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それから一月がたち、人間たちが都市へ攻め込んできた。
その戦いで何があったかなど、深く語る必要もないだろう。人間たちは万を超えるゴブリンの群れに対し、同じく万の軍勢で挑んできた。ゴブリンキングは都市の城壁を活かし、抗ったが、ゴブリンと人間、ほぼ同数では勝ち目はなかった。
ゴブリンは負けた。それだけの話だ。
ゴブリンキングは壊滅した城の地下を一人歩いていた。周囲にはゴブリンと人間の死体が転がっている。地下での戦いは同士討ちで終わったらしい。地上からは勝利した人間の歓喜の声と、首領であるゴブリンキングを探す声でこだましていた。ここにいるのは、階級の高いゴブリンだけだったから両者全滅にまで持って行けたのだろう。地上はおそらく、無数のゴブリンの死体たちを踏みつけながら、大騒ぎをしている。
地下への入り口は魔法で塞いだから、たどり着かれるまでにはまだ少し時間がある。
『……いや、だ』
死にたくない。ゴブリンキングは願う。だが彼の腹には大きな穴があき、背中には何本もの剣や槍が突き刺さっていた。幾匹ものゴブリンを犠牲にここまで逃げてきたが、傷口からは血もほとんど流れていない。流れる血も大して残っていない。
キングが逃げられたのは、ジェネラルがその身を挺してキングを守ったからだ。ジェネラルはキングをかばい、誰よりも多くの人間を殺して、死んだ。ジェネラルだけではない。どのゴブリンも全力を賭して、キングの命令に従って、死んだのだ。
そしてその死の手は、キングををもつかみ取ろうとしている。致命傷であった。もし傷で死なないとしても、寿命は来ている。体の端から、生気が抜けていく感覚がした。
どちらにせよ、ゴブリンキングに明日はない。
『いやだ。死にたくない。死にたくない。死にたく――』
幼子のように呻きながら、ゴブリンキングはふらふらの足を動かす。
片目だけの、くらむ視界でたどり着いたのは、最後に孕ませた女のいた地下牢。女を孕ませてちょうど一月。キングの脳裏に、最期の子のことがあった。
けれど、地下牢の入り口が見えた直前、体が力を失い、キングは倒れた。震える手を虚空に伸ばすが、その手は何もつかめない。
『わ、我は死ぬのか、何も残さず、何もなせず、このまま!』
嫌だ。ゴブリンキングは、一匹のゴブリンは想う。ゴブリンは未だ満たされていない。自分という存在がいた証明をできていない。
ただのゴブリンとして生まれ、こざかしく生き延び続け、群れを作って人間に殺された。ただそれだけの。
何も変わらない。他のゴブリンたちと何一つ変わらない。ゴブリンキングが、ゴブリンキングだけであったものは何もない。
自分は、特別ではない。
このまま消えても、一匹のゴブリン風情が死んだというだけではないか。
そんなこと、認められるはずがなかった。
死の淵にてゴブリンはあがく。手を伸ばし、目を見開く。その手は決して届かない先へと伸び、その目ははるか遠くの希望を見出さんとする。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
――嫌だ。このまま何も残さずに死ぬのは。
嫌だ――
ゴブリンの左目がかっと見開かれる。目に熱い熱があった。その先にあったのは子がいるはずの地下牢。その暗闇を見据えて、
無念と絶望にまみれ、一匹のゴブリンは誰にも知られず、何も残せずに息絶えた。
かに、思えた。
ゴブリンキングの目指した先、地下牢の最奥で女は死んでいた。自害したのだろう。首にばっくりと開いた傷口からは赤い血が流れ、手には砕けた石畳のかけらが握られていた。
そして、女の下腹部からも血が流れ、そこには一匹だけ、小さなゴブリンがいた。
外の惨状など、母の死にざまなど知ったことでないとのんきに眠る一匹のゴブリン。不意に、ゴブリンの目が開かれた。
『ギ?』
左眼にほのかな熱を感じたゴブリンはペタペタとその部分を抑える。だが怪我をしているわけではなさそうだ。問題なし、と判断し、ゴブリンはまた眠る。
その目が人の血のように赤く輝いていることなど、幼いゴブリンには知る由もなかった。
*
さて、一匹のゴブリンキングは何も残せなかったと思い死んだが、本当にそうだったのだろうか。
もちろん違う。彼は大きく二つのものを残した。一つは歴史。彼が集めた万を超えるゴブリンの群れと人間との戦争は、結果として人間が勝利したが、数千もの人命が失われた。
そもそも、一種族の魔物に国軍が出張ることなど滅多にあるはずもなく、人間たちは群れを作ったゴブリンの危険性を再認識することになる。
そしてもう一つ。ゴブリンのキングの死の間際に覚醒し、最期の子に継承された“血の玉座の瞳”。それはゴブリンたちの運命を変えていくこととなる。
無名のゴブリンは、己の生きた証を残せたのだ。
ゴブリン・ゴブリン・ゴブリン 終わり
これにておしまい。ここまで読んでいただいてありがとうございました。