薄い髪を掴んで持ち上げると、そのまま落として右足で思い切り遠くへ蹴り飛ばす。

(あの薬でこの人物は死なぬ体を維持していた。本来ならば一杯で済むところをリオ殿は壺にあった分を全て……。劇薬ほど負担は大きいと聞いたことがあるが、過剰投与で逆に危険が……? しかし、何もせねばそれまでだったということも変わらぬ真実。果たして、吉と出るか、凶と出るか……。いや、先ほどのリオ殿の異様な反応では、恐らくもう……)

 望みは薄いだろうと覚悟をしながら緋天は離れてしまった、岩の住居までを歩いていく。

 せめてしっかりと弔おうとか、そういえば結局、故郷や家族のことを有耶無耶にされたままでいたと考えている間に戻ってきてしまい、緋天はその中に入る。やはり、とても人の所業とは思えぬ酷い空間だった。

 巴が横にされているリオへ縋るように覆い被さっているのを見て、天命は尽きたかと緋天は口を開きかけた――その時に、声がした。

「――あの、ほんと……痛い、んですけど……」

「リオ殿……? い、生きているのですか?」

「え、緋天……? 起きてたの?」

 リオは目を開き、顔を引き攣らせつつも困惑し切った顔をしていた。


 ▽


「……何か、違和感が逆に追いつかない」

 柊尋岳が遠く、霞んで見えて足を止めたリオはぼそりと呟く。

 ぐちゃぐちゃに壊されて切断という処置をされた右腕の前腕から先も。

 鉈を落とされて筋肉ごとバッサリと断ち切られてしまっていた右肩も。

 関節ごと砕けて皮膚や肉の中から骨があらわになるほどぶち壊された右肘も。

 綺麗さっぱり、最初からそんな怪我などなかったかのようにリオの右腕は綺麗に治っている。

 それどころか全身にあった火傷の古傷も、大小無数の数えきれぬ様々な古傷も、新しかった傷も、何もかもなかったかのように消えてしまっていた。

「命を拾えたのですからよろしいのでは?」

「それはそうなんだろうけど……何だか、妙な気分というか……。体を丸ごと、新品にされたみたいな」

「けれど気分が悪いとか、頭が痛むといったこともないのよね?」

「……ない、です」

「ならば上々でしょうとも」

 リオは巴と緋天とともに柊尋岳を後にしている。

 怪我が一度に全て治ってから、悪い副作用がないかと数日は様子を見られていたが、どうもそういったこともないらしいと分かってまた旅歩きを再開していた。

 変な違和感というものを拭えずにいるが、ただそれだけで他に不調らしいものは何もない。

 が、巴と緋天はずっと、本人が無自覚なだけで変なところがあるのではないかと目を光らせていた。リオに伝えられてはいないものの、緋天は巴にあの薬が過剰摂取だったとは共有している。一杯で良かったものを、その十数倍は飲ませているのだから、何か変なことが起きるのではないかという危惧を持っている。

 何度か、2人は相談をしてリオにこのことを打ち上げるべきかと話したものの、リオのことだから過剰摂取という事実を知ったことで逆に気を病むのではあるまいかという不安が払拭できず告げられていなかった。ただでさえ、違和感が、違和感がと繰り返しているのが不安材料でもある。

 些細なことを敏感に、過剰に、反応して偏執的になって、いずれはあの男のようになるのではないか、という恐怖があった。そしてそれはリオも口にしないまでも、どこか気にする素振りはあって、失われていた手が生えるほどの薬なんて本当に大丈夫なのだろうかという呟きを巴も緋天も耳にしていた。


「ところで……これ、どこに向かってるんですか?」

「え? ええ……そうね、どこかしら……」

「と、巴殿、結局、巴殿の探しものはどうされるのです?」

「どう、しましょうかしらね……? リオちゃん、どう思う?」

 何故か一周して質問が自分のところへ戻ってきてしまい、リオは小首を傾げる。何だか巴も緋天もおかしいというのは勘づいているが、それが何なのかは分からないでいる。

「どう思うも何も……神秘の赤花は、探しても見つからなくて、その代わりにあった薬見たいのは……僕に、使ってくれちゃったんですよね……? あの、変な人も結局、干からびて死んじゃってた……って、緋天が言ってたし、あれを作るのももう、無理だって……」

