貝殻から念仏
「ねえ、結菜。ちょっとこの貝殻を耳に当ててみてよ。何か念仏の声が聞こえてこない?」
近所の浜辺。明里ちゃんが眉を顰めながら、私に渦巻き型の貝殻を手渡してくる。まっさかーと笑いながら私は貝殻を右耳に当ててみる。すると、明里ちゃんの言う通り、貝殻の中からお坊さんが滔々と念仏を唱える声が聞こえてきた。
「波の音が聞こえるなんてのはよく聞く話だけど、念仏が聞こえる貝殻なんて初めて見た。どうなってんだろう」
「多分、中にお坊さんがいるんじゃない?」
私は貝殻を右目で覗き込んで見る。貝殻の奥は光が届いていない関係で暗く、何があるかはわからない。それでもじっと見つめているとだんだん目がなれてきて、貝殻の奥の方にうっすらと建物のようなものが見えたような気がした。私は貝殻から目を話して、そのことを明里ちゃんに伝える。明里ちゃんはへえと声に出して驚いた後で、「ちょっと中に入ってみようよ」と提案してくる。
「所詮、小説の中なんだから、なんでもありじゃん」
どうやってと尋ねる私に明里ちゃんが呆れ顔で返事を返してきた。さもありなん、と私は納得し、早速私達は貝殻の中へと入ってみた。
貝殻の内壁はパステルブルーの縞模様で、表面はラメを貼っているみたいにキラキラと輝いている。一歩歩くたびに私と明里ちゃんの足音が貝殻の中を反響して、不思議な音を奏でる。そして、奥へ進むたびに念仏の音は大きくなっていっていった。その声に導かれるように進んでいくと、貝殻の奥の方にはこじんまりとした教会が建っていた。
「あら、見ない顔ですね。珍しい」
教会の中に入ると、真正面の教壇の上に正座ずわりをしていたお坊さんが念仏を止め、声をかけてくる。
「なんで教会なのにお坊さんがいるんですか」
私達は教会の奥へと進みながらお坊さんに聞いてみる。
「ああ、この教会は昔耶蘇教の人間が建てたものでしてね、それを有効活用させてもらってるんです」
どうせなんで聞いていったらいかがですかというお坊さんの勧めに従って、私と明里ちゃんは一番前の長椅子に腰掛ける。私が座ったのを確認すると、お坊さんが念仏を再び唱え始める。横を見ると、立派なステンドグラスが飾られていて、外から差し込んでくる光を反射してキラキラと輝いていた。そしてスタンドグラスを見る私の隣で明里ちゃんが退屈そうにあくびをする。
念仏がサビのパートに入った辺りで、私達が座る長椅子に両手両足の生えたマグロが座ってきた。私が軽く会釈をすると、マグロの方も軽く会釈を返してくる。マグロの左手には真珠でできた数珠を二、三個つけていた。
「若いのに感心ですね」
マグロが日本語で話しかけてくる。退屈そうにしていた明里ちゃんがこちらを振り向き、マグロに話しかける。
「マグロの世界にも仏教って広がってるんですね」
「息苦しさを感じながら生きているのは人間だけではありませんから。それに海の中は何もなくて退屈ですし」
「マグロさんのご趣味はなんですか?」
「ドラッグでラリりながら、部屋で逆立ちをして、ラモーンズの電撃バップを逆再生で聞くことです」
それから私達は並んでお坊さんの念仏を静かに聞き続けた。念仏が終わり、説法に入り、だらだらと要領のつかめない長い話が続く。だんだんと眠たくなっていって、こくりこくりと船を漕いでいると、不意にチーンとお鈴を鈴棒で叩く音が教会に響き渡り、私ははっと目が覚める。教壇に座っていたお坊さんが立ち上がり、帰り支度の用意を始めているのを見て、もう法話が終わったのだと気がついた。
大きく背伸びをした後で、同じく隣で寝ていた明里ちゃんを起こして帰ろうと伝える。それから私の隣に座っているマグロさんに気が付く。マグロさんも法話が終わったことに気がついていないのか、目を閉じ、立ち上がろうともしていない。