「ええ。リオ殿に安静にしていただいている間、復活してまた来るような気配がなかったので見に行きましたが、奇妙なことに骨と皮だけの干物のようになっていました。……恐らく、傷を治せば治すだけ、あの薬を摂取しなければならなかったのでしょう。しかしそれができなくなったので、再生することが叶わずに死んだと見ています。……製法もあの男ならば知っていたかもしれませんが、仮に聞いていたとて、信憑性という点でいささか不安もありました」

「……そ、そうよね」

「……でも巴さん、どうしても、成衛先生って人を助けたいって」

「ええ……でもね、わたし、リオちゃんが元気になってからの間、考えていたの。

 どれほどの病も、どれほどの怪我も治せる薬だろうと、それで死を克服した人になってしまうのならば……もう、それは死んでしまうも同じなのではないかしらって」

「どういうことですか……? 死なないのに、死ぬのと同じ?」

「単純な話よ、リオちゃん。生きものは、いずれ死んでしまうから生きものじゃないかって。そこから死ぬことが失われてしまったら、もう、生きものではないものじゃないと思ったの。……成衛先生の病の苦しみは取り除いてあげたい。それに変わりはないけれど、神秘の赤花なんていうものに頼ってはいけないのかもって」

「しかし不治の病なのでしょう?」

「……治療法も探せばあるかもしれないわ。ううん、神秘の赤花なんてものよりも先に、治療法を探すべきだったのよ」

 風が吹いて巴が髪を押さえる。

 そうして彼女は青く澄んだ空を眺め上げた。

「うん、決めたわ。一度、成衛先生のところに戻って、また、治療法を探して旅に出るわ」

「左様ですか。……何やら憂いが拭えたようですね、巴殿」

「そうかしら。でも……リオちゃんと緋天様のお陰ね。どうもありがとうございます」

「いえ。拙者などは大したことなどできませんでした。リオ殿の身を削る苦労があってのことでしょう」

「痛かったよね、ほんと……」

「ごめんなさいね、リオちゃん……」

「あ、いえ、そういうつもりじゃ……。というか、僕だって別に」

「それは謙遜でしょう、リオ殿」

「そうよ。リオちゃんは胸を張っていいの」

「そう、なのかな……?」

 勝手に死にかけて、迷惑をかけたという認識しかないリオは眉根を寄せてしまう。

「リオちゃんが大変な思いをしてまで、わたしや緋天様を必死に守ってくれたでしょう? リオちゃんがいなかったら、あのお山で今ごろ、骨だけになっていたかも知れないもの。だからリオちゃんのお陰よ」

「……はい」

「では、巴殿は成衛殿のところへ向かうということですね。

 リオ殿は以前のお約束通り、しばらく拙者にご同行いただけますか?」

「え、あ……ハイ」

「お師様もそろそろ、拙者のいない気ままさより、拙者のいない不便さに音を上げているやもしれませぬ。すぐに合流できるでしょう。しばらくは一本道ですから、それまでは巴殿もご一緒ですね」

「ええ。何かあったらお願いね、リオちゃん」

「緋天がいればいいんじゃないかな……?」

「またご謙遜を。悪い癖となってしまいますよ?」

「いや、ほんと……何あの神器、やばいから……」

 気絶する寸前に見ていた緋天の神器の衝撃はしっかりリオの記憶に焼きついている。

 これまで色々と見てきたつもりのリオでも、あれは格が違いすぎると一目で分かってしまっている。

「拙者としてはリオ殿が蛇の目に切った啖呵も見事なものでしたよ。ええと確か……」

「やめて、何か恥ずかしいから!」

「いいではありませんか。巴殿も聞きたいのでは?」

「あら、気になるわね。教えて、リオちゃん」

「い、嫌ですよ。何か、あの、絶対に今、茶化してるもん!」

「泣く子ははしゃぎ?」

「だから!」

 ハハハ、と緋天にからかわれてリオは顔を真っ赤にしながらやめてと頼んだがしばらく笑いの種にされてしまうのだった。


 二代目・人斬り無迅と名乗った少年は失った右手を奇跡的な薬で取り戻した。

 しかし、五体満足の新品の体に生じている変化をまだ、誰も知らないでいる。


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