明里ちゃんが気を利かせてマグロさんの肩を揺らし、終わりましたよと伝えてあげる。しかし、明里ちゃんがいくら呼びかけてもマグロさんの反応はない。明里ちゃんと私は顔を見合わせる。そして、明里ちゃんがマグロさんのエラにそっと手を当てた。
「……死んでる」
明里ちゃんがつぶやく。異変を察知したお坊さんが私達のもとに歩み寄ってくる。私と明里ちゃんが事情を伝えると、お坊さんは悲しげな顔を浮かべ、両手をあわせて頭を垂れた。
「生きとし生けるものは必ず死を迎えます。それでは……いただきましょう」
「そうですね……」
お坊さんの言葉に明里ちゃんが頷く。私はあのうと恐る恐る手を上げて、二人の話を遮った。
「えっと、それってこれからマグロさんを食べるってことですか?」
「ええ、そういう意味ですよ」
「それって大丈夫なんですか?」
「大丈夫とは?」
「何というか、その……倫理的にというか、宗教的にというか」
「ああ、そういうことですね」
お坊さんが穏やかに微笑みながら答えてくれる。
「大丈夫ですよ。所詮は小説ですから」
私はなるほどと頷いた。お坊さんがマグロさんの頭の方を持って、明里ちゃんと私で尻尾の方を持つ。いっせーのーで持ち上げて、教会の奥へとマグロを運んでいく。設置されていた扉を開けると、中はこじんまりとした台所になっていて、私達は四苦八苦しながらマグロを流しのところへと横たえた。
「けしからん肉付きですな。あら汁をとってやりましょう」
お坊さんは戸棚から解体ショーで見るような長い包丁を取り出した。それから手慣れた手つきでさっきまで私たちの隣で説法を聞いていたマグロを解体していく。切り落とした頭をお坊さんは大きな寸胴へと放り投げ、それから火にかけてゆっくりと煮ていく。
「不思議ですよね。生まれる時はみんな同じように母親の子宮から生まれてくるのに、死ぬ時はみんなそれぞれ違った死に方をするなんて」
「マグロさんは卵から生まれたんじゃないですか?」
「知らないんですか? 最近のマグロは全部、人間の女性から生まれてくるんですよ?」
十分にあら汁を取った後で、お坊さんが味噌を溶く。味見をし、三人分のお椀に振り分けていく。最後に小ネギをパラパラと振り分け、私たちが座るテーブルに届けられる。お椀からは湯気が立ち上っていて、鼻を近づけると美味しい味噌の香りが漂ってきた。いただきます。私たち三人は命への感謝を口にして、そのままマグロのあら汁を食べ始める。
「ねえ、結菜。もう飽きちゃったから終わんない? この小説」
あら汁を食べ終わった後で、明里ちゃんがツンツンと私の肩を指で突きながら提案してくる。
「お坊さんも言い残したことないでしょ」
「そうですねぇ。特にないです」
お坊さんがアラ汁のお茶碗を置きながら、のほほんと返事をする。
「私も別にいいけど」
「じゃあ、さっさと終わらせて」
「いや、言い出しっぺの明里ちゃんが終わらせてよ」
「無理無理。一応、この小説は結菜が主人公なんだから結菜が終わらせてよ」
明里ちゃんの言うことにも一理あったので、私は渋々受け入れる。
「だけど、どうやって終わらしたら良いの?」
「手をパンって叩いて『終わり』って言えば終わるんじゃない?」
私はなるほどと頷き、手を叩いた。
「はい、終わり」
「駄目駄目。そんな小さい声じゃ終わるもんも終わらないって。もっと大きな声で言わないと」
「はい、終わり!」
「もっと大きな声で」
「はい、終わり!!」
「もっともっと!」
私は息を吸い込み、そして、両手をパンっと勢いよく叩く。
「はい!! お終い!!!」
私の声が部屋の中に響き渡り、そしてこの小説は終わった。